香月真理子「欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち」

 先日、児童ポルノを法規制することについて、記事を書いた*1。私はバーチャル・ポルノの法規制に反対だ。また、子どもを性の対象にするという、欲望を禁止することもできないと考える。その前提の上で、子どもを性の対象とする人たちについて、<法規制とは別の文脈で>よく考えたいと思っている*2
 次の本が、昨年末に発刊された。

欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち

欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち

 目次は次のようになっている。

本書を書いた動機
第1章 少女への想いを文学で昇華させる会社員
第2章 幼女を性的に描く漫画家
■同人誌の現在
■アダルトゲームの販売男性に聞く
児童ポルノをめぐる国会の動き
第3章 男児に加害し、相互援助グループに通う男性
■子どもの性を保護する法律
第4章 ”理想の子ども”を空想する元教師
第5章 二次元の少年にだけ萌える女性漫画家
第6章 「ジュニアアイドル」を取り巻く大人たち
第7章 少年タレントを応援するファンたち
第8章 わいせつ行為を繰り返し、服役中の男性
■「性犯罪者処遇プログラム」とは
■官民協同の刑務所プログラム
あとがき

書いたのは、香月真理子。1975年生まれのライターで、幼いときに性的暴力を受けたことがある。はじめの「本書を書いた動機」で、香月さんは被害経験を振り返っている。20歳ごろに、この経験の記憶が鮮明によみがえったのだという。続けて次のように書く。

 あまりに重い事実をすぐには受け止めきれず、確かめるように何度も思い出した。神経は高ぶり、眠れない夜が続いた。このときの失恋を含め、人生のうまくいかないことをすべて被害体験のせいにしたい気持ちと、そこへ逃げ込もうとする卑怯な自分を否定する気持ち。二つの間で揺れ動き、この堂々巡りから永遠に解放されそうもないことに絶望した。
 何でもないように振舞い続けたが翌年、鬱病を発症した。大学の学生相談室で紹介してもらった神経科に、約5年間通院した。その間、男を恨む気持ちはまったく湧いてこなかった。代わりに湧いてきたのは、「あれはいったい誰だったのか」という疑問だった。
 今となっては誰なのか知る術もないことはわかっていた。ならばせめて、子どもを性的に見る」とはどういうことなのか知りたい。そう想うようになった。
 こうして2007年から始まった取材に、子どもを性の対象とする当事者や、彼らと何らかの関わりをもつ方々が応じてくれた。
 取材の結果、見えてきたものは、彼ら一人ひとりに生き様があり、物語があるということ。彼らを孤独に追い込まないことこそが、子どもに対する性犯罪抑止にもつながるものと信じている。
(6ページ)

香月さんは、こうした立場から、当事者へのインタビューを行い、この本にまとめている。本文では、できるだけ、香月さん自身の存在を消すように配慮されている。筆者の、当事者の言葉をそのまま受け止めようとしている苦心が伺える。
 日本において、「小児性愛者・ロリコン」のイメージは、1988年から1989年にかけて行われた連続幼女誘拐殺人事件によって、大きく印象付けられた。加害者のMさんは、「オタク」であり「ロリコン小児性愛者」であると報道された。ライターや研究者の取材により、Mさんが「オタク」という言葉も知らなかったことがわかったのは、ずっと後のことだ。また、Mさんは小児性愛者ではなく、幼女を女性の代替物とみなしていた、という鑑定医の証言もある。しかし、この「ロリコン小児性愛者=Mさん=危険人物」という構図は定着してしまった。そして、現在においても、「ロリコン小児性愛者」は、「オタク」で「ネクラ」で、他人とコミュニケーションのとれない若い男性だというイメージは、根強く定着している。
 しかし、この本に登場する当事者は多様だ。少女を愛する男性だけではなく、少年の像を愛好する女性もインタビューに応じている。また、少年タレントを応援している男性も出ている。自分の欲望を吐露する漫画を描いて生業にしている人もいる。児童ポルノをインターネット上で配布して、罪に問われ、教職を追われた人もいる。こうした人びとを、一括りに「小児性愛者」として危険視することが、いかに乱雑で実像とかけはなれたことなのか、よくわかる。彼らの共通点は二点である。一点目は、「子どもを性の対象としていること」。それぞれの人が対象とする子どもも多様だ。10歳前後の少女、3歳〜9歳の幼女、男児、女児、空想上の子ども、アイドル、イラスト。児童ポルノを肯定する人も、否定する人もいる。実際に犯罪を行う人もいれば、食い止めるひともいる。家族が居る人もいれば、居ない人もいる。すなわち、どんな人も「子どもを性の対象とする人たち」でありえるし、彼らは私たちの隣で暮らしている人たちであるということだ。そして、二点目は、「かれらは実際の子どもたちを傷つけることは悪いことであり、性的行為を強いてはならないということを、理解している」ということだ。*3
 


 私は、「子どもを性の対象とする人たち」は、セクシュアル・マイノリティであると考えなければならないと思う。性的指向が、その人のアイデンティティの根源にかかわるような、重要な問題であることは、セクシュアル・マイノリティの解放運動の中で主張されてきた。セクシュアリティは、いかなる矯正も不可能であり、それを強いることが暴力であることが明らかにされている。同じことは「子どもを性の対象にする人たち」についても言えるのではないか。
 セクシュアリティは、人生の中で変化していくものである。ときには、「子どもを性の対象にする人たち」が、そうでないセクシュアリティに変わることもあるだろう。だが、それはいくつかの条件が重なりあっておきることであり、本人が努力したり、誰かが強制すること<だけ>で、変更されるものではない。逆にそうした変更を自分に課することで、自罰に陥り、うつ状態に入ってしまう人もいる。私は、自らのセクシュアリティを変更したいという人の気持ちは尊重したいし、その相談に乗ってくれる人がいたり、同じ気持ちを共有する人たちのコミュニティがあったほうがいいようにも思う。少なくとも、そういう「変更したい」という気持ちを吐き出す場すら、今はほとんどないからだ。だが、うまく変更できない人や変更したいと思えない人を追い詰めたくもない。
 では、変更しない場合には、どうなるか。かれらは、そのセクシュアリティを持っていることを知られることで、致命的な社会的排除を受ける可能性がある。だから、隠しておかなければならない。そしてそのプレッシャーにより、ストレスを受けやすく、精神的に不安定になりやすい。「子どもを性の対象とする人たち」の中で、大人を性的対象にするひとは、まだカモフラージュができる。家族がいたり、友だちづきあいができたり、創作活動に秀でていたり、職場で認められていれば、ほかの部分で、安定した自己を得られるかもしれない。実際に行為におよばず、自己内で欲望を昇華し、自分と子どもたちの間に、なんらかの線引きをしようとできる。そうしたエネルギーを持つことができる。この本に出てくる「子どもを性の対象とする人たち」も、8人中5人はそうした自己による欲望のコントロールに成功している。
 だが、残る3人は、かなり厳しい状況に置かれている。一人は、自助グループに通いながら、精神科で治療を受けている。同じような性犯罪加害者のサポートをする仕事もしている。この人は児童ポルノは犯罪を誘発すると考え、できるかぎり自慰行為もしないように心がけている。もう何年もそうした取り組みを続けている。しかし、精神的な不安定は続き、なんとか希望を見出すところでインタビューは終わっているが、先行きはわからない。もう一人は、性犯罪を繰り返し、有罪判決を受け、性犯罪者処遇プログラムを受けている。面会に来る家族や友人もなく、「なんとかやりなおしたい」と心に誓っているが、こちらも先行きはわからない。さらに一人は、性犯罪で執行猶予中に犯罪行為を行い、実刑判決を受けた。前職を失い、「性犯罪者処遇プログラム」にもまじめに取り組んだ。さらにカウンセリングを受け、再就職での勤務が目前だった。香月さんは、この人からの手紙を紹介している。

 手紙の中で白石さん(引用者註:当事者のこと)は、「小児性愛者」が世間から差別的・警戒的に見られていることは事実だが、致し方ないことだと述べている。自分自身の思考を見つめ直したとき、性的嗜好のマイノリティーに対する”根拠のない警戒心”がないとは言い切れないからだ。
「男性を性的対象とする女性と接する時、相手が自分を性的な目で見ていると考えることはまずありません。性別以外にも性格・趣味・口ぶり・外見・話題など、相性を左右する条件は無数にあるからです。しかし、ある男性が『私は同性愛者です』と言ったら、どうでしょうか。自分のことも性的な目で見ているのではないかと、漠然とした不安を感じてしまいそうな気がします」
 自分や多数派と異なる人たちへの排他的な気持ちや特別視は、「自分を含め、誰にでも起こりうる思考ではないか」と、白石さんは綴っている。
「私のような立場から申し上げるのは恐縮ではありますが、単に『けしからん』『気味が悪い』『一般人とは違う者だから何をしでかすか分からない。いや、いずれ必ず何か問題を起こすに違いない』という感情のもと、ゲテモノ視や異端視したり、おびえて排他的に振舞うだけでは、問題は見えにくくなるばかりではないでしょうか」
(114〜115ページ)

この人は、自らをセクシュアル・マイノリティであると考え、そこから考察を深めようとしている。では、こうした主張の前に、もう一度考えてみよう。
 「子どもを性の対象にする人たち」は多様である。一つのモデルでは括れない。そして、かれらはセクシュアル・マイノリティである。当事者の中にそうしたことを言う人もいて、彼は性犯罪加害者である。では、ほかの「子どもを性の対象にする人びと」は彼のことをどう考えるだろうか。私がこれまでネットで目にした「子どもを性の対象にする人たち」自身の言説には、「犯罪をおこなった人は、性犯罪加害者である、しかし犯罪をおこなわない私は、彼らとは違う」というものが散見された。「子どもを性の対象にする人たち」のカテゴリーの中に、性犯罪加害者がいるということ、すなわち、自分のセクシュアリティと性犯罪加害が地続きであることについて、どう考えるのだろうか。切断するのか、接続するのか。それは自虐的に「キモオタ」と言って振舞うこととは質が違うように思う。実際の性的暴力は、陰惨で残虐で、子どもを徹底的に傷つける。その犯罪に、どのような立場で、何を考えるのか。
 この問題に、答えようとしている人もいる。id:kaienさんは、幼児性愛者と自己を接続する考察をしている。

「『萌え』と幼児性愛のあやうい関係。」
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100303/p2

kaienさんは、自らを「萌えオタク」であると考えている。そして「ロリコン」であるかと聞かれると、100パーセントNOとはいえないという。では、「幼児性愛者」かと聞かれると、そうではないという。この「ロリコン」のカテゴリーと「幼児性愛者」のカテゴリーとの格差は、大きいことを指摘する。kaienさんは、梁石日が書いている、ヤコブ・ビリング「児童性愛者」の解説文を取り上げる。そして、そこでは幼児性愛者は人権もなく、悪魔のような存在として扱われているという。そして、こうした幼児性愛者と、「ロリコン」ひいては「萌えオタク」の間に線引きはできないと結論付ける。
 続いて、kaienさんは、この「欲望のゆくえ」を取り上げ、次のようにいう。

 この本の著者は、自身、幼児期に性的虐待を受けた経験をもつ女性で、「子どもを性の対象にするとはどういうことなのか?」という疑問を徹底的に問い詰めていく。

 その視点は、先の梁石日とは対照的に、徹底的に公正で客観的である。この本のなかに、「ロリ系」の漫画を描く男性と、「ショタ漫画」を描く女性が登場する。

 かれらは「オタク」であり、「幼児性愛者」の範疇にも入りそうな人物であるが、同時に「普通の人」でもある。少なくとも、梁石日が描き出すような悪魔ではない。ぼくもまた、そういう人間として、じぶんを定義したいと思う。そして、そういうじぶんを肯定したい。

 ぼくとしては、他者から「キモい」といわれたとしても、「そうですか」としか答えられない。それはぼくの問題ではなく、かれ/彼女がぼくを見つめる視線の問題だからである。ぼくはべつに、だれかを気持ちよくしてあげるために生きているわけではないのだ。

 どんなセクシュアルな志向、ないし嗜好をもっているとしても、ぼくはぼくだ。他者がそれを容認してくれないとしても、ぼくはぼくだ。だから、ぼくは他人の性的志向や嗜好も認めたい。その意味で、ぼくは幼児性愛者を否定することはないだろう。かれらはやはり、同胞である。
(同記事)

こうして、kaienさんは、セクシュアル・マイノリティとして、「子どもを性の対象にする人たち」をとらえ、悪魔的存在であるとされる幼児性愛者を同胞だとみなしていく。では、kaienさんが、実際に性犯罪加害におよんだ人に対し、どう考えるのか。それについては、わからない。ただ、こうしたkaienさんの思考は、自分と異なる人たちと共に生きていくことの、基本になるように思う。
 では、ほかのセクシュアル・マイノリティにとって、「子どもを性の対象にする人たち」とはどんな存在なのだろうか。そして、性犯罪加害に及ぶ人たちはどんな存在なのだろうか。


 さて、ここで、セクシュアル・マジョリティの話をしたいと思う。といっても、マジョリティとは誰のことか、というふうに問う必要はあるだろう。私たちは、さまざまなセクシュアリティを重層的に持っている。たとえば、私がヘテロを名乗るのは、ヘテロとして振舞うことに違和感を持たないからである。そうした視点より、ヘテロセクシュアリティを持つというよりは、ヘテロに違和のないセクシュアリティを持っているということを、マジョリティであることとして、考えてみたい。
 多くのマジョリティもまた、子どもをイメージとして扱うポルノを愛好している。そのような人たちは、この本に登場するような、「子どもを性の対象とする人たち」とはずいぶん違うように思う。この人たちは、マジョリティとして埋没する中で、「子どもを性の対象とする人たち」と自分を切り離し、他者化しているのではないか。自分はマジョリティの立場にいながら、切実に児童ポルノを求める人たちが作ってきた市場に参入し、イメージを消費する。そして、その消費をやめることと、「子どもを性の対象とする人たち」が児童ポルノを利用できなくなることを、同一視しているのではないか。
 こうしたマジョリティの立場から、児童ポルノを消費する人たちもまた、「子どもを性の対象とする人たち」と地続きであるのだろう。だが、「ロリコン」と「幼児性愛」との格差以上の、格差がここにはあるように思う。自らを性犯罪加害者と隣接する存在と考えて児童ポルノを手に取るか、ヘテロのポルノの変奏版と考えて児童ポルノを手に取るか。どちらのほうがよいというわけではない。だが、傍目には同じに見える行為の中に、この断絶があるのではないか。


 前段では、セクシュアル・マイノリティのカテゴリーに、「子どもを性の対象とする人たち」を包摂し、接続することがまるで善いことかのように書いた。だが、こちらでは、接続できない断絶を強調している。この接続・切断・断絶は、セクシュアリティの問題だけではない。あらゆるカテゴリーの内部では、さまざまな人たちの接続・切断・断絶が繰り返される。こうした作用を繰り返しながら、「子どもを性の対象とする人たち」とは誰のことで、どう考えているのかについて、もう一度練り直す必要があるのではないだろうか。それは、性についての多様性を考える上で、必要な作業のように思う。


 最後になったが、この本のコラムは非常によくできていると思う。コミケの説明から、性犯罪加害者を取り巻く法律や治療教育、支援体制などについてまで最新の情報が掲載されている。この問題に関する入門書としても良いと思う。

*1:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100321

*2:詳しくは→http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795

*3:逆に言えば、理解していない加害者は、今回は取材の対象からもれているということだ。