「非実在青少年」問題の論点(「東京都青少年健全育成条例改正」についての中間総括)

 「東京都青少年健全育成条例改正」ですが、3月19日の採決は見送られ、審議継続となりました。次は6月に採決の見通しとのことです。拙速な条例改正が避けられたことに、胸をなでおろしています。また、都議のみなさんが、冷静な判断をくだしたことに、敬意を表します。ですが、廃案になったわけではなく、たった3ヶ月ほどで次の採決が待っているわけですから、気の抜けない情勢が続きます。
 私は、3月12日の時点で、数人の都議に手紙で自分の意見を送りました*1。立ち上がりが遅かったために、文案も練れず、不十分な状態での送付となりました。本件では、マスメディアの報道も少なく、私もインターネット上の情報発信で知りました。幸運にも、今回は著名人による記者会見や、京都精華大学の声明などもあり、改正にはいたりませんでした。ですが、反対運動としては後追いになってしまっています。私個人も、「児童ポルノ」という非常に厄介で難しい議論に取り組むことをこれまで後回しにしてきましたし、今回も腰が重かったことを自覚しています。
 正直に言うと、4月より私は大きく生活環境が変わるため、これ以上に運動としてコミットすることは難しいと考えています。そこで、現時点で、一度、「非実在青少年」問題の論点を洗い出し、今後の議論につなげることにして、一度区切りをつけようと思います。長い前置きになりましたが、以下をこの問題に関する中間総括に代えたいと思います。以下の7点です。

(1)「表現の自由」についてどう考えるのか
(2)「法による規制」についてどう考えるのか
(3)実写のポルノとの違いについてどう考えるのか
(4)先端技術によるヴァーチャル・ポルノについてどう考えるのか
(5)当事者の抱える葛藤についてどう考えるのか
(6)ポルノが目に触れることが怖い、という人たちについてどう考えるのか
(7)ポルノ規制の議論はどうでもいい?

(1)(2)(3)(6)(7)については、私の考えを括弧内に入れて書いています。

(1)「表現の自由」についてどう考えるのか

 まず、ポルノ規制の反対の根拠として、よく用いられる「表現の自由」について、考えてみます。
 ある表現物を、法で禁じるということは、国家により検閲するということです。また、その表現を公開した人を、警察が逮捕するということです。よく、ポルノ規制の反対の根拠として、「表現の自由」が持ち出されます。なかには、「表現の自由」とは、「作家の表現欲を満たす自由」だと思っている人もいるかもしれません。ですが、法内で「表現の自由」の重要性が主張されるのは、表現物に対する国家の干渉を防ぐためです。
 これまでの歴史を振り返って、たくさんの国家が表現物に干渉し、その作家を逮捕し、ときには処刑してきました。その中には、国家権力を握る人々と敵対関係にあるような政治団体への関与を疑われ、逮捕されて処刑された人もいます。個人としての作家は、国家の持つ権力に対して、あまりにも弱い立場にあるからです。こうした歴史を踏まえたうえで、「表現の自由」を法的に保証することで、国家に対する作家の力の弱さに配慮しているのです。
 では、あらゆる表現物が自由に発表されてよいのでしょうか。

 私の場合の考えを述べます。私は、製作過程において、犯罪行為がおこなわれた表現物は、規制すべきだと考えています。たとえば、バッキービジュアルプランニングの制作したDVDです。バッキービジュアルプランニングの代表と監督は、アダルトビデオの中で、出演者が性的暴力をふるったとして、2006年に逮捕されました。そして、2007年に、強姦致傷で有罪判決を受けています。しかし、バッキービジュアルプランニングは、会社の名前を変えて、今もこのDVDを販売しています。こうしたDVDは規制すべきだと考えます。
 おなじように、性的虐待をおこなっているような、実写の児童ポルノについても、規制が必要だと考えます。
 ですので、私はあらゆる表現物に対して、法による規制を忌避する立場にはありません。しかし、今回の条例改正案において、法による規制がなされることが、妥当であるかどうかについて、考える必要があると思います。

(2)「法による規制」についてどう考えるのか

 今回の条例改正で争点になるのは、「児童ポルノは、是か非か」ではありません。争点になるのは、「児童ポルノを法によって規制することは、是か非か」です。
 現在の日本社会には、たくさんの児童をモデルとした表現物が、あちこちに掲示され、販売されています。性欲を喚起させるものも少なくありません。こうした状況の中で、子どもたちが「あなたは性的対象なんですよ」「性的に魅力的なほうがいいんですよ」というメッセージを(表現物を掲示・販売する側がどう思っていたにせよ)受け取ってもおかしくありません。そのことを、大人がどう考えるのか、という大きな問題があります。*2こうしたメッセージをなくすほうがいいのか。それとも、対抗するような、「あなたは性的に魅力的であるかどうかにかかわらず、愛される存在なんですよ」というようなメッセージを発信していったほうがいいのか。または、子ども自身が、そのメッセージと闘う力を信じたほうがいいのか。こうしたことを考える中で、こうしたメッセージを発する表現物を、減らしたり、子どもたちの目に触れないところに置いたほうがいいという結論がでるかもしれません。
 ただし、そのときには、必ずしも法の力を用いなくてもよいことも、押さえておいたほうがいいように思います。消費者がこうした表現物を買うことについて考えること、流通のシステムを考えること、掲示・販売する場所を自主的に決めること、子どもたちに大人からこうした表現物について説明すること……たくさんの方法があります。

 私は、今回の条例のような、ヴァーチャル・ポルノを法によって規制することに反対しています。しかし、私は、児童をモデルにしたポルノやそれに類するような表現物の、現在の氾濫については問題を感じています。私がもっとも望むことは、こうした表現物を作製する作家・出版社・販売業者自らが、「法による規制」ではないかたちで、自主規制について考えることです。子どもを対象とする性的欲望を煽るような表現物を、子どもたちの目に付かないかたちで、大人として責任を持って管理しするようになることを願います。爆発物や危険薬物について管理するように、細心の注意を払って、他者を傷つけないように表現物を厳重に管理することを求めます。しかし、爆発物や危険薬物と違って、表現物を成分分析によって危険かどうかを調べることはできません。そこで、法による一括の規制ではなく、表現物にかかわる人たち自らの手による自主規制が妥当だと考えています。

(3)実写の児童ポルノとの違いをどう考えるのか

 「実在青少年」と「非実在青少年」との違いについては、ネット上で説明している人も多いですし、詳しくは書きません。*3児童ポルノ法で規制対象になっているのは、「実在青少年」が被写体のもの、すなわち実写の児童ポルノです。それに比べると、今回の「非実在青少年」が対象のもの、すなわちヴァーチャル・ポルノの規制に反対するのは難易度が低いです。
 実写の児童ポルノでは、被写体となる子どもたちがいます。彼らの交渉能力について、考えなければなりません。すなわち、子どもはセックスワークの契約について、合意可能か、という問題です。一般の契約については、18歳未満は合意不可能だとみなされます。ですので、契約の際には、親の同意が必要になります。では、親の同意があればセックスワークをしてよいのか。たとえば、子役はどうなのでしょうか。昨年末の紅白歌合戦でも、子どもたちが出演し、喝采を浴びていました。彼らは大人を魅了し、金銭を(親が代替して)授受しています。こうした子役の労働と、セックスワークがどう違うのか。なぜ、セックスワークについてのみ、合意不可能とされるのか、という問題が出てきます。

 私自身は、子どものセックスワークは認めない立場にあります。しかし、それには明確な根拠があるわけではありません。上のような問題に対しては、答えを持っていません。中には、性交渉を特別なものとして、セックスワーク全般を禁止しようとする人もいます。しかし、私は「大人のセックスワーカー」は労働者だと考えますし、肯定します。今のところ、大人と子どもの非対称性を鑑みて、子どものセックスワークを認めない、というふうに考えていますが、論理的に詰め切れてはいません。

 しかし、ヴァーチャル・ポルノに関しては、上に書いたようなコミュニケーションの問題がありません。いまのところ、表現物が意思を持つようなテクノロジーもないですし、表現物に人格も認められていません。ですので、ポルノを論じる際で一番の難関となる被写体の「合意」の問題がないため、議論は単純になります。

(4)先端技術によるヴァーチャル・ポルノについてどう考えるのか

 これから先、テクノロジーが発展すれば、表現物が意思を持ったり、人格が認められたりするかもしれません。そうした技術はまだまだ開発途上でも、非常に精巧で、まるで実写のようなCGにのポルノは実現されつつあります。
 こうした問題については、ポルノ規制のレイヤーだけでは、論じ切れません。私たちが、テクノロジーとどう付き合うのか、という問題と接続されるからです。私たちは、テクノロジーにより、自分たちの欲望を満たす手段を次々と手に入れてきました。ですが、欲望を満たすことが、必ずしもよいことなのか、という疑念も呈されてきました。たとえば、クローン技術により自分の臓器のコピーを作ることや脳死状態の人から臓器の提供を受けることについて、の議論がたくさんあります。また、デザイナーズベイビーや遺伝子治療、さらには肉体の増強技術についても、倫理的な疑問が付されています。
 一方には、テクノロジーにより、欲望を満たすことで、現実の子どもたちを性的対象にすることを避けることができる、という考えがあります。もう一方には、そうしたテクノロジーで欲望を満たしていくことへの倫理的問いがあります。この点を押さえて議論しなければなりません。

(5)当事者の抱える葛藤についてどう考えるのか

 今回の動きの中で、ネット上で、子どもを性の対象とする人が、自らの考えを書くこともありました。特に、以下のid:nakamurabashiさんの二つの記事は、非常に印象に残りました。

「世界中に存在する『あなた』たちへ」
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100316/1268714062
児童ポルノは社会のお目こぼしのなかにのみ存在できる」
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100319/1268936388

 nakamurabashiさんは、一つ目の記事で、子どもたちは「悪徳」に触れながら大人になっていくという「現実」を強調します。この世界の中には、醜いものや暴力的なものが満ち溢れています。その「現実」を隠して、親が選別して「子どもを浄化する」ことに対する違和がある、とnakamurabashiさんは言います。私は、この記事を「この世界には、性的な暴力があって、でも美しいものがある。そうした総体としての世界を、まるごと味わいながら子どもは大人になっていくのではないか」という提起として読みました。そして、nakamurabashiさんは、子どもたちの目から児童ポルノを隠してしまうことに反対します。
 続いて、nakamurabashiさんは、二つ目の記事で、自分が子どもを性の対象としていることについて書きます。今度はnakamurabashiさんは、児童ポルノを、子どもたちの目から隠すことの必要性を述べています。なぜなら、大人と子どもの力は非対称であり、大人の価値観を子どもに押し付けることは簡単だからです。nakamurabashiさんは、自分自身も母親から「要求を満たさないと愛されない」という脅迫を受けて育った経験から、このことを説明します。子どもが「どんな自分であっても存在していてよい」という安心感の中で、育つことの必要性を主張するのです。そして、自らがこうした子どもの安心感を奪うような欲望を持っていることを、具体的な経験に基づいて語っています。自分がそのような存在であることへの憎悪を持ちながらも、生きていくために児童ポルノの流通を「お目こぼし」として許して欲しい、と書いています。そして、子どもたちの目に、児童ポルノを触れさせていけない、というのです。
 nakamurabashiさんのような考えを持つ、子どもを性の対象にする人がほかにもいるかどうかはわかりません。代表だとも、サンプルだとも、いえないでしょう。ただ、こうした矛盾を抱えている人に対して、どう考えるのか、という問いが、当事者でない人たちには投げかけられます。つまり、スッキリと割り切れるような――たとえば、児童ポルノは犯罪を抑制するとか、児童ポルノを禁止することで犯罪が減るとか――問題ではないかたちで、児童ポルノについて思考する姿勢が必要となる、ということです。そして、私たちは、「児童ポルノがあることを、肯定しながら否定する」というような、こうした葛藤を抱く人と共に暮らす社会をどう考えるのか、ということです。

(6)ポルノが目に触れることが怖い、という人たちについてどう考えるのか

 性的暴力の被害にあった人の中には、ヴァーチャル・ポルノであっても、「ポルノを見たくない」「ポルノが存在するだけで、自分の身が危険にさらされているという感覚を持つ」という人たちがいます。*4
 また、女性は、圧倒的な肉体的力の差によって、男性に常にレイプされるのかもしれない、という危険にさらされているのだ、という人もいます。そして、フィクションであっても、そうした力関係の中で、一方的な陵辱を楽しんでいることが耳に入ることで、恐怖を感じるというのです。*5それに対して、反論を書いた人がいます。すべての人は、暴力衝動を持っています。それを、表現物の中で昇華しているにすぎないというのです。*6
 現在の日本の社会では、こうした「ポルノに対する恐怖」を表明する機会が非常に少なくなっています。こうした恐怖を感じる人の中には、「私がおかしいのかな、病気なのかな」「被害者だから、こんなふうに思うんだ。はやくトラウマを癒さないと」と考える人もいます。ですが、こうした恐怖を感じる人たちは、決して少なくありません。女性にこういう感覚を持つ人は多いですが、女性でない人の中にもいます。男性で「暴力的なポルノをみると、気分が悪くなる」という人もいます。
 こうした人たちの声が、広がっていくとどうなるのでしょうか。「ポルノに恐怖を感じる人たち」についての配慮が必要になるかもしれません。ですが、このとき、「法による規制」だけが方法ではありません。それは(2)で述べたとおりです。こうした人たちと、どう社会で暮らしていくのか、という問題はあるのです。
 その上で、やはり、私たちのひとりひとりが持つような、暴力衝動について認めていかなければならないでしょう。女性も、暴力衝動を持っています。その衝動に、女性でない人、男性も怯えています。「ポルノに恐怖を感じる人たち」への配慮が必要なように、ほかのひとたちへの配慮も必要です。
 また、もう少し視野を広げて考えてみれば、世の中に満ちている恋愛物語のほとんどは、シスジェンダー*7異性愛者のロマンチック・ラブです。そうでない性指向を持つ人や、トランスジェンダーの人にとっては、非常に抑圧的です。そして、障害者は性から疎外されやすい状況はずっと続いています。こうした状況の中で、特定のポルノ、すなわち、男性が女性を暴力的に扱うポルノばかり*8が流通していることに、問題がないとはいえません。ある人たちだけが楽しむだけに、ポルノが流通していること。これを疑問視し、問題化していく視座は必要だと思います。また、主流でないポルノを、奨励していくような仕組みも必要かもしれません。なんにせよ、あるポルノのストーリーが支配的であることと、そのポルノのストーリーを禁じることとは、必ずしも直結しないことが重要です。

 私は、こうしたポルノについて、自分がどういうふうに感じているのか、ということが話せる場は必要だと考えています。そして、自分の感覚が否定されないような安心感がベースにないと、語れないのではないかと思います。こうした場の確保は重要です。しかし、それと同時に、感覚だけでは政治的行動がとれないことも、私は強調しておきたいです。「ポルノに対する感覚」を相対化し、ほかの人たちとの共存の中で、どうした選択が可能なのか、理性的に議論する必要があるでしょう。

(7)ポルノ規制の議論はどうでもいい?

 一部の人たちは、児童ポルノは禁止すればいいといいます。まず一つ目に、「禁止されて何が困るのか?」という疑問が呈されます。そして二つ目に、「今回の規制に反対している人たちは、ほかの人たちを積極的に抑圧してきたのではないか」という疑念が呈されます。
 一つ目の疑問に対しては、「困る人は一部である」ということが回答になると思います。子どもを性の対象にし、それが自分にとって非常に大きな問題だと考えている人にとっては、今回の規制は恐怖であり、切実な問題でしょう。しかし、そうでない人にとっては、「ポルノくらい規制しても困らない」となるでしょう。この落差は、あらゆる問題の当事者とそうでない人の間の落差と共通するものです。
 二つ目の疑念に対しては、どう答えるべきでしょうか。たとえば、在日外国人の人たちへの差別に対して、障害者への差別に対して、女性への差別に対して、セクシュアル・マイノリティへの差別に対して……ほかの人たちの差別に対して、今回規制に反対する人たちはどう考えてきたのでしょうか。自分だけ自由でありたい、自分だけ楽に生きたい、という発想で運動しているのでしょうか。もしそうであれば、「お前らの権利なんか知らねーよ。勝手に死ね」というような、これまでほかのマイノリティが投げつけられてきたような言葉を、浴びせられても仕方ないのかもしれません。運動をしていく中では、自分たちの主張を、説得的に構築していかなければなりません。その中で、問われることは、自分たちが為してきた差別や不正でもあります。それは、ポルノ規制に反対する人たちだけではなく、すべての運動にかかわる人が問われることです。条例改正をはじめとした、ポルノ規制に反対する運動を継続するならば、避けられない問いです。

 私自身*9は、性的暴力の被害者とのかかわりが多く、むしろこうしたポルノに恐怖を感じる人との接点が多いです。また、かつて、支援団体にコミットしていたときには、ポルノ規制を推進する人とも、話をする機会が多かったです。
 私にとって、条例改正に反対することに、メリットはありません。私が条例改正に奔走したのは、児童ポルノ法において、実写の児童ポルノの単純所持規制に賛同しているからです。私にとって、実写の児童ポルノの規制に賛同することと、ヴァーチャル・ポルノの規制に反対することとはセットです。
 実写の児童ポルノで起きていることは、ヴァーチャルな世界で起きていることではない、ということを強調するためにも、私は条例改正に反対します。この世界のどこかで、いま、この瞬間も、性的虐待にあっている子どもたちがいます。それは、ヴァーチャルな出来事ではありません。間違いなく現実です。そして、ヴァーチャル・ポルノを規制しても、彼らは救われないのです。
 ヴァーチャル・ポルノを規制することではなく、子どもたちが性的虐待から逃れ、支援を受け、安全に暮らすことができる制度が必要です。そして、性的虐待を受けないように、性に関する情報を手に入れることが必要です。まるで、ヴァーチャル・ポルノの規制によって、性的虐待を受けている子どもたちを支援しているかのような幻想を打ち壊すためにも、私はこうした規制に反対します。

*1:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100312

*2:http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071022/1193061545

*3:都議への手紙で触れています(PDF内)http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100312/1268372653

*4:そうでない人たちもいます

*5:http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100319/love_sex

*6:http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51420496.html

*7:性自認に違和のない人、トランスジェンダーでない人

*8:最近は、BLもポルノの主流に食い込んでいるのかもしれないです。いわゆる「男性向け」ポルノと絶対数で比較すれば、少ないですが

*9:在日外国人や障害者、女性、セクシュアルマイノリティなどに対する差別への反対について、これまでさまざまな記事を書いてきたので割愛します