村上春樹と、子どもとのセックス
*直接的な性描写があります
村上春樹「1Q84」のBOOK3が飛ぶように売れているようだ。大ベストセラーである。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/04/16
- メディア: ハードカバー
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そんなできたての小さな性器に、彼の大人のペニスが入るとはとても思えなかった。大きすぎるし、硬すぎる。痛みは大きいはずだ。しかし気がついたとき、彼はすでに隅から隅までふかえりの中に入っていた。抵抗らしい抵抗はなかった。ふあけりはそれを挿入するとき、顔色ひとつ変えなかった。呼吸が少し乱れ、上下する乳房のリズムが五秒か六秒のあいだ微妙に変化しただけだった。それを別にすれば、何もかもすべて自然で、当たり前のことであり、日常の一部だった。
(303ページ)
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/05/29
- メディア: 単行本
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もちろん、「1Q84」は小説作品であり、文脈から切断してこの描写を判断することはできない。作品中では、セックスは儀式として描かれ、作品中に必然性をもって性的な場面が挿入されている。そういう点で、この描写は、「表現の自由」として法規制を免れるだろう。だが、先日、話題になった「非実在青少年をめぐる問題」*1においても、はたして「表現の自由」は、ほかの法益があるときに最優先して保護されるべきなのか、という疑問が出されている。もちろん、都条例においては、小説作品は除外されているので、規制の対象にはならない。しかし、法規制の問題としてではなく、倫理的問題として、子どもとのセックスを描写することを考えるとき、「1Q84」も考察の俎上にあげられるだろう。
私が問題にしたいことは、多くの日本でこの作品を手に取る人たちは、「1Q84」の中の、子どもとのセックスの描写を、どのように読んでいるのか、ということだ。それは、いわゆる「児童性愛」とカテゴライズされるものだが、読者はこの作品を楽しむときに、そのことをどう認識するのか。自らも、「児童性愛者」であると考えるのだろうか。そんなことはないだろう。「村上春樹はすばらしい」というとき、こうした「児童性愛」の側面を指すことは、少ない。多くの「文化人」が、べた褒めにし、「現代思想」と「ユリイカ」が同時に特集を組む作品である。
カフカ賞の候補にも選ばれるハルキ。イスラエルで、「卵の側に立ちたい」とスピーチするハルキ。こうした、「世界のハルキ」が、17歳の少女の膣にペニスを挿入する場面を描いても、読者は「文学」として「芸術」として、お咎めなく楽しむことができる。カラフルな表紙の、漫画絵で少女が描かれたポルノとは、まったく別物のように感じられるだろう。だが、それは、子どもとのセックスの描写なのである。
私が問題だと思うことは、村上春樹の小説に、子どもとのセックスの描写があることではない。一方で、「非実在青少年」という言葉で子どもとのセックスの描写に法規制がかけられながら、もう一方で子どもとのセックスの描写がある作品が、そのことを問題化されることもなく、ベストセラーとして本屋で溢れんばかりに配架されている。この両者のアンバランスさに、違和感を覚えるのである。繰り返すが、私は両者が法規制されればいいとも思わないし、両者が無批判に氾濫すればよいとも思わない。ただ、これはダブルスタンダードであり、日本における、子どもとのセックスについての言説の混乱を、端的に表しているようにも思う。子どもとのセックスの描写は、一部分では嫌悪され、一部分では熱烈に愛好されている。そして、嫌悪される描写を好むのが「児童性愛者」であり、愛好される描写を好むのが、肩書きのないヘテロマジョリティではないのか。もちろん、両者はきっぱりと分かれるようなものではないだろう。だが、私は、子どもとのセックスの描写を、「一部の児童性愛者」<だけ>の問題ではなく、名乗ることもないヘテロマジョリティの問題でもあるというふうに、投げ返していきたいと思っている。*2