信田さよ子「加害者は変われるか――DVと虐待をみつめながら」

加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら

加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら

 3月末に出た新刊である。現時点で、私は「この本は、日本における被害者援助ついての最良の入門本だ」と思う。ここ4〜5年は、被害者支援ブームで、精神科医もカウンセラーも女性団体も、猫も杓子も援助に乗り出してきた。ようやく、「被害者支援とは、かわいそうな人に同情を寄せることではない」と明言する、支援者向けの書籍が出てきたと言えるだろう。しかも、信田さんは加害者支援を通して、暴力を孕む親密な関係性へと、分析のメスを入れる。
 児童虐待においては、信田さんは加害者を3つのタイプにわける。(1)被害を自覚できる(罪悪感のある)加害者、(2)被害を自覚できない(罪悪感のない)加害者、(3)病理のある(精神科治療が必要な)加害者である。
 第一章、第二章では、虐待家庭で育った女性が、自らの子どもを虐待するケースを扱われている。加害者は、自分が暴力をふるってしまうことを悔い、どうすればやめられるのか悩んでいるという、(1)のタイプである。信田さんは、この場合、あくまでも社会的援助の重要性を強調している。被虐待経験のある当事者が、「虐待の連鎖」を恐れ、個人の心理的問題に収斂させないように配慮している。
 圧巻なのは、「ドメスティックバイオレンス」と銘打たれた第三章である。まず、被害者の現状が扱われる。そこに描き出されるDV被害者は、怒り闘う被害者であり、「被害者扱いされることはみじめだ」と認識している。社会的に、DVから逃げることは、制度や経済上の問題により、困難が多い。さらに、「なぜ、悪くない自分が逃げなければならないのか?」という素朴かつ真っ当な気持ちを持っている。信田さんは、鈴木香織被告を例に挙げ、彼女がシェルターを去り、家に帰るときに「私はDV被害者なんかじゃない、夫には負けたくない」と思ったのではないか、と推察している。また、DV被害者を支援するには中立ではありえないことが指摘される。社会的に中立をみなされる位置とは、加害者寄りである。訓練を受けた心理療法家は、中立を取ろうとする癖があるが、そうしているかぎり被害者の信頼が得られないことが示唆される。
 そして、その反転となるのが加害者支援である。信田さんは、完全に被害者に寄り添って支援をしている自分は、どう切り替えて加害者支援をしているのだろうか、と自問する。信田さんは、実際に加害者支援を行っている。グループ・カウンセリングのファシリテーターである。信田さんは、ポイントはファシリテーターが男性と女性のペアになっていることだという。男性ファシリテーターに敬意を払う男性加害者が、女性ファシリテーターに侮蔑的な態度をとる場合、それ自体をグループで問題化するという。
 このような加害者支援には、「加害者に中途半端なDV知識を植え付け、さらに被害者を論破するための材料を与えるだけだ。そんなことよりも被害者を支援しろ」というような批判があるという。信田さんは、その批判を踏まえ、加害者に対面しつつ、その背後の被害者のために支援を行うという。目の前の加害者を無視することなく、それでも被害者の安全を確保し続ける二重性を持つことを支援の柱にすえる。その上で、信田さんは、支援の上で困難を抱えていることを率直に述べる。

 (引用者注:グループ・カウンセリングの)全体をとおして流れるものは、彼らが参加していることを評価し、変化を認めて伸ばしていくという肯定的な雰囲気である。処罰的にならず、否定せず、彼らが望むこと(パートナーともう一度やり直したい)に近づけるように協力していくという姿勢を貫くのだ。こうやって文字にするのは容易だが、実際の運営は非常に困難である。彼らの発言に抵抗を感じることは多く、時には彼らから私たちに反論が出る場合もある。裁判所命令ではないので、彼らをグループ・カウンセリングに拘束する強制力はない。グループに来なくなれば、妻への悪影響も懸念される。そんな中で、被害者支援のためという原則を曲げず、なおかつ彼らをグループにひきつけ、しかも迎合しないでいることは、まるで駱駝が針の穴を通るようだと思うこともある。
 ファシリテーターとして、私がいつも自分に言い聞かせているのは「彼らの暴力は否定しても、彼らの人格は尊重する」というフレーズだ。これによってかろうじて私は、ファシリテーターとしての役割を遂行できているのだと思う。
(147ページ)

これまで、加害者支援は、メンズリブ*1が中心になってきた。そこで問題のなるのは、被害者支援グループとの対立である。私は、支援に関しては次のことを述べてきた。すなわち、「被害者と加害者の対話は困難であり、ときには不可能である。しかし、被害者支援者と加害者支援者の対話は、問答無用で必要である」ということだ。だが、日本の支援の現場では、この対話は依然として開かれていない。その中で信田さんが、被害者と加害者の両方の支援を行い、どうバランスをとってきたのかという著述をしたことは、画期的である。
 さらに、信田さんは、第四章では性犯罪にも言及している。まず触れられるのは、語られなかった阪神淡路大震災でのレイプ被害である。いまだに、ともすれば性犯罪が隠蔽されることが明らかにされる。そして、カナダを例に挙げ、DV加害者更正プログラムと性犯罪加害者処遇プログラムが大きく重なっていることが指摘される。プログラムは、彼らのこころの中を探るのではなく、どうすれば犯罪行為にいたるスイッチを押さなくてすむのか、という具体的課題を提示しながら行われる。信田さんは、この章を次の文で結んでいる。

民間の相談機関で性犯罪者のカウンセリング意かかわる私たちを、今後さまざまな困難が待ちかまえているだろう。彼らの変化を信じること、一人の人間として尊重するという原点に絶えず立ち戻ることで、なんとかやっていけるのではないだろうか。そう信じたい。(177ページ)

 ほんの少しではあるが、修復的司法や加害者との共存という問題も触れられており、示唆にとんだ本である。これからの、被害者支援の潮流の先駆けとなるだろう。加害者支援に関する本のようなタイトルになっているが、被害者支援に関わる人も読むべき一冊だ。
 ただし、いくつか気になる点もあったので指摘しておく。まず一点目に、厚生労働省の「こんにちは赤ちゃん事業」を肯定的に捉えている点である。これは、乳児のいる家庭に、専門家が訪問する事業である。確かに、この事業は、虐待の発見に大変効果を示すだろう。しかし、これは一つのスクリーニングが、国家単位で全母親にかけられることでもある。リストアップされたチェック項目(たとえば部屋が汚い、シングルマザーである、など)に当てはまれば、虐待のハイリスク群とみなされる。これは、国家による育児管理である。非常に注意して扱う問題を孕んでいることを指摘しておく。*2
 次に、信田さんは、かなり支援の姿勢をここ10年間で変化させてきていることだ。本書では、必ずしも被害者に加害者から逃げることを強制しない(111ページ)といい、被害者が被害者性を獲得していくプロセスを「私というカウンセラーが彼女たちを洗脳しているのではない」(198ページ)と述べている。しかし、「DVと虐待」では、DVには最上敏樹の用語を援用して「人道的介入が必要だ」といい、夫と別れない被害者は洗脳して救い出すのだ、と書いていた。私は基本的に、かつての考えを柔軟に変化させることは支持する。しかし、信田さんの著作を真に受け、被害者を洗脳しようとした支援者もおり、それによって迷惑をこうむった被害者がいることは注記しておく。*3

DVと虐待―「家族の暴力」に援助者ができること

DVと虐待―「家族の暴力」に援助者ができること

 まだまだ、議論が足りない領域であるので、話題作となるだろうと思う。*4

参考:
信田さよ子「『加害者は変われるかーDVと虐待を見つめながら』が筑摩書房から刊行されました」『信田さよ子BLOG』
http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000339.html
芹沢一也「『加害者』という言葉の魔術」、筑摩書房 PR誌ちくま
http://www.chikumashobo.co.jp/pr_chikuma/0804/080404.jsp

*1:中村正さんのグループやイダヒロユキさんのグループなどが取り組んで来た

*2:それを明確に指摘しているのは社会学者の上野加代子である。

*3:正直、このときの信田さんのイメージで、この本にも期待はしていなかったが、いい意味でそれを裏切られた。なんていうか、目の付け所がむちゃくちゃいい人で「AC」「DVへの介入」と来て、今回は「修復的司法」にまで言及している。クレームメーキングの才能は突出してます。上野千鶴子さんと同じ匂いがする。

*4:ていうか、ならなかったら、支援業界に疑問がますます大きくなる。