高畑勲「かぐや姫の物語」
遅まきながら、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を観た。公開された頃に、サバイバーの友人から「あれはDVとか性暴力の話だ」と聞いていたのだけれど、全くその通りだった。
物語は原作の「かぐや姫」をトレースしている。竹から生まれた姫は、おじいさんとおばあさんに愛されて、野山を駆け回る元気な少女としてすくすくと育っていく。近くの子どもたちと遊び、少年・捨丸に惹かれていく。ところが、おじいさんは「この子を高貴な姫に育てなければならない」という使命感に駆られて、姫を連れて都に引っ越し、教育を受けさせる。姫は野山を恋しがり、おばあさんと庭で草花や虫を育てて心を慰める。ところが、美しい姫の評判は都でも噂になり、求婚者が殺到するようになった。彼女は自分が、ひとりの人間ではなく、珍しい宝物のように陳列され、獲得の競争の賞品になっていることに気づき、ひどく傷つく。意趣返しとして、求婚者たちに無理難題を突きつけると、みんな悪戦苦闘する。その姿を、姫は最初は笑っていたのだが、だんだんとかれらを傷つけ、最後には無理をした一人が死んでしまったことに衝撃を受ける。罪悪感に苦しむ姫。さらに、帝にみそめられて強かんされかける。そのとき、彼女は自分が月の世界からきたことを思い出し、その迎えがくると悟るのだ。おじいさん、おばあさんに月に帰らねばならないことを告げ、美しい音楽を奏でる楽隊に彼女は連れ去られ、この世界の記憶を失ってしまう。
水彩画で描き出されるアニメーションの世界は美しい。そのなかで、ときおり、姫が差別や暴力に晒され、傷つくために引き攣った表情が大写しになる。特に帝による強かんは、源氏物語の空蝉の章と重なるが、ここではっきりと「性暴力である」ということが画面から伝わってくる。だが、私が一番動揺したのはこれらの出来事が終わったあと、傷つき苦しむ中で、彼女が幻想のような世界に入っていく場面だ。彼女は、大人なった捨丸と再会し、「あなたとならきっと幸せになれた」と語り、縦横無尽にこの世界を飛び回る。二人が結ばれるかのような場面のあと、それらは現実に戻って消えてしまう。このとき彼女が語る捨丸との未来は、幼い少女が夢見るような地に足のつかない稚拙な空想である。観客も「これはきっと現実化しないのだ」と思いながら、彼女の夢のなかの幸せをともに味わうことになる。そして、夢からさめ、月から帰ることになった彼女は「この世界に残りたい」と切実に言い始める。月から逃げ出して、この世界に生まれ落ちてこんなふうに生きてよかった、もっと頑張ればよかったと語るのである。私はそこで泣いてしまった。彼女は都に連れられてきてから、いいことなど何もなかった。この世界を憎んで、恨んで、見切りをつけて月の世界に旅立ってもよかったのだ。
「私がこの世界に抱いたのは幻想でした。やっぱり月の安寧な世界のほうが幸せ」
そう言ってもよかったはずだ。なのに、彼女はこんなクソみたいな世界なのに、「ここでもっと生きたい」と願い、生まれてきてよかったというのである。さらに、彼女のそんな必死の思いとは関係なく、あっけなく月の世界に連れ去られ、彼女の想いも記憶も消されるのだ。こんな辛辣なラストシーンなのに、無表情な彼女を包み込む音楽はとても優しく、甘美だ。
高畑監督の作品は、批評的だ。観客は誰にも感情移入できない。実際に観ていても、姫は周りに流され、自分に閉じこもり、人に心を開いて交流することができない。置かれた立場に甘んじて、受け入れているからこそ、このようなラストシーンに至ったとも言える。また、おじいさんは子どもの話を聞かない抑圧的な父親であり、おばあさんは姫を慰めるだけの無力な母親である。さらに、求婚者たちは性差別的な男たちであり、帝はレイピストだ。では、出てくる人たちがみんな悪人かというと、そんなことはない。みんな、私たちの日常生活にいそうな当たり前の人たちだ。でも、誰も目の前の現実を直視せず、そこにある問題に取り組まなかったから、みんなが不幸になった。つまり、この作品では、観客が登場人物に自分を仮託して物語の冒険にのめりこんでカタルシスを味わう、ということができない。
それでも、高畑監督の作品には「優しさ」がただよう。それは、人間の弱さを肯定するような優しさだ。姫は、周囲に抗えず、力尽きて死んでいく子どもである。その子どもに対するまなざしは優しいし、彼女を潰してしまった社会に対する批判的な視座がある。
私はいま、宮崎駿のコミック版の「風の谷のナウシカ」を研究で取り上げるために、資料を読んでいるのだが、その一環で「かぐや姫の物語」もみた。二つの作品に出てくる姫は、どちらも「虫愛づる姫」である。人ではない、草花や虫を愛し、自然の中で生きたいと感じる。それが阻まれたとき、二人の取る行動は全く逆である。ナウシカは、人間の行動の過ちに気づき、それを正すために政治的に行動し始める。彼女は世界の変革者となっていくのだ。他方、かぐや姫は、なにひとつ抵抗できず、そのまま潰えてしまう。宮崎駿は、シビアな状況でも立ち上がり、たくましく生き延びて、世界を変えていくという夢を描く。高畑勲は、シビアな状況で立ち上がれず、力なくその場に座り込み、死んでいく子どもたちのいじらしさや痛ましさを描く。面白いのは、この二人が同じスタジオでアニメを製作し、ライバル関係にあったことだ。どちらの監督も子どもたちに向いて作品を創り、この世界で生きていくことを肯定する前向きなメッセージを放つが、そのベクトルは全く異なっていると、私は思う。