あっという間に2025年の上半期が終わります。例年5-6月は欧州の学会に出ているのですが、今年はパスしました。代わりに水俣でフィールドワーク。ここ数年、あちこちのフィールドで「世代交代」を強く意識します。水俣でも、お世話になってきた人たちが亡くなったり、引退を宣言されたりしています。70-80代の活動家は、声が大きくて喧嘩っ早い男性たちが中心で、そこには性差別や暴力の深い問題があります。他方、魅力的な運動を創造し、旗を持って走ってきた世代でもあります。日本だけではなく、欧州の修復的正義の実践・研究もそうです。その世代が抜けた後の社会運動が、どうなっていくのか。過渡期の中で何をすべきかを考えています。
いつの間にか、中核を担う(ことを期待される)40代になりました。どうしたらいいんだろうね。私たち、氷河期世代・ロスジェネは若い時に十分に組織で経験が積めなかったし、先輩からの教えもなく独立独歩でやってきた人が多いです。上の世代の仕事を礼賛するつもりも、引き継ぐ気持ちもないが、かれらの遺産を全て捨てるのは惜しいとも思っています。こういう冷めた態度だから、上の世代はイライラすることもあるようだけど、かれらと違う価値観や方法で、遺せるものは遺したいと思っています。特に水俣の場合は、無念にも亡くなっていった犠牲者や、沈黙するしかなく去っていった人たちへの供養の意味が大きいです。継承というよりは、追悼。
関連して、以下のような論文を書きました。初めて、日本語で石牟礼道子について正面から論じました。
他方、SNSの断片化されたコミュニケーションがどんどん激しくなっていて、自分のやっていることをほとんどアップしなくなりました。言葉尻を捉えられたり、何かの論争のネタにされるのはつまらないと思うようになりました。どちらかというと、私はインターネットに救われた立場なのに人は変わるものです。学生にも「SNSばっかり見ずに、本を読みなさい」と再三、言っています。20年前の自分を振り返ると苦笑いですが。
実は同人誌『リフレイン』に、「インターネット上でフェミニストだった頃――『身体と切り離した仮想の主体』の冒険」を寄稿しました。性暴力の被害を受けたあと、ろくに文章を書けなくなった私が、はてなでブログを書くことで自分の言説を再構築していった経験です。自分の性暴力の経験を人前で語ったり、書いたりすることは極力ひかえている*1のですが「同人誌だったらいいか」と思って書きました。研究者ではなく、同人作家バージョンの私の文章として読んでいただければ幸いです。以下からダウンロード版が購入できます。
ネットで書く代わりに、フィールドノーツを持ち歩き、写真をミニプリンターで印刷して貼り付けるようになりました。結局、紙が最強。デジタルよりずっと長期保存ができるし、AIに情報も食われない。めんどうくさくてさぼってしまうこともあるけれど、真面目に書いています。
私はカメラはGR3を愛用しており、フィールドで持ち歩いています。最近、キャノンのiNSPiCを買いました。持ち歩きできるミニプリンターで、専用用紙に印刷すると裏がシールになっていて、ノートに直接貼れます。なんて便利な。用紙代はそこそこかかるのですが、研究費で捻出しています。GR4が出るとのことなので、それも気になっていますが、まだ3が持ちそうなので……*2
同時に「変わってきた」と思うことは、文章だけではなく、動画の配信が増えてきたことです。昨年の12月に登壇した講演会の動画が無料で公開されています。多少の編集はされていますが、ほぼ、全ての内容が視聴いただけます。ズームではなく、会場での撮影でクリアな映像で音声もきれいに入っているので、観やすいのでは?
内容は珍しく、修復的正義について解説をしています。私の専門分野ではあるのですが、意外と講演の依頼は少なく*3、張り切って喋っています。研究者は、自分の専門分野についてはとても嬉しそうに話しますね。ベラベラと修復的正義オタクの語りを繰り広げていて、自分で見返して笑ってしまいました。
さて、今年は例年のヨーロッパ犯罪学会はパスして、9/3-5にあるBAJS(英国日本協会)の学会で発表します。英国・ウェールズにあるカーディフ大学で現地参加します。
以前から、「あなたの研究は(国際的な)日本学の分野にマッチするのでは?」と言われることが増えていました。最近は、直接的な犯罪や暴力の被害・加害ではなく、災害等の広範囲のできごとや、「記憶の継承」「トラウマを負った人たちのコミュニティ」、さらにはアートがテーマになってきて、学際領域の日本学のほうがいいかもしれない、と思うようになりました。しばらく、身を寄せてみようと思います。