近況

 ベルギーへ出立する日が近づいていますが、依然として先行きが不透明で気を揉んでいます。もう飛行機のチケットは確定していますし、海外転出届も出しているのですが、出国前のPCR検査で陽性になってしまえば渡航延期になるという、不安な状況です。

 他方、受け入れ先のベルギーのルーヴェンカソリック大学のスタッフとは、緊密に連絡が取れていますし、無事に入国さえできれば、ロックダウン下ではありますが、修復的正義の研究を進めていくことができそうです。朗報としては、英語論文が査読に通り、そろそろ論文誌で公開される予定です。EFRJの環境破壊における修復的正義のワーキンググループの議論も活発で、私としてはアートのアプローチによる実践の可能性を積極的に探求していきたいと思っています。

 一年ほど前からこのブログではポツポツと書いてきましたが、私はもともと若いときには文学やアートに関心を持ち、感性の世界で生きている人たちに強く惹かれていました。しかしながら、いろんな事情のなかで、政策や制度について思考をめぐらし、研究者として提言をするために修練してきました。その揺り戻しのように、今はアートの世界に再び惹きつけられています。それも、美術館や劇場で「芸術」と名指されているものではなく、ひとびとが暮らしの中で細々と積み上げてきた活動に強く惹かれます。

 私をそうした世界に連れ戻してくれたのは、やっぱり水俣であったようにも思います。そういしたことを考えながら、水俣についての新しい論文を書きました。以下のリンク先から無料で読めます。

小松原織香 「〈キツネに騙される力〉を取り戻す ― 水俣病を通した環境教育の可能性」『現代生命哲学研究』 第10号 (2021年3月):96-118

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei202105.pdf

 「私たちの世界にある、見えるものも、見えないものも大切にしていく」というもっとも素朴なところから出発して、もう一度、環境問題について考えていこうとしたときに、出てきたキーワードは「生命」でした。実は、『現代生命哲学研究』には第1号から投稿してきたのですが、10年経ってやっと初めて「生命」をテーマにした論文を書くことになりました。これもご縁なのだろうと思います。

 2021年度の研究ですが、在外研究も行いますし、英語での積極的な学会報告・論文執筆を進めていくつもりです。それに加えて、新しい日本語の本の出版の企画が進んでいます。そのうち、また詳しい情報をお知らせできると思います。

 さて、10年以上、運営していたTwitterのアカウントを先程、削除いたしました。ここ数週間、これまでTwitter上で、特定の研究者が嫌がらせに遭っていたことが明らかになりました。そこから、性差別的で陰湿な人間関係が暴露されています。研究者も人間ですから、嫌な奴もいれば、くだらない人間関係もあります。SNSに限らずとも、学会で陰口ややっかみを聞かされることも少なくありません。また、大学の予算難・人員削減に伴い、ポストをめぐるシビアな競争が激化しており、コミュニティの雰囲気は悪くなる一方です。私自身、先の見えない就職活動をずっと続けており、常に業績評価の競争の中で、精神的には追い詰められています。残念ながら、Twitterはそのような研究環境や人間関係を険悪にしていくツールになるようです。今回の件で、研究者としてTwitterを使い続けることは、心情的にはもうできないと思いました。

 Twitterには、楽しかった思い出もありますし、ツイートをずっと追ってくださった方には感謝しています。ありがとうございました。

 

「些細である」からこそ大事なセクハラの話

 セクシュアル・ハラスメントという言葉は、1989年に福岡地裁で始まった訴訟(通称:福岡セクハラ訴訟)をきっかけに、広く知られるようになった。この裁判で弁護団は、福岡の小規模の出版社に勤務する女性が、性的な中傷を受けたことを、性差別によるものであると訴えた*1。また、そのころ「働くことと性差別を考える三多摩の会」がセクハラアンケート調査を実施したところ、全国から多くの女性から、職場で困難な状況に置かれているという声が寄せられた。

 

女6500人の証言―働く女の胸のうち

女6500人の証言―働く女の胸のうち

  • メディア: ハードカバー
 

  「セクハラ」という言葉は、刑事事件として告発されるようなレイプから、職場での不平等な扱い、性的なからかいや中傷、職場にヌード写真を貼るなどの職場環境の問題、女性だけにお茶汲みなどをやらせるなどの性別に基づく役割の固定化など、多岐にわたっている。つまり、第三者が聞けば、「犯罪だ」「暴力だ」と思うような行為から、「些細である」と思うような行為まで幅がある。そのため、「セクハラ」という言葉からイメージされる行為は、人によって大きく違う*2

 もしかすると、これまでセクハラの相談を受けたことがある人も、「世の中には深刻なセクハラの問題もあるかもしれないが、自分が聞いた話はどれも些細である」と感じているかもしれない。しかし、私はその「些細である」ようなセクハラの訴えに対応していくことこそが、重要であると考えている。少なくとも、被害者支援の専門家*3以外の人(私も含まれる)にとって、役に立てるのはそれくらいしかないとすら思う。被害者が深く傷つき、裁判になるようなセクハラでは、素人にできることは本当に限られており、そばにいることくらいだからである*4

 私は、被害者支援の専門家ではないが、性暴力やDVについて研究を行なっているため、身近な人からセクハラについても相談を受けることが多い。その経験をもとにして、以下について書きたいと思う。

(1)「些細である」訴えが重要な理由

(2)セクハラでも「ダメ、絶対」はよくない

(3)「些細である」訴えに対応する方法

 

(1)「些細である」訴えが重要な理由

 では、なぜ、「些細である」訴えが重要なのだろうか。第一に、DVや性暴力にも共通することであるが、被害者の多くは「些細である」被害から語り出すからである。ほとんどの被害者は、自分が受けている差別や暴力が、「被害」と呼ぶに値するかどうか不安に思っている。また、打ち明けた相手が、「大袈裟だ」「嘘をついている」などと反応するのではないかと怯えている。さらに、自らを振り返り、「自分にも落ち度があった」と自分を責めていることもある。そういった被害者が、おそるおそる口に出してみる被害の話は、混乱していたり、筋が通らなかったり、「自分が悪かったのだ」という語りが混じっていたりしていて、すぐに「これはセクハラだ」と断定できるような形になっていないことがよくある。このようなときに、聞き手が被害者を問いただし、真実であるか確かめようとしたり、矛盾を問いただしたりすれば、たちまち黙って「すみません、私の勘違いだと思います」と被害者は再び沈黙してしまう。その結果、聞き手はその被害者の訴えを「些細である」と判定することになる。しかしながら、被害者の話を遮らず、じっくりと聞いてみると、最初に話し始めた被害は、それにとどまらず、長期にわたり深刻な暴力を含むものであったとわかることもある。すなわち、「些細である」訴えが、被害者がかすかに発する救援信号である可能性がある。

 第二に、本当に「些細である」訴えである場合、専門家以外であっても対応が可能になるからである。セクハラの被害者の多くは、加害者へ厳罰を課すことより、自分の安全を確保することを望んでいる。特に職場や学校であれば、就労や就学を継続できることが最優先であることも多い。そのため、とにかく「加害者と距離を置く」という対応が必要になる。具体的には、大学であれば学生が研究室を変わったり、部屋割りを変えたりすることが対応策となる。また、被害を訴える人が関係の変化を望んでいない場合は、第三者が「加害者(であると名指しされた人)」に言動への注意を行うことで、事態が改善することもある。「些細である」訴えのうちに対応することで、その暴力や差別が長期にわたり、反復するような事態に陥ることを避けられる。これは、逆の立場になり、もし自分がセクハラをする側になっている場合には、早めに注意してもらえれば、改善が可能であるという希望にもなる。

 以上の2点から「些細である」訴えこそが、重要なのである。

(2)セクハラでも「ダメ、絶対」はよくない

 薬物依存の問題では、かつてCMのスローガンにあった「ダメ、絶対」という言葉が批判されてきた。薬物を一回でも使うと、もう薬物をやめられないし、後遺症がのこるし、社会復帰もできないという「悲惨なイメージ」を広げることで、実際の薬物依存者はそこから抜け出すための助けを求めることができなくなるからだ。

 私はセクハラでも「ダメ、絶対」という姿勢はよくないと考えている。誰もがセクハラの加害者になり得るし、その場合は誰かに助けを求めたほうがいいと思うからだ。いま、多くの企業や大学の研修では、いかにセクハラが重大な問題であり、裁判になれば多額の賠償金を要求され、その後の復職も難しくなるかが強調されている。もちろん、こうしたセクハラへの制裁への恐怖から、差別や暴力が少なくなるかもしれない。だが、こうした状況は、「セクハラ加害者と名指しされたらおしまいだ」という恐怖を引き起こし、セクハラが起きた場合の加害者の強い否認も引き起こす。

 たとえば、悪意なく、口を滑らして差別的発言をしてしまうことは多くの人が経験しているだろう*5。もちろん、差別的な意識があるから、「口を滑らせる」ということが起きているのだが、差別的な社会で生きている以上、それをゼロにすることは不可能だろう。「ああ、しまった」と思ったときに、相手から「それは差別です」と言われて、自分を恥じて穴に入って隠れたい気持ちになることは、誰にでもあり得る。だが、「セクハラは絶対に許されないことだ」と強く思うほどに、自分が性差別的な発言を指摘されたときにそのことを認められず、「これはセクハラではない」「あなたのセクハラの理解が間違っている」と言い出す人もいる。ひと昔前のように、セクハラが横行し、それの何が悪いのかわかっていない人が多かった時代には、「セクハラを許さない」のスローガンも有効だろうが、今は状況が変わってきた。セクハラをゼロにするのではなく、セクハラが深刻化しないための対策が必要だろう。

(3)「些細である」訴えに対応する方法

 私は、大学に所属することで多くの研究不正防止のレクチャーを視聴したのだが、一番参考になると思ったのは、以下の「研究公正に関するヒヤリ・ハット集」である。

www.amed.go.jp

 このなかの「研究室の運営、研究指導、ハラスメント」*6では具体的な事例があげられ、学生と指導教員の関係の中で、研究不正やハラスメントが起きそうなときに、それらに関する知識を利用したり、ほかの研究室の教員が声をかけて介入したりすることで、深刻化を避けた方法が紹介されている。こうしたヒヤリハットの事例から学ぶことができることは、個々の研究者の心掛けではなく、職場や学会などで研修を実施したり、開かれた人間関係を維持したりすることで、研究不正やハラスメントを防ぐことができることである。すなわち、個人の責任追求ではなく、コミュニティの場づくりの力で、ハラスメントを防止するのである。

 私は、「セクハラ防止に何をすればいいか」と聞かれたときに、「問題を共有する場づくりから始めたほうがいい」と答えることが多い。いまは、ワークショップの方法論も広まっており、「経験を言葉にする」ことの意義も共有されているだろう。少人数で輪になって*7、「私のいる場所で起きたこと」「問題だと思っていること」を共有していくだけでも、大きな意味がある。お茶を飲んでお菓子を食べながら*8、気楽に話せる場を作っていくことが、ハラスメントを深刻化させないコミュニティを作ることに繋がっていく。こうした対策には即効性はないし、子どもっぽくて馬鹿馬鹿しく見えるかもしれない。「ただ喋ってるだけで意味がない」という人もいるかもしれない。だけれど、最短距離で差別や暴力を防止する方法はないと私は思う。差別や暴力を「誰にも言えない」ことについては、「言えない人」に責任があるのではなく、「言わせない周囲の人たち」に責任がある。強くならねばならないのは、個々のマイノリティではなく、マジョリティのコミュニティの弾力である。

*1:なお、その後に原稿であった晴野まゆみさんは、弁護団の被害者への対応の問題を手記の中で明らかにしている。こちらも重要な証言である。

 

 

*2:実はこれは、DVや性暴力でも同じである。私は啓発講座で、10くらいの異なる事例を配布し、参加者にグループごとにどこからが暴力であるのかの分類をしてもらい、お互いのイメージがあまりにも違うことを味わってもらうワークをすることがある。念のために書いておくが、このワークには正解はなく「隣の人の考えていることは、全然違うことである」ことを発見するために行う。

*3:司法関係者やカウンセラー等

*4:もちろん、それこそが大事な支援ではあるが。

*5:私もある

*6:https://www.amed.go.jp/content/000064527.pdf

*7:私も知人が主催するワークショップに参加したが、「えんたくん」はとても役だった。

*8:コロナ禍では難しいことだが。

さよなら、エヴァンゲリオン

 「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を観てきた。うっかり泣いてしまった。感傷のままに綴っておく。(以下は、ネタバレがあるので閲覧注意)

 公開2日目に観てしまった。こんなことをするのは、1997年に公開された劇場版「Air」を観に行ったとき以来だ。私は当時、中学3年生で友人たちと本当に楽しみにして、映画館まで足を運んだ。その最後のシーンで、浜辺で首をしめられているアスカを観て「なんでこんな目に」という辛い気持ちになった。まだ、インターネットのない時代だから、雑誌などの評論記事などを探して読んだが「なんで、アスカは首をしめられねばならかったのか?」が全くわからなかった。その後、大人になって庵野監督が、女性に好意を向けられ、自分もそれに応えようとすることに、耐えがたさを感じているのだろうということは理解した。

 新劇場版が始まって、私はエヴァから距離をおいた。庵野監督が、「前のエヴァではダメだ」と考えているのはよくわかった。でもそれが伝わるほどに、「私はそれでも、前のエヴァが好きだし」という疎外感を持った。制作延期が続くほどに、私は正直に言えば熱意を失っていた。観に行って、めちゃくちゃなラストを押し付けられることに、もう付き合えないと思った。でも、庵野監督がもう最後にすると言うので、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を観に行った。誰の評価も目にしたくなかったので、Twitterのアプリも消していた。

 冷静ではなかったので、どんな評価が下される映画なのかはわからない。珍妙でアンバランスだった。ロボットや戦闘場面が出てくる映像は文句なくカッコよく、ケレン味があった。それに対して、日常生活を描こうとした会話劇は巧いとは言えない。でも、そこではテレビシリーズ版で排除された「生殖」と「生産」が延々と語られている。私たちは、親から生まれて、働き、人を助け、その生活の中で「明日を生きる」ことを掴もうとして、日々を暮らしている。それらが、明らかに3.11、特に原発事故後の暮らしを意識して描かれていた。こちらが聞いていて気恥ずかしいようなベタなセリフも多く、ステレオタイプ的な「家族」や「農業」が出てくる場面が続く。とてもダサくて最初は「庵野監督は、これ、向いてないと思う」と渋い顔をしていたが、だんだんとそれが庵野監督にはどうしてもエヴァでやらなくてはならない話だったように思えてきて、「しょうがない、付き合うか」という気持ちになった。女性たちが出世して司令官になったり、出産について語ったり、命がけで子どもを守ったりする場面も、どうしてもステレオタイプ的になる。庵野監督はこういうのは本当に巧くない。きっと戦闘場面だけ描いた方が、クオリティの高い映画になったはずだ。でも、庵野監督は「これがやりたい」のだろうと思った。

 映画を観ているうちにシンジくんがきっかけで起きた、サードインパクトやフォースインパクト(起きかけ)は、これまで庵野監督が途中で、投げ出して完結できなかった劇場版作品のように観えてくる。周りにやらされているのだという想いや、メンタルの弱さに対する自己嫌悪、どうせ頑張ってもめちゃくちゃになってしまうという絶望感。庵野監督自身が、その傷つきから立ち直るのに必要なのは、イマジナリーな世界ではなく、リアリティの世界、「生殖」と「生産」の世界を生きることだったという話のように受け取った。私たちは、他者のために働き、必要とされ、ときには何かを託したり、託されたりする。そうした生活の重みを引き受けることが「大人になる」ことだと、この映画はしきりに語りかけてくる。ただ、そうしたメッセージが全然、作品内で昇華されておらず、生っぽく残っているので、観ていて変な気分だった。でも、それこそがテレビシリーズ版のエヴァの魅力で、あの頃の庵野監督は「子ども」の気持ちを自己吐露的に垂れ流しており、そこに私はのめり込んだ。今回は、庵野監督は「大人」の気持ちを自己吐露的に垂れ流しているので「そこは変わらないんだな」と思った。

 その極め付けが、碇ゲンドウが自分の内面を吐露する場面である。私は思わず「そのまま、言っちゃうんだ、モノローグで」と心の中でつぶやいてしまった。なんのひねりもなく、ただ、(おそらく庵野監督自身、そして男性の)弱さが延々と語られる。そこで、私は、本当に庵野監督は、エヴァに「落とし前をつけるのだ」とやっと納得がいった。

 私が泣いてしまったのは、そのつぎの浜辺でアスカと語る場面である。そこで、シンジくんは、素直にアスカに好意をいだいていたと語る。そして、エヴァンゲリオンがやってくる。私はそのとき「なんだ、庵野監督もエヴァが好きなのか」と思った。今回の映画はロボットアニメをはじめとして、庵野監督が好きなもので埋め尽くされていた。ずっと、私が新映画版でつらかったのは、庵野監督が「エヴァが嫌いだ」と言っているように見えたからだった。テレビシリーズ版で、庵野監督はアニメにのめり込んで現実逃避するファンのことを嫌い、突き放そうとやっきになっていた。それは、「大人になれない自分」と重ね合わせられた自己嫌悪でもあったのだろう。そこに、中学生の女の子だった自分も巻き込まれた。今回の映画で、シンジくんはアスカのことが好きだし、庵野監督もエヴァンゲリオンも好きだと示してくれたので、私は本当に嬉しく、それでうっかり泣いてしまい、自分でも動揺した。

 それと同時に「遅いよ、シンジくん」という気持ちにもなった。私は、あの映画館にいたときには中学生の女子だったけれど、性差別の中で「おっさん」を憎む大人の女性になり、それも通り越して「おっさん」の弱さや傷つきも理解できる「おばちゃん」になってしまった。とっくに思春期の心の揺れは脱してしまい、日々の暮らしを重ねることで生き延びてきたし、「生殖」と「生産」のある暮らしのこともよくわかる。だから、庵野監督の答えには同意する。もう、エヴァは終わった話で、「さよなら」しかできない。あれは子どもだった私(たち)に必要なストーリーで、実はもう本当は私(たち)はあの話は終わっている。しかし、友だちから録画テープを借りたときには、まさか「さよなら」を言うのに、25年もかかる作品になるとは思わなかった。そして、ちゃんと最後の姿を見送ることができてよかった。この作品が、ちゃんと作者に愛されていることもわかって、もう心残りはない。

 この映画の解釈や評価がこれから議論されるだろうし、批判も出てくるだろう。それはそうとして、私の中では、きちっと落とし前つけてみせた監督への尊敬と感謝があるし、これからはエヴァが好きだと私も言えるなあ、と思っている。過去の作品にしてくれて、本当にありがとうございました。

近況

 ようやく労働許可・滞在許可が下りたので、ビザが取れました。2021年4月から、ベルギーのルーヴァン・カトリック大学法学部で修復的正義の在外研究を行う予定です。とにかく情勢が不安定ですので、フライトスケジュールの変更のメールが次々と届く状況で「本当に行けるのだろうか」という不安もあるのですが、とにかく一つずつ、手続きを前に進めています。

 ルーヴァン・カトリック大学は、修復的正義の研究拠点であるEFRJ *1の事務局があり、国際的な修復的正義の研究者が集まっています*2。私は、初めて、修復的正義の研究者の集う機関に本格的に滞在することになるので、とても楽しみにしています。これまで積み重ねてきた研究を、相対化・精緻化する機会にしたいと思っています。

 また、EFRJでは、環境破壊における修復的正義の研究プロジェクトもスタートしており、ワーキンググループ も設置されました。私はそのワーキンググループのメンバーにも採用されています。

www.euforumrj.org

 ワーキンググループには、ヨーロッパ、オーストラリア、アフリカ、南米の研究者も参加しており、EUやUNへの政策提言、環境保護区での修復的正義実践、補償請求を目指した修復的正義実践などが検討されいます。私は相変わらず、水俣の話をしていますが、哲学やアート、教育などのアプローチから修復的正義を考えていきたいと思っています。

 加えて、初めての英語論文 'Imagining a community that includes non-human beings: The 1990s Moyainaoshi Movement in Minamata, Japan' が、ピアレビューを通過し、正式にアクセプトされました。こちらもEFRJの発行するInternaitonal Journal of Restorative Justiceという、修復的正義の専門誌です。

www.elevenjournals.com

 私が書いた論文は、1990年代の水俣のコミュニティ再生事業である「もやい直し」のなかで、non-human beings(人間以外の存在)を含むコミュニティ概念が提起されていたことを指摘したものです。死者や魚たちが、生き残った人たちのコミュニティを再生させるシンボルとして機能したのではないかと、考察しています。水俣ではまだまだ「もやい直し」をどう捉えるのかは議論のあるテーマです。公開後にご批判いただくだろうことも含めて、今後も継続的に検討していきたいと考えています。それはさておき、このテーマは私が初めて水俣を訪問した2015年からずっと考えてきたことなので、形にすることができてよかったです。

 今は、英語で石牟礼道子論を書き、別の英語ジャーナルに投稿中です。また、今年は英語の共著に寄稿する予定ですので、頑張って原稿を書きたいです。さらに、現在、ある英語ジャーナルのスペシャルイシューの編集に関わっています。こちらも面白い企画になりそうなので、刊行にたどり着けるように頑張りたいと思っています。

 また、去年から商業誌で原稿を書かせていただく機会が増えました。出版されたばかりの「ユリイカ」2021年2月号に、テレビドラマ『それでも、生きてゆく』についての論考を寄稿しています。

  『それでも、生きてゆく』は、殺人の被害者家族・加害者家族の対話をテーマにしています。私は登場人物の一人で、娘を殺された母親である、響子という女性に着目しました。響子は事件後に魂を失ったように茫漠と生きていますが、加害者家族と接近していくうちに、娘を殺した加害者との対話を望むようになります。そのプロセスは決して平らな道のりではなく、深い絶望を味わいながら、彼女は自分が失った(と感じていた)人間性を取り戻していきます。こうしたプロセスを、フィクションで、しかもテレビドラマという多くの人が目にする媒体で描く意義を問いました。

 また、冒頭では石原吉郎を引用し、「被害者としての連帯」を拒む、孤立した被害者の生き方について検討も行っています。私にとって、石原の「ペシミストの勇気について」は長らく引っかかっていた文章であり、なんとかして咀嚼したいと思っていましたが、予想外のところで引用することになりました。この文章は、また別の形で論じるかもしれないと思っています。

望郷と海 (始まりの本)

望郷と海 (始まりの本)

  • 作者:石原 吉郎
  • 発売日: 2012/06/09
  • メディア: 単行本
 

 

 

*1:European Forum for Restorative Justice 

https://www.euforumrj.org/en

*2:大学院生から、どうやって海外とのコネクションを作るのか聞かれることがあるのですが、私は2014年に参加した国際ワークショップのランチタイムで、隣の席に座っているのがEFRJの取りまとめをしている研究者だったというのが、最初のご縁です。そのとき、アジアからの参加者は私だけで、知り合いは一人もおらず、英語もあまりにできないので、緊張して暗い顔をしていたのですが、親切なその研究者は声をかけてくれたのでした。そこから何かとヨーロッパでの研究についてご相談をするようになり、現在に至ります。

『環境と対話』第二号を発行いたしました。

 私は「環境と対話」研究会という小さなグループの代表を務めているのですが、このたび報告集である、『環境と対話』第二号を発行いたしました。今回は100ページほどの小冊子となっており、水俣についてのインタビュー調査や英語文献史料の紹介、動物倫理に関するエッセイ、ライフヒストリーを元にした哲学的考察、詩など、多彩な原稿を掲載しています。

 冊子は無料ですが、オンラインでは公開しませんので、私が会う人に手配りで広げております。水俣病センター相思社にもお預けしています。また、11月の文学フリマ東京でも、友人の栗田隆子さんに配布いただきます。どこかで手にとっていただければ幸いです。

 私はふだんは大学に所属する職業研究者として、苛烈な競争社会を生きています。業績主義のなかで、私自身、予算の獲得や査読付き論文を通すことに、日々、苦心しています。私は決してこういう競争に強いほうではないのですが、適応するべく努力しているうちに、文章は少しずつ上手くなってきたので「よかった」とも素朴に感じています。私は経済的に安定することを切実に望みつつ、「もっと面白いものを書きたい」と思っていますので、職業研究者を目指したことは結果オーライなところがあります。

 他方、こうした制度化された大学のアカデミズムが、学問の本質ではないとも考えています。本来の哲学や芸術は、日々の暮らしの中にあるものでしょうし、誰かの占有物ではありません。とりわけ、災厄を生き延びた人々や、マイノリティの語る言葉、表現こそが哲学や芸術の本来の輝きを持つとも思っています。なので、細々と冊子を作って配り歩くことこそが、私にとっての本来の学問のあり方のように感じられます。成果物をたくさんの人々に認められたり、商業的に成功したりすることではなく、自分たちの手で作り上げたものを、同じようなことを考えている人たちと共有し、刺激を受け合うことこそが学問の本質ではないかと。

 私は「制度化された学問」と「本質的な学問」との間で、どちらかを選ぶことなく、両方を続けていきたいと考えて今に至っています。執筆者にも恵まれましたし、職業研究者として得た能力や研究の成果も、冊子の発行にあたっては反映できているので、とても幸運だと思います。

近況

 本来ならば9月からはベルギーで在外研究を行う予定でしたが、ビザの問題などもあり、2021年4月に延期になりました。COVID19の影響や学振制度との兼ね合いなどで、しばらくの間はかなり消耗しながら、大使館や受け入れ大学と連絡をとっていました。私は10年以上にわたり、在外研究を希望しながら経済面や研究上の理由でそれがかないませんでした。それだけに渡航ができないという現実に直面するのは大変つらかったです。そのなかで、受け入れ大学の先生方が親身になり、手を尽くしてくださり、本当に救われる思いでした。非常事態においても、遠く離れたヨーロッパで、私の研究環境のために動いてくださる先生方がいらっしゃることに、力づけられて今日に至っています。今後もまだまだ不安定な状況ですので、4月の渡航も心配ではあるのですが、今は前向きに考えています。

 そして、4月からほとんどの研究調査の予定がすっぽりと抜けてしまったので、初めて英語論文を書くことにトライしています。もともと投稿予定でアブストラクトは受理されていたのですが、しっかりと論文執筆に集中できたのはありがたい話でした。1本目はすでに投稿し、editorial reviewでは良い評価を受けてほっとしたところです。今はpeer reviewが始まったところですので、審査結果を待っています。そして、これからあと2本の英語論文を書く予定になっています。

 これまで私は査読論文では、うまく日本の学会と研究課題がマッチせず苦労してきました。私の方も「何を書こうとしているのか」を伝える技術が低く、「どう書けばいいのか」で悩んできました。それでも、今年は論文賞*1もいただき、少しずつ進歩はあると感じているところでした。そこから、英語に言語を切り替え、より広いアカデミズムの世界に出ていくことで、論文を書く楽しみを初めて味わっているところです。査読というのは簡単には通らないものですから、これからまた壁にも当たるのでしょうが、次々と新しいものを書いていきたいと考えています。

 論文に限らず、自分の書くものが変わってことを感じています。環境問題の分野にうつって、急に文学や芸術の話が増えて、自分の中の感情が刺激されたこともあると思います。差別や抑圧と闘い、制度を変えることが重要だという想いは今も変わっていません。金と法律こそが、苦しい状況にある人たちを救うとも思っています。他方、子どもの頃の私は、激しい空想癖があり、児童文学のファンタジーの世界に閉じこもっていました。現実と向き合えない脆弱な子どもでした。その頃の自分を、最近、思い出すことがよくあります。

 そのことを自分に明瞭に突きつけてくれたのは、倉田めば「失われた「声」を求めて」(『治療は文化である』、金剛出版、2020年)です。私は、10年以上前にシンポジウムかなにかで倉田さんのお話を聞いたことがあります。その時のフロアにいた私にとって、倉田さんは成熟した活動家に見えました(たぶん、それはそれで事実です)。でも、その人が自分の心の扉をあけて、アートの世界でまったくちがう自分を表現していることに、胸をつかれました。倉田さんがその中で紹介していた本が『ずっとやりたかったことを、やりなさい』というタイトルだったのも、自分とっては示唆的でした。

新版 ずっとやりたかったことを、やりなさい。

新版 ずっとやりたかったことを、やりなさい。

 

 そもそも、環境分野に移った瞬間に、アートを愛する人が激増しました。それもセラピーではなく、「自己を表現する」ことに集中するアートです。そして、European  Forum for Restorative Justiceという、ヨーロッパの修復的司法の研究拠点でも、やはり環境問題と言えばアートがどんどん出てきます。(もちろん「男ばっかり」という世界からも解放されます)そういう場にくると、私はほっとします。さらに言えば、これまで私が調査を続けている水俣もやはりアートの地です。

 加えて、実は私は6,7月に某公立高校の「パフォーミング・アーツ」という授業の助手をやらせてもらいました。知人が講師をしているのですが、18人の高校2年生、3年生と毎週「何をすればいいんだろう」と手探りで授業を作っていました。一瞬一瞬で、異なる表情を見せる生徒たちと向き合う中で、「表現するってなんだろうな」という素朴な問いに戻っていく感覚もありました。若い高校生の「文字にできる言葉」では捉えられない、非定形の何かがいつも漂っている場が、毎回とても楽しかったです。でも「ああすればよかった、こうすればよかった」という後悔もいつもありました。こういうことも、いま私が「アート」に向かっている気持ちの元にあるのだと思います。

 まだそれぞれは、点と点のままで道筋になってはいないのですが、少し別のことをやりたい気持ちになっているのだなあと思います。もちろん、私は就職を探さなければならない、非正規の研究者でもあります。このようなぼんやりとした発想では、競争に勝てるとはとても思えないというのもあります。もっとオンラインセミナーなどで、積極的に発信していき、業績をあげたほうがいいのでしょう。それと同時に、「そんなことができるなら、私は研究者にならなかった」とも思います。私は労働においては、不動産屋のバイトが一番楽しかったし、自分が役に立っていると感じました。(住むところは、その人の生に直接関わります)でも、私は研究を続けることを選びました。

 以上の話は、まだ矛盾と迷いの中にいて特になにかの結論ではないのですが、メモとして書いておきます。以下、最近、買った本(または予約した)のうちの一部です。読了したものも、まだのものもあります。

夢ひらく彼方へ 〈上〉――ファンタジーの周辺

夢ひらく彼方へ 〈上〉――ファンタジーの周辺

  • 作者:渡辺 京二
  • 発売日: 2019/08/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
植物の生の哲学: 混合の形而上学

植物の生の哲学: 混合の形而上学

 
聖なるズー (集英社学芸単行本)

聖なるズー (集英社学芸単行本)

 
文学から環境を考える エコクリティシズムガイドブック

文学から環境を考える エコクリティシズムガイドブック

  • 作者: 
  • 発売日: 2014/11/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
環境を批評する――英米系環境美学の展開

環境を批評する――英米系環境美学の展開

  • 作者:青田麻未
  • 発売日: 2020/08/31
  • メディア: 単行本
 
荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放
 

 

 

 

WANのトランス差別を含む文章掲載について

 WAN(Women's Action Network)に、石上卯乃氏によるトランス差別を含む文章が掲載された件で、ここのところネットで議論になっていました。ふぇみ・ぜみ×トランスライツ勉強会は、WANに対して公開質問状を出し、以下のことを指摘しています。

 

石上氏による当該エッセイは、トランスジェンダーへの差別をフェミニズムの語彙を用いて正当化し、誤った印象操作をするものです。生理などの身体的特徴によって性別が決まるのだと主張して、ミスジェンダリング(誤った性別割り当て)を煽動するとともに、トランスジェンダー排除言説への批判を攻撃と読み替えたり、トランスジェンダー排除派フェミニストを被害者として逆転させたりなどのイメージ操作を行っています。

https://femizemitrans.blogspot.com/2020/08/blog-post.html

 

 以上のように、石上氏の文章がトランス差別を含むものだと明確に指摘されている。他方、WANでは昨年、トランス差別に抗するという声明が出ていました。

フェミニズムジェンダーセクシュアリティ研究は、性差別だけではなくあらゆる差別を、また複数の差別の連動性を問題視する視点を育んできました。この視点は、女性の/女性という経験は必ずしも一様ではなく違いをともなうという洞察を、また、権力関係は男女間だけにでなく女性間にも存在するという重要な気づきを、私たちにもたらしてきました。これは、女性の置かれた社会的位置の多様性に応じて多様な抑圧が生じる複合的な仕組みを考察する上で不可欠の視点です。私たちは、フェミニズムジェンダーセクシュアリティ研究の蓄積から受け継いできたこの視点と洞察の重要性をあらためて確認し、これを培っていくべきだと考えます。

「トランス女性に対する差別と排除とに反対するフェミニストおよびジェンダーセクシュアリティ研究者の声明」

https://wan.or.jp/article/show/8254

 以上のように、WANでは、これまでのフェミニズムで「女性」と言う枠組みそれ自体が議論されてきたことを指摘し、トランス差別に抗することを明言しています。

 それにも関わらず、トランス差別を含む文章を掲載することは、WANの団体としての方針が一貫しないことになります。それについて、このたび、WANから次のような見解が出ました。

これを契機に WAN サイト上で投稿者も望むように「自由でオープンな議論」が生じることに期待して、掲載の方向で投稿者と編集担当の間で、メールでやりとりを行い、8 月12 日に(引用者注:石上氏の文章を) WAN サイトにアップしました。

「公開質問状への回答 WAN編集担当」

https://wan.or.jp/article/show/9108

 上のように、WANでは「自由でオープンな議論」を生じることを期待するとはっきりと書いています。

 しかしながら、差別構造のおいては、差別を「する側」と「される側」は明白な力の不均衡があります。この状況で対話を行えば、差別を「される側」は、弱い立場に置かれたままで、圧力と緊張の中で発話することを強いられます。これはマジョリティからマイノリティへの「対話の強要」として機能します。

 私は、力が不均衡な関係において、対話が不可能だとは思いません。たとえば、私は性暴力の問題について、修復的司法のアプローチにより研究してきました*1。性暴力の知識が十分にあるベテランのファシリテーターが、綿密に練られたプログラムを使い、慎重に性暴力被害者を尊重して対話を行えば、有意義な実践になり得るという結論に至っています。ただしそのためには、膨大なコスト(人材、準備期間、資金等)が必要です。仮に、私はWANがそこまでして、差別を「する側」と「される側」の対話を実施すると言うのであれば、賛同したかもしれません。

 しかしながら実際にWANのやったことは、一方的にトランス差別を含む文章を掲載し、それをもって「自由でオープンな議論」が生まれることを期待しているだけです。差別を「される側」の安全を確保する準備は皆無のままに、「自由でオープンな議論」が勝手に生まれてくるという見解は、反差別団体としてはあまりにも性急であると考えます。

 このようなマジョリティから「対話の強要」は、マイノリティの対話に対する信頼を壊し、声をあげる力を奪います。多くの人々は、自分を差別を「する人間」の前ではうまく話せません。緊張や恐怖、不安などから、スムーズに言葉が出なくなることもよくあります。そうなれば、マイノリティは見せかけの「自由でオープンな議論」の場で、マジョリティに対して、「うまく話せない」という経験を積み重ねることになりますし、そうした苦闘の中で自らの声を失いかねません。

 そして、このような「対話の強要」は、これまで一部の男性がフェミニストに対してやってきたことです。かれらは、フェミニストを「自由でオープンな議論」の場に引きずり出して、「言わないとわからない」「もっと論理的に話して欲しい」「感情的すぎて聞いていられない」「この人の話は特殊すぎる」「あなたに問題があるのではないか」などと論評します。これらの一部の男性の振る舞いへの異議申し立てを、フェミニズムはしてきたはずではないでしょうか。

 私はこれまでWANの会員になったことはありませんし、寄稿等の経験もないため、まったくの部外者ですが、フェミニストかつ対話を研究してきたという立場から、WANのこの見解を批判します。

 

*1:小松原織香『性暴力と修復的司法』成文堂、2017年。