近況

 私が編集チームに入っていた、英語ジャーナルの特集企画「Green Criminological Dialogues: Voices from Asia(グリーン犯罪学の対話 アジアからの声)」がオンライン出版されました。

www.crimejusticejournal.com

Goyes, D. R., Komatsubara, O. ., Droz, L. ., & Wyatt, T. . (2022). Green Criminological Dialogues: Voices from Asia. International Journal for Crime, Justice and Social Democracy, 11(1). https://doi.org/10.5204/ijcjsd.2108

 私にとって、初めてのエディターの仕事でした。企画がスタートした時点では、私は英語の査読論文を書いたことがなかったので、何をすればいいのかさっぱりわからなかったのですが、エディターによる論文の修正依頼や評価の検討、企画の整合性を議論する打ち合わせを重ねて、最後の出版までこぎつけて、本当に良かったです。

 この企画のきっかけは、2019年の国際学会で、David D. Goyesさんの報告が面白かったので声をかけて、メールアドレスを交換したことです。その一週間後に、Davidさんから企画の提案があって、私は「いいね、面白そう」と安請け合いしたのでスタートしました。その後、まだ日本にいたLayna Drozさんも企画に誘って、チームに入ってもらいました。企画を通して東アジアのいろんな研究者と交流できたのは、Laynaさんのおかげでもあります。英語で、異なる文化背景の人と常に連絡をとり続けることになるので、私にとってはなかなか大変でもありましたが、楽しかったです。なんでもやってみるものですね。

 ベルギーは晴れの日が続き、すっかり春の気分です。このまま冬が終わってくれるといいなあと思っています。ついに滞在許可書も届いて、今年の年末までの滞在はほぼ確定しました。手続きが通常より遅れてヒヤヒヤしましたが、大学の人事課の担当者が親身になってくれて、行政の機関にレターを書いて早く許可書を出すようにプッシュしてくれたようです。ベルギーは滞在許可を得るのが難しくて有名なようで、苦労する人は多いとのことですが、私もそれを味わうことになりました。新規の申請でも延長だからマシかと思いましたが、やっぱり大変でした!

 ウクライナの紛争の状況はよくありません。原発が攻撃されたとのことで、私もベルギーの薬局で安定ヨウ素剤をもらってきました。住民カードがあれば無料でもらえます。40歳までなのですが、私はギリギリもらえました。加齢によって放射線に対する感受性は下がっていきます。万が一、なにかあったときに、私はともかく周りに若い人がいる可能性もあって、そういうときに咄嗟に渡すのにもいいかな、と思って、お守りがわりにもらってきました。そんなことは考えたくもないですが、どうしても原発の攻撃、その情報に触れると、福島原発の事故の記憶がよみがえりますし、その関連資料がざーっと脳内に再生されました。私自身は、原発事故について全く詳しくはないですが、それでも動揺はしました。

 紛争に対する、こちらの議論はここ1週間で冷静になってきたようにも思います。24日の攻撃開始直後に飛び交った言葉は、パニック状態でのものだと考えたほうがいいんだろうと今は考えています。それと同時に、「難民」をめぐる問題の難しさは浮かび上がってきています。以下の一連の、西ヨーロッパおよび米国の言説空間で、ある人が「白人」かそうでないかの線引きは、偶発的に決まるという指摘は考え込んでしまいました。

 東欧が「緩衝材」のレトリックとして使われてきたこと。ユーゴスラビア紛争において、バルカン半島の人々は「白い」とみなされなかったこと。ロシアもまた、白いとみなされず、プーチン大統領が「アジア」として表象されることの政治性。こういうことのなかで、この方は今必要なことは「白人」と「非白人」の扱いを対比するシンプルなモデルについて論争するよりも、「なぜウクライナはこの瞬間に白人として扱われるのか」と問うたほうがよいのではないか、と提起しています。

 先日、オーストリアのヴィーンにいる友人を訪ねたところで、私はもっと東側について学びたいと思っていたところで、この紛争が起きました。なので、上の指摘はとても深く受け止めています。そして、中東欧については、本当にこれまで知らずにきてしまって、そのことを残念に思うと同時に、「私はアジアですからな」というなんとも言えない気持ちになりました。それはともかく、中東欧の研究者の衣笠太郎さんが、情報を精査・集約してTwitterで出しておられるので参考にしています。

 こういう付け焼き刃の勉強で何かがわかるわけではないとはわかっていますが、少しでも努力するしかないだろうとも思っています。このタイミングでヨーロッパに居合わせたことは、なにかの巡り合わせなんでしょう。

近況

 本屋さんの総合通販サイトのhontoさんで、私の書いた短いブックレビュー(ブックツリー)が公開されています。ヴィクトール・フランクル「夜と霧」、石原吉郎「望郷と海」、緒方正人「チッソは私であった」、田中美津「いのちの女たちへ」、上岡陽江・大嶋栄子「その後の不自由」という、自分が好きな本をそのまま並べています。ご関心ある方は以下のリンクからご覧ください。

honto.jp

 拙著「当事者は嘘をつく」は、Amazonだと配送が遅れ気味ですが、hontoさんには在庫があります。お急ぎの方はこちらからお求めたいただければ幸いです。

honto.jp

 しばらく品切れだった「性暴力と修復的司法」も在庫が復活しています。

 ロシアのウクライナへの侵攻で、戦争状態に突入してしまいました。私の住んでいるベルギーは、ヨーロッパの西の方なので比較的、ウクライナとは離れています。とはいうものの、雰囲気はざわざわしていて……私の身近には、バルカン半島や中東、アフリカなどの地域の出身者がいて、その人たちはウクライナ侵攻に対して、激烈に反応する「ヨーロッパ人」に対し、「これまでも繰り返し紛争は起きてきた」「人々が殺され、難民が溢れ出ていた」ことを指摘しています。私自身、「ヨーロッパでこんなことが起きるなんて!」とアジア系の私に言ってくる人に対して、反応しづらいです。もちろん、ウクライナの現状に対する怒りや悲しみはありますし、一刻も早く平穏が訪れることを心から願っていますが……

 いま、手元にないのですが、デリダの「他の岬」を読みたいと思っています。新装版が出ていることに気づきました。

 実際的には、ロシア上空が閉鎖され、日欧の飛行機が次々とキャンセルされていて、コロナ渦以外の理由でも、日本への帰国は難しくなってきています。また、昨年末に申請した滞在許可書の延長の申請の返答が、まだベルギー政府から来ておらず、やきもきする日々です。オミクロン株を中心としたパンデミックは、こちらではかなり縮小してきてほっとしたと思ったのに、別の理由で落ち着かない生活となってしまいました。

本の紹介

 3月末に「誰も加害者を裁けない」という本が出版されます。これは、京都の亀岡で起きた、集団登校中の子どもたちの中に車が突っ込んで、巻き込まれた方が亡くなったり負傷されたりした事件についての本です。著者の広瀬さんは私の古くからの知り合いで、京都新聞の記者としてこの事件について継続した取材を行ってきました。目次から察するに、時間をかけてご遺族の声を聴こうとしながら、マスメディアの事件報道の意義を問うた本なのだろうと思います。加害者の償いや、加害者の更生支援に取り組む被害者の話もありますので、ご関心ある方はぜひご予約ください。

 そのほかにも、以下の二冊を紹介しました。一冊目は、編者のおひとりである飯田さんからご恵投いただきました。飯田さんは、ソーシャルワーカーとして、刑務所に来た人たち、犯罪や暴力の経験がある人たちと関わってきました。この本では具体的を例示しながら、加害者と呼ばれる人たちが、社会で暮らしていく道を探す方法の模索が、複数の著者によって提示されています。また、マイノリティで逸脱行為に至った人たちの、直面する困難を、ソーシャルワーカーがどう支えるのかについての話もありました。「加害者と呼ばれるのは、どんな人たちなのだろう」「かれらは、変われるのだろうか」と思う人におすすめです。

 二冊目は、「沖縄とセクシュアリティ社会学」というタイトルの本です。著者の玉城さんとは、研究会でお会いしたことがあります。博士論文をもとにした研究書です。まだ手に取ったばかりですが、後半部分だけ目を通しました。沖縄における歓楽街の浄化作戦の結果、働いていた人たちが居場所をなくしていくさまが資料に基づいて描かれていて、大変勉強になりました。全体を通して精読したいと思う本です。

 

 

近況

 拙著『当事者は嘘をつく』が増刷になりました。大変ありがたいことです。現在、アマゾンでは在庫切れでお手元に届くまで時間がかかりますが、hontoですと通常配送が可能なようです。また、全国の本屋さんに配本されていますので、お近くの店舗にお問合せいただいたほうが早いかもしれません。

honto.jp

 ツイッターなどでもたくさんの反響をいただいて、ありがたい限りです。高島鈴さんに、「人文書新刊・近刊ウォッチング」でとりあげていただきました。

wezz-y.com

 また、首藤淳哉さんに書評をいただきました。「今年のベスト級の一冊に出会ってしまった」とのことで、恐縮しています。

honz.jp

 あちこちで話題にしていただいて、嬉しいですし、無事に売れて本当に良かったです。他方、本人は、実質的には全国的にカムアウトしてしまった状況なので、ものすごくしんどいです。私はひたすらこのブログでも「声を上げる必要はない」と言ってきましたし、当事者のカムアウトのしんどさについて書いてきたので、そこは遠慮なく「私はしんどい」と書いておこうと思います*1

 ツイッターをやめたのは、この本とは関係なかったのですが、「アカウントがなくてよかった」とも思いました。たぶん、私の手に余っただろうと思います。たくさんの人が言及してくださることは嬉しく、反応したい気持ちもあります。反面、そもそも「本の作者がSNSで読者の感想を読む・反応する」というのはここ数年できた慣習なのだなあと改めて思ったりしています。いただいたコメントはそのまま胸にしまっておくことにしました。

 だいたい、私はカムアウトすると何か自分の大事なものが壊れるというジンクスがあるのですが、今回はパソコンが壊れました*2。身代わりとか、依代とか、そういうものだろうと思っています。呪術的思考のもと、生きております。しんどいので、ずっと呪術廻戦を漫画で読んでいました*3。最強の五条悟でも、呪術界の改革がなかなか進められないのだから、われらが学会の性差別がなかなかなくせないのは仕方ないなあ、などと考えていました*4

 それから、ウェブメディア「Modern Times」で連載していた修復的正義のシリーズの、第2回、第3回が公開されています。2回目では、具体的に修復的正義で行われる対話の様子を、海外の事例をアレンジしてわかりやすく提示しています。3回目では性暴力被害者の視点から、修復的正義の実践にどのような意義があるのかを書いています。「Modern Times」での修復的正義についての連載はこれで終わりですが、春にはまた別のテーマでのシリーズを執筆予定です。

www.moderntimes.tv

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 研究の方は、「風の谷のナウシカ」に関する英語論文を書いているところです。今年度、三本目の英語論文なので、熱心に研究していると自分でも思います。無事に書き終えて、出版まで漕ぎ着けるように頑張りたいです。6月は、国際学会が3本あるのでクラクラしますが、欧州はほとんど対面開催が再開されているので楽しみです。

 学会を対面に戻すか、オンライン継続かの議論はあるようです。私の経験から言うと、それなりに学会に知り合いのいる中堅〜ベテランはオンライン開催でも問題ないと思います。むしろ、移動の手間が減り、費用も削減されるのでメリットが大きいようです。他方、院生や初期キャリアの研究者にとって、オンライン開催は厳しいものだと、個人的には感じています。知り合いもおらず、言語に不安がある状態で、オンラインで親交を深めるのは至難の業です。私自身、コロナ渦の前にランチタイムや休憩時間に話かけて、短い会話でもお互いの顔を見てやりとりした経験が、今の仕事に繋がっています。対面開催だと、会場移動のために一緒に歩いたり、時間を持て余して暇をしたり、隣に座った人に挨拶がわりに話を始めたり、という偶発的なコミュニケーションが多発しますが、オンラインはそういう「隙」がありません。もちろん、メールやチャットでも可能だと言う意見は知っていますが……これは、大学院のゼミなどにも言えることで、「オンラインで良い」とはとても考えられないと、私は思っています。

*1:こういうのはすぐ忘れてしまうし、あとから「大丈夫だった気がする」と思いがちだというのもあります。

*2:自分のミスなので、自業自得なんですが……

*3:アニメはこちらで配信がありません。映画も観れていません、残念!

*4:でも、自分の育てたお気に入りの弟子によって、腐った業界を変えるという発想は、あんまりよくないのでは?と五条さんに言いたい気持ちはあります。

新刊発売&オンラインイベントのお知らせ

 ついに私の新刊『当事者は嘘をつく』が発売になりました。

 実はまだ私は、本をこちらに転送してもらっているところで、実物は手に取っていません。なので、「本当に出版されたのだなあ」とのんきなことを思っている間に、たくさんの感想をいただいて恐縮しています。本当にありがとうございます。付き合いの長い仲間たちも、早速本を読んでメッセージをくれて、お互いに生き延びた経験が「過去になったこと」を分かち合ったりしました。当事者、研究者、支援者、そして本が好きな人たちがそれぞれの立場で、私の書いたものを受け取ってくださっていて、すごくありがたいです。

 同時に不思議な感覚ですが、出版された本はもう「私のもの」とは思えないですね。学部生の頃に、芸術学の授業で、芸術作品は「作者のもの」でも「鑑賞者のもの」でもなく、「作者の創作行為」と「鑑賞者の解釈行為」の間に媒体としてあるというような話を聞いた記憶がうっすらあります。そのときに黒板に描かれていた図を思い出したりしていました。もちろん執筆した責任は私にあるのですが、所有物にはならないのが、文章を書くということの面白さだと再認識しています。今後も、いろんな人のところへ私の文章が旅立って欲しいです。

 そして、出版記念のオンラインイベントを開催していただくことになりました!一つ目は栗田隆子さんの主催される、Twitterの「スペース」という機能を使ったイベントです。こちらは、スマートフォンTwitterのアプリを使うことで聴けるようです。参加無料です。

2022年2月8日 21時(日本時間)から 参加費無料

https://twitter.com/i/spaces/1nAKEYqgPwXKL?s=20&t=z-zCbBeK7TQTxQ90IAJTlg

 

 栗田さんとは、「ズレフェミ屋」として文学フリマに細々と出展して一緒に本や冊子を頒布してきた仲です。きっかけは、栗田さんが関西に来られたことでした。いまは栗田さんは関東、私はベルギーで物理的に離れてしまったのですが、オンラインで話す機会があるのは嬉しいなあと思っています。*1栗田さんの出された本は以下で、とってもおすすめです。

 二つ目は代官山Tsutayaさんが企画されるオンライントークのイベントです。カウンセラーの信田さよ子さんとお話しします。信田さんには帯にコメントをいただきました。こちらは、ズームによる有料配信で事前に申し込みが必要です。

2022年2月25日(金) 19時(日本時間)から

参加費 1300円(書籍付きのセットプランは3480円)

https://peatix.com/event/3149551

 

store.tsite.jp

 信田さんとの出会いのきっかけは、たぶん私が信田さんの本を批判含みで取り上げたことだろうと思います。そのとき、私の記事を真っ向から受け止めてくださったので「えらい人*2に喧嘩売ってしもうた」とビビったことを今でも覚えています。次の記事です。*3

font-da.hatenablog.jp

 偶然ですが、この本も筑摩書房から出ています。いまは文庫で手に入るようです。私は信田さんとは、シンポジウムで短い時間、議論したことはあるのですが、正面からお話しするのは初めてです。どうなるのか全くわかりませんが、聞いてる方が面白く聞けるものになればいいなあと思っています。

追記

 栗田さんとのオンライントークの日付が間違っていました。ごめんなさい!!

 

*1:私はこんなにインターネットが好きなのに、自分にとって「家が近い」ことが存外、大切だったんだなあと最近思っています。私の親しい人のほとんどは、関西近辺か水俣かベルギーにいる、もしくはかつて住んでいた人たちです。なので、コロナ以降のオンライン化に心理的についていけてないところがあります。今回のような利便性はよくよく承知してるんですが……

*2:これは関西弁の「えらい人」で「偉人」とはちょっとニュアンスが違います。「飛び抜けた人」というような意味です。

*3:13年も前で、まだ研究者になる道筋も見えていない頃です。今だと「絶対こうは書かない」と思う文章がいくつもあって、読み返すと「うわあ」と思います。たぶん、今書いてるものに対しても、10年後は思うんでしょうが。

修復的正義についてのweb連載が始まりました。

 本日創刊した「Modern Times」というwebメディアで、修復的正義の3回シリーズを書いています。無料ですのでご関心ある方はぜひアクセスしてみてください。最近、話題になっている「キャンセルカルチャー」の話題から始まり、なぜ、暴力や犯罪の加害者の声を聞くことが重要であるのかを、フェルナンド・アラムブルの「祖国」を通して述べています。次回も近々公開予定で、より具体的な修復的正義の実践事例を紹介します。私にとっては初めてのウェブメディアでの記事の執筆になりますが、良いものにしたいと思っています。

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 裏話としては、プロフィール用の写真を撮らねばならず、悪戦苦闘しました。ちょうどパートナーがこちらにきていたので、撮ってもらったのですが、恥ずかしいし、照れくさいし大変でした。「本を読んでいるところか、考えているところ」という指定があったので、実際にいつもどおりの風景を撮ってもらうと、机に向かう背中と壁しか映ってなくて「これはどうすれば……?」と思いました。何枚か頑張って撮ったのを、いい感じに加工していただいて、研究者っぽく見えるようになっていました。プロの力は素晴らしいです。写真を求められることも増えたので、どこかでちゃんと撮らないといけないなあ、と思っています。

 ところで、「キャンセルカルチャー」については、ネットでも議論が続いているようです。特に大学の非常勤講師の雇用については、私も当事者にあたります。いま、非常勤講師の問題は複雑になっていて、ここ数年、長く続けてこられた方は無期転換で雇用が守られることも増えました。他方、新規参入者は非常勤講師の職を得ることも難しいですし、もともとの契約書に年限が明記されている(実質、雇い止めの予告)ことが多いです。私自身、日本で非常勤講師をしているときには、ちょうど狭間の世代にあたり、無期転換の対象になりませんでした。働いている時は毎年、契約を更新していただけるのかとても不安でした。もちろん、定職への応募も毎年、書類をたくさん出しますが、なかなか通りません。

 こうした不安定な雇用状態を改善していくことは、多くの非常勤講師の切望だと思います。だからといって、学外の常勤講師に嫌がらせをすることが許されるわけはありません。また、それらに対する批判が出るのも当然のことでしょう。私は、重要なのは「キャンセルカルチャー」を批判することではなく、人事プロセスの透明化と民主化であると考えています。もちろん、いまの正規の大学教員になかにはそのために尽力しておられる方がいるのも承知しています。大学運営の実務にあたる上では、単純な業績主義ですまないだろうことも理解しています。また、これらの状況をうんでいるもっとも重要な要因は大学予算の削減(特に人件費削減)でしょう。運営する側にも多大な負担がかかっていることは推察はできるのですが、もう少しでも状況が良くなることを願っています。

 さらに、研究のグローバル化が進む一方で、海外で研究を発展させることが、どんどん難しくなるように思っています。私のように、博士号をとったあとに、学振PDその他奨学金などを利用して在外研究をする場合は、全ての非常勤講師の職を手放して渡航することになりますし、帰国後は完全にゼロからのスタートになります。ですので、もし私が無期転換の対象になっている場合は、渡航をためらったかもしれません。理想は、定職に就いてからサバティカルなどで在外研究にあたることでしょうが、今のジュニア研究者はそんなことは全く期待できません。そういうわけで、今はCovid19の影響で状況が見えにくくなっていますが、在外研究を考えるジュニア研究者は減るかもしれないと思っています。必ずしも海外での研究経験が必要なわけではないですが、自分の研究を発展させたいと思う時、就労状況が原因で大きな葛藤が生まれる現況はあまり良いとは思えずにいます。

 最後にこれらのことを言及することも、私のような定職に就かない研究者にとってはためらうことです。文科省や学会も無記名での調査などを行うようになっています。少しでもこれらの声が届くことを祈っています。

高畑勲「かぐや姫の物語」

 遅まきながら、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を観た。公開された頃に、サバイバーの友人から「あれはDVとか性暴力の話だ」と聞いていたのだけれど、全くその通りだった。

 物語は原作の「かぐや姫」をトレースしている。竹から生まれた姫は、おじいさんとおばあさんに愛されて、野山を駆け回る元気な少女としてすくすくと育っていく。近くの子どもたちと遊び、少年・捨丸に惹かれていく。ところが、おじいさんは「この子を高貴な姫に育てなければならない」という使命感に駆られて、姫を連れて都に引っ越し、教育を受けさせる。姫は野山を恋しがり、おばあさんと庭で草花や虫を育てて心を慰める。ところが、美しい姫の評判は都でも噂になり、求婚者が殺到するようになった。彼女は自分が、ひとりの人間ではなく、珍しい宝物のように陳列され、獲得の競争の賞品になっていることに気づき、ひどく傷つく。意趣返しとして、求婚者たちに無理難題を突きつけると、みんな悪戦苦闘する。その姿を、姫は最初は笑っていたのだが、だんだんとかれらを傷つけ、最後には無理をした一人が死んでしまったことに衝撃を受ける。罪悪感に苦しむ姫。さらに、帝にみそめられて強かんされかける。そのとき、彼女は自分が月の世界からきたことを思い出し、その迎えがくると悟るのだ。おじいさん、おばあさんに月に帰らねばならないことを告げ、美しい音楽を奏でる楽隊に彼女は連れ去られ、この世界の記憶を失ってしまう。

 水彩画で描き出されるアニメーションの世界は美しい。そのなかで、ときおり、姫が差別や暴力に晒され、傷つくために引き攣った表情が大写しになる。特に帝による強かんは、源氏物語の空蝉の章と重なるが、ここではっきりと「性暴力である」ということが画面から伝わってくる。だが、私が一番動揺したのはこれらの出来事が終わったあと、傷つき苦しむ中で、彼女が幻想のような世界に入っていく場面だ。彼女は、大人なった捨丸と再会し、「あなたとならきっと幸せになれた」と語り、縦横無尽にこの世界を飛び回る。二人が結ばれるかのような場面のあと、それらは現実に戻って消えてしまう。このとき彼女が語る捨丸との未来は、幼い少女が夢見るような地に足のつかない稚拙な空想である。観客も「これはきっと現実化しないのだ」と思いながら、彼女の夢のなかの幸せをともに味わうことになる。そして、夢からさめ、月から帰ることになった彼女は「この世界に残りたい」と切実に言い始める。月から逃げ出して、この世界に生まれ落ちてこんなふうに生きてよかった、もっと頑張ればよかったと語るのである。私はそこで泣いてしまった。彼女は都に連れられてきてから、いいことなど何もなかった。この世界を憎んで、恨んで、見切りをつけて月の世界に旅立ってもよかったのだ。

「私がこの世界に抱いたのは幻想でした。やっぱり月の安寧な世界のほうが幸せ」

 そう言ってもよかったはずだ。なのに、彼女はこんなクソみたいな世界なのに、「ここでもっと生きたい」と願い、生まれてきてよかったというのである。さらに、彼女のそんな必死の思いとは関係なく、あっけなく月の世界に連れ去られ、彼女の想いも記憶も消されるのだ。こんな辛辣なラストシーンなのに、無表情な彼女を包み込む音楽はとても優しく、甘美だ。

 高畑監督の作品は、批評的だ。観客は誰にも感情移入できない。実際に観ていても、姫は周りに流され、自分に閉じこもり、人に心を開いて交流することができない。置かれた立場に甘んじて、受け入れているからこそ、このようなラストシーンに至ったとも言える。また、おじいさんは子どもの話を聞かない抑圧的な父親であり、おばあさんは姫を慰めるだけの無力な母親である。さらに、求婚者たちは性差別的な男たちであり、帝はレイピストだ。では、出てくる人たちがみんな悪人かというと、そんなことはない。みんな、私たちの日常生活にいそうな当たり前の人たちだ。でも、誰も目の前の現実を直視せず、そこにある問題に取り組まなかったから、みんなが不幸になった。つまり、この作品では、観客が登場人物に自分を仮託して物語の冒険にのめりこんでカタルシスを味わう、ということができない。

 それでも、高畑監督の作品には「優しさ」がただよう。それは、人間の弱さを肯定するような優しさだ。姫は、周囲に抗えず、力尽きて死んでいく子どもである。その子どもに対するまなざしは優しいし、彼女を潰してしまった社会に対する批判的な視座がある。

 私はいま、宮崎駿のコミック版の「風の谷のナウシカ」を研究で取り上げるために、資料を読んでいるのだが、その一環で「かぐや姫の物語」もみた。二つの作品に出てくる姫は、どちらも「虫愛づる姫」である。人ではない、草花や虫を愛し、自然の中で生きたいと感じる。それが阻まれたとき、二人の取る行動は全く逆である。ナウシカは、人間の行動の過ちに気づき、それを正すために政治的に行動し始める。彼女は世界の変革者となっていくのだ。他方、かぐや姫は、なにひとつ抵抗できず、そのまま潰えてしまう。宮崎駿は、シビアな状況でも立ち上がり、たくましく生き延びて、世界を変えていくという夢を描く。高畑勲は、シビアな状況で立ち上がれず、力なくその場に座り込み、死んでいく子どもたちのいじらしさや痛ましさを描く。面白いのは、この二人が同じスタジオでアニメを製作し、ライバル関係にあったことだ。どちらの監督も子どもたちに向いて作品を創り、この世界で生きていくことを肯定する前向きなメッセージを放つが、そのベクトルは全く異なっていると、私は思う。