ジョージ・ミラー「マッドマックス 怒りのデス・ロード」

 あんまりにも評判がいいので「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観に行ってきた。ネットではフェミニズム映画かどうかが議論になっているようだが、私はこの作品は男性監督の「男の夢みるフェミニズム」の映画だと思った。抑圧され奴隷化された男性が、女性たちと共闘する物語なのである。以下はネタバレを含むので、観る予定のある人は読まないこと推奨。(アクションシーンなど、フェミニズムに関する話以外の感想はすべて割愛しています)

ジョージ・ミラー「マッドマックス 怒りのデス・ロード」
http://wwws.warnerbros.co.jp/madmaxfuryroad/

 マッドマックスの世界は、核で大地が汚染され、緑が失われた荒野が広がっている。悪の帝王イモータン・ジョーによって、民衆は搾取され貧しい暮らしの中、従属することでしか生き延びられない。ジョーの手駒であるウォーボーイたちは、戦争のために教育された少年兵で、「名誉の死」のために命がけで敵に攻撃していく。暴力がすべてであり、生き延びるためには力がすべてである。主人公のマッド・マックスは捕らえられ、血液をウォーボーイたちの燃料として搾り取られている。手足を縛られ、顔には拘束具をつけられている。
 そんな中、ジョーを裏切るのが女兵士フュリオサだ。子どもを産むための道具として幽閉されているジョーの妻たちをトレーラーに隠し、荒野の中、逃亡劇を始める。彼女が目指すのは自分の故郷「緑の地」だ。奴隷制から逃げ出した女性たちは、自分に付けられていた貞操帯を外し、自由になる。ところが、そこにマッド・マックスが襲いかかり、女たちからトレーラーを奪う。しかしながら、失敗してしまった。フュリオサは、トレーラーを取り返すために、マックスに「その顔(拘束具をつけたまま)でずっと生きるつもりなのか?」と問う。そして、一緒に逃げることを提案する。
 この場面はとても印象的だった。マックスの望むことは、銃と暴力によって自分の思うままに水を飲み、女たちに鎖を切らせ、敵から奪われたジャケットや車を取り返すことだった。最初はともに逃げることを(おそらく女たちが邪魔なので)拒絶した。一緒に逃げるくらいなら、また敵に囚われたほうがマシだとすら考えている。だが、フュリオサに「その顔」と指摘されると、共闘を仕方なく飲むのである。ここで、フュリオサが指摘したのは顔に刻まれた奴隷制の象徴だ。つまり「お前もまた女たちと同じ抑圧されたもの」だと言われて、マックスは渋々と女たちとの逃亡に加わるのである。
 だが、マックスは女たちを全く信用しない。武器によって脅し、屈服させ続ける。ジョーに囲われてぬくぬくと暮らしていた女たちは、はじめは諦めたり拒否したりするが、だんだんと手に武器を持ち戦い始める。リーダーであるスプレンデッドは、ついには激しい戦闘の中でも活躍して見せた。思わず、マックスも親指を立てて、彼女を認める仕草をして笑いかける。ところが、その直後に彼女は殺されてしまった。女たちは、彼女を助けるために「戻って」と叫ぶがマックスは見捨てて先に進む。フュリオサは、スプレンデッドが車にはねられたのを確認して、進むことを決める。もちろん、フュリオサにとって苦渋の決断だが、マックスもまた彼女の死を分かち合い、苦しい表情で運転を続けている。
 そんな中、ずっと逃亡につきまとっているのが、ウォーボーイのニュークスだ。彼は自分の死期が近いことを知っていて、是が非でも活躍してジョーに認められて名誉の死を遂げたいと思っている。ところが、おっちょこちょいなニュークスはジョーの前で大失敗をしてしまう。女たちのトレーラーに忍び込んでいたが、荷台に転がって落ち込んでシクシクと泣いていた。それを見つけるのが囚われた女たちの一人のケイパブル。「ジョーに失敗したところを見られた」と泣く少年にほだされて優しく慰めてしまう。こうして、心を開いたニュークスもまた、女たちの逃亡に加わるのである。
 戦闘を繰り返しながら、一同はついにフュリオサの故郷に到着する。そこでは、荒野で「鉄馬の女たち」はバイクを乗り回し、銃を撃ちながら暮らしていた。彼女たちはフュリオサの帰還を暖かく迎え入れてくれる。だが、すでに故郷だったはずの場所は汚染され、緑は実らなくなってしまった。「緑の地」はすでに喪われていたのだ。そこで、これまで戦闘でマックスと変わらないくらいに強かったフュリオサは、大声をあげて泣き崩れる。
 それでも希望はないわけではない。「鉄馬の女たち」の一人は、カバンの中に種を詰め、ひっそりと草木を育てている。「本当は人間は人を殺して生きていくのではなく、草木を育てて自分の食べ物を調達できるんだ」と老女は語る。これは、道中で銃の弾丸が「死の種」になぞらえられているのと対比される。男たちが銃で戦い、力によって生きるしかないと信じている中、女たちは生命を育み生きていくことを信じる。そして、フュリオサは、どこかにあるかもしれない「緑の地」を求めて、さらに世界の果てである塩の湖へと女たちを率いて旅立つことを決める。
 この場面はフェミニズムの寓話のようだった。かつて、レズビアン分離主義者たちは、女だけの村を作り自給自足の生活を目指した。男性原理に基づく力や銃の世界ではなく、女性原理に基づく大地に種を蒔き育んでいく豊穣の世界を夢見たのである。そのための実験的な共同体(コミューン)もあった。だが、歴史的にはその結果は失敗に終わっている。痩せた土地で女たちは十分な作物を育てることもできず、内部抗争が起きて離散していった。本当に少数の人々を除いて、もうレズビアン分離主義者の共同体は残っていない。だからこそ、何も実らない塩の湖に旅立つ彼女たちと、レズビアン分離主義によるフェミニズムの行方が重なって見えた。
 だが、この映画の逃亡劇はレズビアン分離主義ではなく、男性が混じっている。マックスは一同を止めて、砦の奪還を提案する。夢しかない旅を続けるより、一か八かでも力によって資源を取り返すべきだと主張する。正直に言えば、私はここは心底がっかりした。せっかくの美しい寓話から現実に引き戻されたようだ。それでも、マックスの(男性原理による)判断は理にかなっているとして、女たちは同意する。
 さらに激しい戦闘を繰り返しながら、女たちのトレーラーは砦に戻っていく。みな銃を手に取り、犠牲者を出しながらも前に進み続ける。だが、「マックス=男性原理」であり、それが正しいという映画でもない。物語の終盤で、フュリオサは戦闘の怪我が原因で死にそうになる。マックスは初めて自分の名前を明かし、甲斐甲斐しく看護する。そして、フュリオサのために、自分から血を分け与えるのである。
 映画の冒頭では、マックスは囚われの奴隷状態に置かれ、人間ではないように扱われていた。生きるためには力が絶対で、本能だけで獣のように生きるしかないと信じていた。だが、彼は一人の人間として名乗り、(女性役割とされてきた)ケアを行う。そして、奴隷頭に搾り取られていた血を、今度は何の見返りも求めずに仲間に与えるのである。女たちはマックスとの逃亡で変わっていったが、マックスもまた変わっていったのだ。彼が男性であることには変わりはないが、「男性原理」からは離脱していく。
 そして、フュリオサとマックスの間には、強い絆がある。それは「恋愛」や「性的なもの」としては描写されない。フュリオサはなんとしてもマックスを救おうとするし、マックスもフュリオサを救うために血を差し出す。それは、どちらも囚われの身から逃げ出し、生きていこうとするもの同士の絆だ。かれらは逃亡劇を通して、紛れもない共闘の仲間になっていくのである。
 ウォーボーイのニュークスもまた、「ジョーのための名誉の死」ではなく、ケイパブルを救うための「個人的な死」を選ぶ。救済や大義を求めず、ケイパブルに向かって、「俺を見てくれ」と言いながら死んでいく。ニュークスもまた、「普遍的な理」ではなく「個別的で具体的な情」を女たちの逃亡で知り、変わっていったのだ。
 砦を奪還した女たちは、ジョーを倒したことで民衆から熱狂的な歓迎を受ける。フュリオサは新たな民衆のリーダーとして受け入れられ、マックスは去って次の旅へと向かっていく。これは、フェミニズムが男性支配を倒したという単純なストーリーではない。抑圧された男性と女性が、闘いの中で絆を作り上げて新たな社会を切り拓くという「男が夢見るフェミニズム」であり、男性の救済物語にもなっているのだ。
 そういう意味では、「ご都合主義」だとも言える。現実では、女たちはマックスのような男の受け入れに抵抗するし、マックスのような男はフェミニストを尊重せず無意識に支配しようとする。実際にはそんな歴史が繰り返されてきた。ただし、この映画のポイントは、マックスがその世界でもっとも虐げられた被差別階級の男性だったということだ。また、ニュークスも洗脳された孤独な少年兵である。こうした設定を活かすことで、説得的な物語になっていた。
 こうした劇作の背景には、周到な準備があったようだ。ミラー監督はインタビューで次のように答えている。

映画を作る際、きちんとした世界観を構築するためには、できる限り物事を正確に描く必要がある。ウォーボーイズとイモータン・ジョーを描くにあたってはミリタリーの専門家にアドバイザーを依頼し、(俳優たちのための)ワークショップをやってもらった。そこで(ウォーボーイズやイモータンの)想定し得るコミュニケーションの方法を、現代の戦場におけるコミュニケーション方法を反映させた形で作り上げていったんだ。それと同じことを女性キャラクターについても行った。とくに5人の〈ワイヴズ〉の人物造形のためにだ。なぜなら〈ワイヴズ〉たちは、共通するバックグラウンド(というか境遇)があり、そのことで心がひとつに結ばれているーーということを示す必要があったからだ。そこで、特にアフリカにおける女性の人身売買や搾取(訳注:隷属状態、といってもいいです)に詳しいイヴ・エンスラーを招いて、〈ワイヴズ〉を演じた女優たちに「彼女たちがいったいどういう(精神的・肉体的な)状況にいるのか」ということがしっかりと理解できるよう手助けをしてもらった。シャーリーズ・セロンもイヴに多少アドバイスを受けているが、フュリオサはどっちかというと戦士だから、むしろミリタリーのアドバイスが必要だった(笑)。
*強調は引用者による
http://www.tbsradio.jp/utamaru/2015/06/post_897.html

 イヴ・エンスラーは著名なフェミニストであり、「頭のなかの女性像」ではなく、現実の女性たちの状況を踏まえて映画を作ろうとしている。エンスラーの人身売買についての見方は、フェミニズムの中では「白人主義」として批判されており、フェミニストとしては「人選が素晴らしい」とは思わない。だが、エンスラーの協力の影響か、囚われた女たちの「弱さ」や「収奪の悲惨さ」ではなく、「強さ」や「仲間との絆」をみせる演出になっており、さすがに現代的なフェミニズムの視点は踏まえていたと思う。
 ミラー監督自身は「〈フェミニズム〉はストーリー上の必然なのでであって、先に〈フェミニズム〉ありきで、そこに無理やりストーリーを付け加えて映画を作ったわけではない。〈フェミニズム〉はストーリーの構造から生まれてきたもの*1」と語っている。フェミニズム映画を作りたかったわけではなく、マックスの人間性を守るための闘いを描こうとすると、女たちとの共闘になったようだ。「男性の人間回復には、女性が必要だ」というときには、しばしば母性的でケア役割の女性像が描かれる。この映画で必要とされたのが「立ち上がる女たち」だったのはとても面白いと思った。
 もちろん、フェミニズム的に気になるところはいくつもあるし、第三世界イスラームの描きかた、障害者の描き方は議論になる部分が記憶に残っている。それでも、異色の映画だとは思った。ついでにいうと、上に引用しているインタビューは、ライムスター宇多丸さんがサイトに掲載している。ライムスター宇多丸さんは、TBS放送で映画評番組を担当していて、私も何度か聞いたことがあった。今回のインタビューは、インタビュアーの高橋ヨシキさんがきたいところに踏み込んでくれていて、とても参考になった。アクション映画では「男性」批評家、ファンと女性の間に溝があることも多いが、今回はミラー監督、高橋さんの方からフェミニズムへの言及がされていて、「実際のところ」を知ることができてよかった。【訂正しました*2】【訂正しました2*3
 さて、上の映画の内容とは直接は関係なく、私は家に帰ってから泣き崩れた。自分が関わっていた反性暴力の取り組みのことを思い出してしまった。私もまた、仲間たちと「緑の地」を目指そうと、旅立つことに決めたことがある。だけど、「緑の地」は無いことを思い知らされ、砦に帰るしかなかった。それは、スプレンデッドのように、「こころざし半ばで運動から去らざるをなかった仲間たち」への裏切りになるのではないだろうか。映画のなかで「私は緑の地に行く」と呪文のように唱えていたスプレンデッドが、何度も脳裏に浮かんで辛かった。

*1:http://www.tbsradio.jp/utamaru/2015/06/post_897.html

*2:私はインタビュアーも宇多丸さんだと思い込んで記事を書いたのだが、実際は高橋ヨシキさんだとツイッターで教えていただいた。謹んで訂正いたします。申し訳ありませんでした。

*3:宇田丸さんのラジオ番組をインターネット上のものと誤記していました。ツイッターでご指摘いただきました。大変失礼いたしました。二度も誤記をしてしまい、確認不足で申し訳ないです。