NAEPオンラインシンポジウム (2023) 参加者募集のお知らせ

 今年も私(Orika Komatsubara)が共同コーディネーターをつとめるアジア環境哲学ネットワーク(NAEP)がオンラインの国際シンポジウムを開催することになりました。2023年11月2日-3日です。テーマは「アジアにおける動物・植物の概念」です。現在、個別報告の参加者、パネルセッションやワークショップの提案を募集しています。参加は無料です。

 環境哲学は、私たち人間と環境の関わり方を探求します。環境もしくは自然は、動植物も含めて、種々の要素を包含しています。アジアでは、多様な世界観、伝統、哲学、民衆の思想が、異なる分類、概念化、語りを通して、動物や植物にアプローチしています。このシンポジウムは、アジアにおけるこのような多様な視点を交換し、持続可能な解決(sustanable slutions)を目指す対話を促すことを目的としています。

 シンポジウムでは、研究者、実践者(活動家)、関係者から以下のようなアジアの世界観についての報告を募集します。(こちらは例であり、「アジアの動物・植物」に関するほかのトピックも可能です)

アジアにおける動物・植物の概念化

動物や植物についてのナラティブ、物語、芸術表現、地域の知や実践

地域や先住民のコミュニティの伝統的な生態系に関する知

動物や植物についての身体化された知

動物や植物に関する持続可能な社会文化的実践

生物文化的(biocultural)なネットワークや遺産の形式

エコフェミニズム

動物生態学と植物生態学

 私たちは特に初期キャリアまたは中堅の研究者の応募を応援しています。

 英語が第一言語になりますが、私たちはゆっくりとしたやさしい英語を使うことで、ノンネイティブフレンドリーの国際シンポジウムを志しています。また、英語以外の言語での発表を強く希望される方はご相談ください。複数の参加者が、特定言語での発表を希望する場合は、特別なセッションを組むことも検討しています。

 興味のある方は、以下の公式のウェブサイト(英語)をご覧ください。

asiaenviphilo.com

 

デヴィッド・ウィリアムソン「対話」(俳優座公演)

 劇団俳優座による、デヴィッド・ウィリアムソン「対話」の公演が今日から始まりました。

haiyuza.net

 修復的司法がテーマの演劇ということで、私は初日のチケットを取って観てきました。この作品のなかで、レイプ殺人事件の被害者・加害者家族のサークル(円になって対話をする)が行われます。そのため、注意喚起も兼ねてこの記事を上げておきます*1

 というのも、私は性暴力の話だと知らずに観に行って、フラッシュバックがおきました。いま確認すると俳優座の公演のお知らせのWebサイトには「本作品には一部性犯罪について言及する箇所がございます。ご観劇の際はご留意のほどお願い申し上げます。」と書いてありますが、チラシには明記されていませんでした。そのため、私は客席についてから、「この作品は性犯罪について触れる箇所があるので、気分が悪くなった方は出口から出てください」というアナウンスで初めてそのことを知り、「やばい」と思いました。しかも、客席はぎゅうぎゅうでほぼ身動きできない状態で、「これはいざとなっても出られないぞ」と嫌な予感がしました。ただ、もうチケット買って東京まで来てしまったので、そのまま観ることにしました。

 そして、上演が始まると冒頭で、性暴力の加害者の録音されたモノローグが始まります。そのなかで、性暴力を正当化する発言(あからさまな性的表現含む)が延々と続きます。その時点で「しまった、被害者からではなく、加害者側から描写するのか」と思い、退室しようかと思いましたが、すでに呼吸がおかしくなったので、目をつぶってやりすごしました。こんな状態になるのは5-6年ぶりだと思います。

 その場面が終わったあとは、ステージを眺めていたのですが、役者さんたちが感情豊かに表現するのを「元気だなあ」と思ってしまいました。非常に熱のこもった演技だったと思うのですが、怒鳴ったり泣き叫んだりして、とてもパワフルでした*2。その様子を観ながら、亡くなった被害者は、こういう家族たちの対話の風景を見てどう思うのだろうかとずっと考えていました。性暴力場合、被害者が家族と怒りや悲しみが共有できず、孤立感を募らせることがよくあります。それを踏まえると、この作品は、当人ではなく家族にとっての修復的司法を描いていると考えるのがいいと思います。

 そうだとしても、私の知っている修復的司法のプログラムとずいぶん違いました。もともとは、オーストラリアで生まれた演劇作品だそうで、私の知っている欧州とは修復的司法の方向性も違うのかもしれません。ここの作品の中ではファシリテーターは、怒りや悲しみの感情を解放することに重きを置いており、そういうセラピーのようでした。私は、相手にむき出しの感情をぶつけることが修復的司法だとは思っておらず、「伝えたいことを伝える」「伝えられなくてもかまわない」「当事者の心理的安全を最優先する」などを基本的に大事にしているので、作品の中の対話は良い例と思えませんでした*3

 でも、英語版のこの作品(A conversation)のトレーラーをみましたが、ずいぶん雰囲気が違うように見えます。みんな椅子に座って、感情は表現していても抑制がきいています。今日、観た役者さんたちの演技とずいぶん、雰囲気が違います。(俳優座の公演では、足を踏みならしたり、相手の胸ぐらを掴んだり、泣き崩れたりしていました)私はこちらのほうが好みです。

vimeo.com

 性暴力事例における修復的司法は、ほかにも素晴らしい映画「Meeting」があります。こちらは、アイルランドで、実際に行われた性暴力サバイバーと加害者の対話の記録をもとに製作されています。なんと、サバイバーの役はご本人が演じています。英語なのですが、Webサイトから5ユーロで視聴できます。(こちらも冒頭はかなり激しい性暴力の記録が流れるので、閲覧注意です。不安な人は冒頭5分は飛ばして観るのが良いと思います。)

themeetingfilm.com

 以前、欧州の修復的司法の研究拠点European forum for restorative justiceのオンライン企画で、サバイバー本人と、実際に修復的司法を進める心理セラピストのインタビューが紹介されています。また、企画時には、映画監督とのディスカッションも行われており、それも記録・公開されています*4。(以下のサイトから無料で観れます)

www.euforumrj.org

 また、日本のドラマであれば、修復的司法は正面からは扱っていませんが、殺人の被害者・加害者家族の対話を描いた「それでも、生きてゆく」がとても良かったです。FODの配信で観ることができます。

www.fujitv.co.jp

 特に、大竹しのぶが演じる、被害者の母親の感情の揺れの表現が素晴らしく、引き込まれます。以前、その点について書き、ユリイカに寄稿しました。

 

 

*1:一応、終演後にスタッフに「もう少し丁寧にこの問題を扱ってほしい」とお伝えはしたのですが、どれくらい重く受け止めていただけたのかはわかりません。自己責任で観劇すべきだと思っているかもしれないし、クレーマーだと思われたかも?

*2:個人的に大袈裟すぎてリアリティが感じられず、ちょっと引いてしまいました。と言いつつ、先月、宝塚大劇場で、女性だけで演じるジョージアの女王とその夫の悲劇を観た時には、すっかり入り込んで最後は感涙してしまったので、人間がなににリアリティを感じるのかは、とてもミステリアスだと思います。現実に似せればいいという話ではないし。

*3:演劇としてはその方が見栄えがするのはわかりますが……

*4:私も参加していたので少しだけ画面に写っていますが、自分がすっぴんでパジャマだったので笑いました。オンランでも気は抜けないですね……

近況

 1月6日に帰国して、日本での生活を再スタートをしています。しばらくは体調がすぐれず、仕事も詰まってしまって焦りました。振り返ると、大規模な時差ボケだったのかなあ、と……頭では日本に戻ったという意識があるけど、体のほうは急激な変化が受け入れがたかったのかもしれません*1。ちなみに、帰国していちばんの印象は「太陽がまぶしい!」でした。ベルギーの薄暗い冬を過ごしていたので、日中は明るくおだやかな光が溢れる京都の冬に、しばらくなれませんでした。おかげさまで、今は冬季うつっぽい気分も去り、元気に仕事をしています。

 昨日は、私が題材になったドキュメンタリー番組がNHKで放送されました。2月4日に再放送がありますし、NHKプラスでも観れます。

www.nhk.jp

 この番組は、半年以上前にディレクターの中村さんからご依頼があり、撮影協力を引き受けたものです。とは言っても、最初からテレビに興味がなく、出るのをしぶっていたのですが*2、中村さんの率直な「あなたを撮りたい」という気持ちに押されて承諾しました。しかし、テレビの番組というのはとっても難しいものです。私も中村さんも、器用なほうではないので番組の製作は一筋縄ではいかず、新人ドライバーが崖っぷちを走るような地獄のデスロードとなりました。本当に、本当に大変でした。

 いざ放映されてみると、けっこう面白い番組になったんじゃないかと思います。私自身は、あちこち笑い転げながら観ました。いつも通りの私が登場して、いかにも言いそうなことを言っていて、飾りけのない率直な映像になっていました。旧知の友人も「普段どおりのあなたがテレビに出てきてびっくりした」と言っていました。本人は、1時間も普段の自分が動く姿をまじまじとみることになり、変な気持ちもしましたが……*3

 本の内容の朗読もしていただいているんですが、なんだか「実写化!」とか「アニメ化!」とかそんな気分で観てました。声優さんが演じてくださったからかもしれません。もともと、自分でもフィクションを書くように、自分の話を書いているのですが、それが極まって、もはや本の内容は別人の話のようで面白かったです。そう思うと、私の喋ってる映像は原作者インタビューみたいですね。ナレーションと朗読が別の方なのが、とても良い効果になってたんじゃないかと素人ながらに思います。

 製作過程ではいろいろ考えることもあり、最終的には中村さんに全てを託すかたちになりました。途中、「この人は何を考えてるんだろう」と思うこともありましたが、最終的に番組を観て「そういうことか」と納得しました。やっぱり、製作者の「想い」や「意図」は出発点になっても、完成品で相手に伝えてナンボですね。それは、テレビ番組でも論文でも同じだと思いました。

 それにしても、私もいろんな人に、好きに書くことをゆるされてきたし、受け入れてもらってきました。だから、自分も「好きに作ってもらおう」と思ったんですが、それは本当に最後の最後でやっと辿り着いた気持ちです。表現の「対象にされること」については考えてきたつもりですが、予想以上にハードだったし、自分を省みるきっかけになりました。

 そして、本が瞬く間に売れてアマゾンでは在庫切れになっています!(しばらくすれば、入荷されると思います)他方、SNSでの反響はそこまで多くなく、「違う層に情報が届いたんだな」と思いました。やっぱり強いメディアですね。

 さて、1月のはじめには、「文藝」新春号の批評特集に寄稿した論考が発表になりました。私は同人BL小説やケータイ小説の書き手と、筑豊の炭鉱の女性たちのサークル活動を、「素人の創作活動」の視点から接続することを試みています。

 そのなかでは、森崎和江の著作も引用しました。森崎の著作の復刊は、大阪府立大学の博士後期課程にいた大畑凛さんが牽引されたようです。大畑さんの森崎についての解説は大変わかりやすいです。なにより文章の切れ味が鋭く、感銘を受けました。そして、同窓だと気づいて少し嬉しかったです。地味な大学ですが、面白い仕事をする人たちが先輩、同期、後輩にいつもいます。私も、研究を頑張っていきたいと改めて思いました。

 

*1:ベルギーが楽しくて、日本に帰りたくなかったし!

*2:動画って、なんだか恥ずかしいしね……今も恥ずかしいです。

*3:「光で眉尻とんじゃってる、もっと濃く描けばよかった」とか、しょうもないこと思いますね。

近況

 帰国が近づいてきました。こちらで仲良くなった人たちと別れを惜しむ日々です。なんとか、ベルギー滞在を延長できないか画策しましたが、とりあえずは「本帰国」が決まっています。職業柄、予算さえ取れればまた飛んでこようと思っています!

 渡航前は想像もしなかった生活でした。私は15年くらい前から、なんとか海外での研究を目指して画策してきたのですが、何度か経済面や進路の問題で失敗してしまい、がっくりしていました。語学の上達も遅くて劣等感も強かったです。なので、「今更、海外に行くなんて、遅すぎるのでは?」という気持ちがすごく強くて、「私はここで何を得て帰れるのだろうか」(しかもコロナ渦の真っ只中)という暗中模索の日々から始まりました。

 いま、思えば、周りにはめちゃくちゃ恵まれていて、すぐに友だちができたし、英語でのコミュニケーションもぼちぼちとできるようになってきたし、なんの心配もなかったんですけど! わけがわかってないので、目の前のことに全力投球しては空回ってたのが1年目でした*1。2年目に入ってやっと、スムーズに生活ができるようになったところで帰国になりました。なので、残念だという気持ちがすごくて「あれもこれもやりたかった」「もっとできたことあった」という想いが残っています。十分、やれるだけやったんだと思いますが……

 在外研究のスタート時はコロナ渦での渡航で、大学の事務員さんたちにはお骨折りいただくことになったし、周りの心配を振り切る形になってしまったんですが、本当に来てよかったです。

 さて、最近の仕事なのですが、英語論文が公開されます(電子版先行)。The International Journal of Restorative Justiceの、「アートと修復的正義」のついての特集号に掲載されます。私は水俣での朗読活動を取り上げました。過去の水俣病の記憶を引き継ぐ取り組みのなかで、将来世代へどうやって伝えるのかについて、現地の人たちが悩みながらやっている活動する様子を紹介しています。啓発や当事者の声の代弁に焦点を置かず、アートという媒体を用いて、当事者の声を第三者が共有する試みが持つ可能性を論じました。

www.elevenjournals.com

 この特集号はとても魅力的な論文が満載で、DV被害者がフラメンコを踊ることによって自己解放する試みや、ボードゲームを通した修復的正義の可能性、テロリズムの加害者・被害者の対話から生まれるアートなど、これまでに聞いたこともないトピックがたくさん紹介されています。私自身、これからアートについてもっと探究していきたいとも思っているのですが、修復的正義の研究者がこんな多彩で驚きに満ちた研究をしているのは心強いです。これから、まだまだ開花していく領域だと思います。

 Modern Timesさんでは、「千と千尋の神隠し」を取り上げて論じています。今回、しみじみ思ったのですが、私は働くのが好きなんですよね。もちろん、労働問題が山積しているし、私も非正規で働いているので理不尽だと思うこともたくさんあります。でも、非常勤講師の仕事にしろ、バイトでやっていた不動産の接客業にしろ、それ自体は「楽しいな」と思うこともありました。働かないで、お金がもらえるならそれに越したことはないですが。「頑張ってお金を稼ぐぞ!」という気持ちもいつもあります。(私がその才があるのかとか、実際に儲けられるかどうかは別にして)

www.moderntimes.tv

 それから、今年一番びっくりすることが、今日、起きました。感染症の専門家の岩田健太郎さんが拙著をツイッターで取り上げてくださっていました。

 もちろん、岩田さんの名前は拝見していますが、私と全く立場の違う方だと思っていました。一部の意見が全く相容れないことも間違いないでしょう。でも、その岩田さんが、自分の文章を読んで、重く受け止めてくださったことに、めちゃくちゃびっくりしました。「届いてしもうた」と、スマホを見ながらつぶやいてしまいました。私はとにかくこの本は「一所懸命書いた」ので、それを「一所懸命読んだ」と言ってもらえて、こういうこともあるんだな、と……。私はすぐ思い詰めて「もうダメだ」「どうせ伝わらない」と諦めがちですが、そういうのは良くないと反省しました。(そして、伝えてくださってありがとうございまし)

 これからも「頑張って書いていきたい」と素朴に思います。突き詰めて考え、言葉を選んで書いていけば、どこかの誰かが受け取ってくれると信じて、精進したいです。

*1:しかも、1年目は、冬の季節うつみたいなのになりかけたところに、ウクライナ戦争が勃発して、余計にわけのわからない精神状態に! でも、楽しいこともいっぱいあったし、英語の会話で自分を表現しきれないフラストレーションをぶつけるべく、論文書くのをめちゃくちゃ頑張りました。その頃、日本では著書が出版されたんだけど「あ、ありがとうございます!!」みたいな感じで現実感はなかったです。もったいなかったかも?!

近況

 ベルギーはすっかり冬に入ってしまいました。霧が立ち込めて寒いです。帰国が迫っているので、最後にあちこちどこかへ行きたいと思いつつ、外を見ては「今日は家にいよう」と思う毎日です。最近、谷川雁を熱心に読んでいるのですが、こんな一節がありました。

(前略)いま森のなかは露がいっぱいなのです。雨が降っているわけではありません。夜明けから霧が立ちこめ、樹々の葉をぬらし、梢のほうから順に下のほうへ、階段を三段くらいずつ跳びおりるように、ぽたぽたしたたっています。森の全体にやわらかい小さな打楽器の音がしています。

 これがこの辺りの〈つゆ〉の基調なのですね。梅の木はありませんから、梅雨じゃない。遠くの雷はあっても、驟雨にはなりにくい。すっぽり霧をかぶってぬれている日々がつづきます。この霧をうっとうしいと見るか、美しく動く白い素材と見るかによって、この地方の六月の風景観は一変することになります。(25-26頁)

不知火海への手紙

不知火海への手紙

  • 作者:谷川 雁
  • アーツアンドクラフツ
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 谷川の書いているのは、彼が50代で移住した長野・黒姫の六月の霧についてです。ここで述べられているのは緑の茂る黒姫の初夏の霧のことであり、今のベルギーの十二月の霧とは別物でしょう。でも、正直、ベルギーの霧を「うっとうしい」(私はいつも1時間、歩いて街まで出るのです)と思っていた私は、ちょっと反省したのでした。もちろん、私もこの地に来た直後は、霧が立ち込める農場をずっと眺めていたくらい、とても美しいものだと感じていました。でも、生活のなかで人間の利便性を基準に自然を価値づけるようになるまで、あっという間です。それはそれで、私の生きる現実でありつつも、違う目で風景をとらえることを忘れずにいたいと改めて思いました。

 それはともかく、この「不知火海への手紙」は私はこれまで手に取ったことがありませんでした。谷川といえば、切り詰めた言葉で綴られた詩や、観念的な運動論がよく知られていると思います。たしかに彼は左翼運動のスター詩人であり、筑豊の労働運動のリーダーでした。同時に、こうして彼の書いた後期のエッセイを読むと、独自の言葉で自然をとらえていく文章は優れており、ネイチャーライティングの名手でもあると感じました。「なぜ、谷川雁に熱中するのか」は自分でも謎ですが、もう少し読んでいくつもりです。私は文章が上手い人が好きだ、という理由に尽きるかもしれませんが……

 WebメディアModern Timesの連載では、高畑勲宮崎駿の「太陽の王子ホルスの大冒険」を取り上げました。この作品は、今は懐かしい社会主義リアリズムにのっとって作劇されていますが、若き映像作家たちのコントロールを外れて、いくつもの破綻があります。その一つが、ヒロインのヒルダでした。そこにこそ、この作品の魅力があると論じています。こうやって、シリーズで書いていくと、私の芸術観は「作品が破綻した〈そこ〉から光り輝く真の芸術性を生み出す力が、アーティストの天才性である」というオーソドックスなものだなあとしみじみ思います。ちょっと古臭くて保守的なくらいです。そんな話をこうして好きに書かせてくれるModern Timesさんには頭が上がりません。この記事は特に掲載してもらえて嬉しかったです。

www.moderntimes.tv

 ところで、インターネット上で論争相手や、思想信条の違う人に対する「からかい」の行為の是非が議論されているようです。私の記事も引用されていました。

davitrice.hatenadiary.jp

 確認すると、私がTwitterのアカウントを削除したのはベルギーへ出立する5日前でした。その後、私は国内学会にも出席しておらず、こうした「からかい」の文化ともほとんど接することがありませんでした。その結果、精神的に安定し、研究に打ち込むことができました。個人的には、このような文化とは距離をとってよかったです。

 私は「からかい」という行為のなにが面白いのかよくわかりません。美しいものが生み出されるわけでもありませんし、学術的には無価値です。それでもたくさんの人が「からかい」の行為を続けたいと思うということは、たぶん、そうすることで「楽しい」と感じる人たちがいる、ということでしょう。なので、「からかい」を続けたい人たちは、そのコミュニティ内で楽しむと良いのではないでしょうか。

 幸い日本のアカデミアでも、同世代や若い世代の研究者のなかには、もっと安心して議論できる場を作りたいと思っている人たちはいます。お互いに敬意を持って、建設的なフィードバックを送り合うような研究者のコミュニティを作ることは可能です。私もまだ不安定な身分ではありますが、自分たちの新しい研究のアイデアを形にしていくことのできる場を拓いていくことに貢献したいです。もちろん、従来の「厳しい議論」や「糾弾型議論」が好きな人たちもいるので、その人たちはその人たちで、私たちは私たちで、研究を進めていくのが良いと思うようになりました。「べき論」に陥らず、学会報告や論文といった「目に見える結果につなげる」という目的を、しっかりと見据えていきたいと考えています。

ブログを書かなくなった話。

 小島アジコさんの記事を開いて、「それな」と思った。

最近、同年代のブロガーの人がブログや文章を書くことに対して、書く意欲が減っていくということを書いていて、自分も何か書こうと思ったけれども。

 

めんどくさいのでやめた。

orangestar.hatenadiary.jp

 私の場合は単純に、締め切り迫った原稿がいくつもあって焦ってるときに限って、「ブログ書こうかな」と思い*1、「書いてる場合じゃないだろう」と考え直すパターンが多いです。空いた時間は研究資料読みたいし。どうせのんびりするなら、Netflixでドラマか映画を観るし。なんなら、人と会っておしゃべりでもしたいし。めちゃくちゃ普通のこと言ってるな、私。むしろ、なんであんなに一生懸命ブログを書いていたんだろう、という不思議な気持ちになる。嫌なコメントとかいっぱい飛んでくるのに、毎日、毎日、キーボード叩きまくって、取り憑かれたように書いた。楽しかったんですけどね。

 そういえば、珍しく「はてなブログ」について語ったりはしました。英語だけども。修復的正義の研究仲間のBrunilda Paliが、対談の企画をしてくれてそこで少し触れています。

I was a blogger. In Japan, in the late 2000s, a weblog by a company called Hatena became popular. At that time, academics, activists, professional writers, students, and citizens debated each other regardless of their status. I started blogging as a feminist, using my pen name around 2007 and discussing the issue online on a pretty much daily basis. I wrote book reviews about sexual violence and domestic violence, made my arguments about pornography regulation, and wrote essays about my experiences of sexism (except for sexual violence). I also engaged academics in debate, sometimes harshly criticising them.

Blogging was a common phenomenon for our generation. Those of us born between 1970 and 1982 are known in Japan as the ‘lost generation’. Due to the recession and the popularity of neoliberalism, we were subjected to fierce competition as youths and were forced to work hard for low pay. As a result, we were under-skilled in the workplace, and many of us are still in unstable employment. We were therefore blogging in the late 2000s as a tool to raise our voice. We argued that youth suffer not because of individual ability or responsibility but because of distortions in the social structure. Some of them published several experimental magazines and self-published newsletters, attempting to raise issues about the economic difficulties of young people and new forms of sexuality in the wider Japanese society. Unfortunately, the movement did not make it to the big waves and faded away. As one of those who was part of it, I believe that it did not succeed in changing society.

www.restorotopias.com

 こんな感じですぐ近況報告になってしまい、全然、中身のある記事は書けないのでした。「今ある締め切りが終わったら」と、毎月思ってる気がします。そんなに仕事が多いわけでもないと思うんですけどね。「締め切り」というものの重みかな。たとえ1年後の締め切りでも、ずーっと「あれを書かねば」と思い続けるものなのかも。原稿のご依頼をいただくようになったのも最近のことで、私がこういう仕事の仕方に慣れてないのもあるでしょうが。

 それから、大学での就職が決まらず、不安で「やれるうちに少しでも研究進めたい」という焦りもあります。焦ったからといって成果が上がるわけでもないけれど、焦ってしまうのが人間というもの。こう書いていると、ここのところ、いつも焦ってる気がする。「やりたいことがたくさんあるので時間が足りない」という気持ちがあるがゆえの話なので、それはそれでいいことかもしれない。

 そのほか、ブログ書くのが億劫になった人の記事。

fujipon.hatenablog.com

pha.hateblo.jp

*1:今も。いい加減、目の前の英語論文の修正やらないとどうにもならないけど、ワードファイルを開いて2時間が経過したところです

近況

 ベルギーはすっかり秋が深まり、グレーの空と雨の毎日です。心の準備はしていたものの、うつうつと日々を過ごし、家でぼんやりする時間が増えました。帰国が近づいているので、もっと遊びに行ったり博物館を見て回りたい気持ちはあるのに、休日は「部屋の掃除ができたら上出来」というのが現状です。仕方ないので、ソファで文学作品を読んだりして、そのまま寝落ちしたりしています。街も人がまばらだし、そんなもんなんでしょうね。

 先日、エディンバラ大学で開催されたAsian Philosophcal Textの第4回大会に参加し、報告を行いました。初めて知った学会なのですが、細分化された人文系の学問を統合し、領域横断的に「哲学的なテキスト」を議論する場で、とても面白かったです。私自身は、ずっと水俣の人たちの手記や機関紙などをテキストとして扱い、哲学的に研究してきたので、それを受け入れてもらえる学会が見つかったのは本当にありがたいです。

philevents.org

 それはさておき、渡欧して1年半以上が経っているわけですが、自分の英語力に対するフラストレーションは強くなるばかりで、そこは本当に悩んでいます。もちろん、以前よりは格段にリスニングもスピーキングもできるようになりました。こっちに来るまで、正直、私は自分に対する期待値が低かったので「ちょっと話せるようになればいいわ」くらいに思っていました。でも、やればやるほど欲が出るし、できない自分に腹が立つし、帰国は迫っているし、絶叫しそうになります。語学の上達に近道はないので、焦らず努力を続けるしかないのですが……ただ、以前は「私は英語はできない(たぶん永遠に)」と漠然と思っていたわけで、今の「私は英語が下手だ」のほうが、まだ前向きになっているという気はします。

 普段は相変わらずコツコツと研究をしています。もうすぐ英語の査読論文が出版になりますし、某雑誌へ寄稿した原稿もそのうち公開されるはずです。来年の見通しがなかなか立っていないのですが、ありがたいことにポツポツとご依頼はいただいているので、論文や商業原稿の執筆を中心にした生活になりそうです。本人は大学教員としての正規の就職*1を希望していますが、狭き門なので思うようにはいきません。研究費を獲得して、あと5年は研究を続けるのが目標です。

 WebメディアのModern Timesでの連載は続いています。今回は労働編で3回続きます。第一回は、宮崎駿の労働運動と高畑勲の関係などを中心に書いています。もうすぐ公開される第二回では「太陽の王子ホルスの大冒険」について論じています。正面から宮崎・高畑の社会主義思想を取り上げた渋いシリーズですが、ご覧いただければ幸いです。

www.moderntimes.tv

 さて、お知らせです。長らく活動していた、同人サークル「ズレフェミ屋」ですが、本日(11/20)開催された文学フリマ東京をもって、活動停止・解散となりました。これまで、当サークルに来てくださったかたにお礼申し上げます。最初は栗田隆子さんと二人で始めたサークルだったのですが、いろんな方が合同参加や冊子の委託をしてくださいました。サークルを訪問される方も多彩で、賑やかな活動でとても楽しかったです。ありがとうございました。

 今後は、個人で細々と同人活動を続けようと思っています。新しいサークル名は「薄明通信」にしました。英語だとTwilight Communicationです。気分を一新して、ロマンティックな名前にしてみました。次回は1/15の文学フリマ京都に参加予定です。新刊の谷川雁オマージュのエッセイ集が出せればいいなあと思っています。

bunfree.net

 「なんで、谷川雁なのか?」という自分でも謎の展開なんですが、同人誌は思いつきが一番大事なのです。そして、表紙のデザインを考えたり、印刷所の見積もりを眺めたりしていると、本当にワクワクしてきて「ああ、同人活動最高だなあ」と思いました。なにより、本文の原稿が上がらないと、本は出せないんですが……でも、出したいなあと思っています。

*1:私は授業をするのが好きだし、できれば小規模なゼミとかやりながら、楽しく若い人とともに学ぶ環境づくりをしたい、というふんわりした気持ちがあります。でも、今のアカデミアの状況では叶えるのが一番難しい夢かもしれませんね。