永井均の発言について
永井均が、あるトランス差別に擁護ともとれる発言をして、ネットで話題になっている。発端は、永井の元教え子の谷口一平が、自分の投稿論文につけられた査読コメントをSNSで公開したことだ。谷口の論文はトランスジェンダーをテーマにしているが、査読の結果、不採用となった。しかしながら、谷口は査読者が、哲学研究者ではなくジェンダー論者であったことを批判し、不当な査読であったと訴えている。
谷口の主張の内容には踏み込まないが、これらの発言を一般論として「査読への不満」として理解する。トランスジェンダーをテーマにした論文であれば、どんなジャーナルであれ、ジェンダー論者が査読を担当することは十分に予測できる。そのために、学際領域を扱う哲学研究者であれば、先行研究を十分に精査し、査読者を説得できるよう先回って論を組み立てる必要がある。私自身、学際領域にいるし、うまく書けずに査読者に全然内容を理解されず、不採用になったことは何度もある。なので、論文投稿者としては谷口に同情はするが、査読とはそういうものなので、書き直して別のジャーナルに投稿するか、読み物として査読なしで公開するしかないと思う。査読制度に対する不満は私もあるが、こちらが査読付き論文を通したいと思うならば、そこに合わせて書くしかない*1。
それはともかく、話が大きくなったのは永井均が積極的に谷口論文の公開を求める旨の発言をしたからだ。永井は谷口を尊敬しており、今回のネットの騒動は谷口論文のPRになったと公言している。その永井の態度に対し、トランスヘイトを助長するふるまいだとして批判があった。永井はその批判に対し、次のように述べている。
谷口氏と私の間には自認問題に関して対立があり、それを学術的に議論したいと思っているだけです。(中略)ツイッターを読まれるだけでもわかると思いますが、私の関心事はジェンダーに関して「も」成り立つ自認と同一性の関係の問題で、それを議論したいだけです。*2
この永井の発言から読み取れるのは、トランスジェンダーの問題を、脱政治化して抽象的な哲学的な議論を展開したいと言う旨の主張である。つまり、生身のトランスを視界から外して、自分たちの知的好奇心から「自認と同一性の関係」を論じる素材としてトランスジェンダーのトピックを使いたいというのである。
こうした態度は、哲学研究者には度々見られる。自分たちは社会学者が心理学者と違って、あくまでも哲学的に議論をしているとして、それまでの他分野での議論の蓄積を無視して「新しい見解」を発表する。しかしながら、「新しい見解」は過去の先人の営みに敬意を払った上で生まれる。他分野の研究者との交流なしに、学際領域での哲学研究は成立しない*3。
また、この手の議論は今に始まったことではない。たとえば、水俣では市井ー最首論争が起きた。これは1983年に発行された『水俣の啓示』の上巻に掲載されている。
哲学者の市井三郎は、1976年に色川大吉を団長として発足した不知火会総合学術調査団のメンバーとして、水俣での研究を始めた。彼は来水当初は水俣でのフィールドワークを計画していたが挫折し、哲学論文を書くことになった。そこで市井は、当時、興隆してきていた社会生物学の中にある「人間淘汰」の考えをを批判的に取り上げた。不条理な苦しみのなかでまさに淘汰されていく水俣病患者について考えることで、社会生物学的な考え方の誤りに気づき、人の生きる価値を生産性で捉える見方を転換できるとの提起を試みたのである。しかしながら、この水俣病患者が今、淘汰されていっているという市井のものの見方は、患者やその家族、地域の人々に衝撃を与えた。その中で最首悟は、水俣病患者の苦しみは人為的に加害者(加害企業)によって与えられたものであることを指摘し、市井の脱政治的な哲学論文を批判した。
この市井ー最首論争は、川本隆史や鬼頭秀一に取り上げられ、哲学倫理学分野の課題として再提起された。つまり、生身の身体を持ち、苦しんでいる人々を前にして、哲学研究者が何をすべきかという問いである。哲学研究者の知的ゲームのために苦しんでいる人々を素材することは倫理的に許されない。そのことがわからない哲学研究者は、あくまでも論理の世界でのみ議論を展開し、人々にかかわる学際領域に踏み込まなければいい。
さて、永井はこのような哲学倫理学分野における、「現場との葛藤」「人々の苦しみにどう向き合うか」という課題を知らなかったのだろうか。そんなわけはないだろう。彼は哲学研究者として名を馳せ、大学教員の仕事をやってきた。市井ー最首論争の経緯も知っているはずだ。知っていてなお、人々の苦しみを無視して、抽象的な議論を展開する欲望をあからさまにしているから、私は批判的にこれらの発言を言及せざるを得なかった。永井個人の問題ではなく、今なお哲学倫理学分野に残っている問題として指摘したい。
*1:そして、私は国内学会の査読付き論文は通せなかったので、英語で書いて国際ジャーナルで通した。
*2:発言元は次のツイート→ https://x.com/hitoshinagai1/status/1740699313880318324?s=20 https://x.com/hitoshinagai1/status/1740701249467732398?s=20
*3:他方、先行研究集めに終始して、新しい見解を生むことなく、人の研究を批判ばかりする態度も良いとは言えないだろう。私はそういう研究者を他山の石としたい。