山田詠美「学問」

学問

学問

 「1Q84」があまりにもひどかったので、口直しに本屋に走って買いに行った。こちらは、ほんとに対照的な作品で、最後まで楽しめた。
 この作品の主題は、”子どもの性”である。主人公の仁美は、小学校2年生のときに東京から、田舎の美流間に引っ越してくる。1970年代の高度成長期の中、心太、千穂、ムリョ、仁美の4人の思春期に向けての成長していくさまを描いている。
 心太は、大人だろうが子どもだろうが、相手を魅了し、支配してしまうような魅力の持ち主である。子どものころ、心太は蓮華で作った花の縄を仁美に巻きつける。その象徴的な風景のように、仁美はマゾヒスティックな被支配欲をあたため、心を捕らえられている。幼いうちにオナニーに目覚めた仁美は、それを儀式と呼び、自らの被虐的なファンタジーを自覚的に愛好している。そこに心太の像を利用することもある。だが、山田さんは、仁美の性癖を病的なものとしては描かない。物語の最後に、強く崩れない自己を保っていた心太は、失恋により書庫で号泣する。それは、仁美のそれまでの「支配者としての心太」のイメージを壊すものであった。仁美は次のように思う。

 こんな筈はない、とうろたえました。それなのに何故でしょう。仁美はようやく、くっきりとした輪郭を携えたひとりの男によって、快楽の繭から心地良い糸を紡ぎだされているように感じたのです。そして、それにあらがいながらも、身を任せてしまうことを切望したのです。書庫の片隅で、怒りの残骸に埋もれてしまった心太。息も絶え絶えの様子でした。思い出すだけで、まろい嘆息が口からこぼれます。けれど、その優しい幻滅を誘った彼に、操られたい。操るより、操られたい。彼女の指たちは、それを願って、動きまわるのを止めようとしないのでした。涙を眼の縁に残した彼の面差しは、彼女の同情を逆手に取って、次々と生み出されては生産される快楽をいいように弄び続けたのです。
 もはや、儀式ではありませんでした。幼い頃から特別視してきた自分だけのおごそかさは、みじんもありませんでした。彼女は生身の人間に支配されていました。そして、その引き摺り降ろされた喜びだけが、これまでの長い年月を慰めるものだと悟ったのです。
 そうか、と腑に落ちました。このねじけた行為を、人は、自慰と呼ぶのか。心太の不様な泣き顔と、そんなものに不覚にも搦め捕られてしまった自分を、憐れみました。でも、このような形で自らを慰めるのは、何と気持ちの良いことなのでしょう。
 テンちゃん(引用者註:心太)、と仁美は呼びかけました。私、とうとう本物の逃れられない人になっちゃったよ。そう呟いて、彼女は、想像の中で、たったひとりだけ顔を持っていた男に、初めて満足させられたのでした。
(286〜287ページ)

そして、心太もまた、仁美のことを「ぐしゃぐしゃに潰したくてしょんなくなって来る」とつぶやくのだが、やはり恋愛関係には進展しない。それでも仁美は、砂の上にあおむけになっている心太の唇にキスをする。二人は次のような会話をかわしている。

「私ねえ、欲望に忠実なの。愛弟子と言ってもいいね」
 なら、と言って、心太は、仁美を抱き寄せ、自分の脇の下を枕に、彼女を横たわらせます。
「じゃあ、おれは兄弟子に当たる訳だな」
「テンちゃんの欲望は、どんな欲望?」
「それは内緒だら。でも、フトミ(引用者註:仁美)の欲望は、おれが、ずっとずっと守ってやるよ」
 なんて頼もしいんだろう。心太の汗ばんだ体の匂いを吸い込みながら、仁美は安心して目を閉じました。私、絶対に、テンちゃんに付いていく。
(291ページ)

小説は、二人が10代の時点で閉じられるが、その後千穂や心太が若くして死んでしまうことは作品内で明示されている。あくまでも、青春期にも入らない若い少年や少女を題材に、”恋愛”未満だが”性愛”には足るエピソードが、静かな文体で描かれている。
 この作品は、きっとオナニー好きの女性なら楽しめるはずだ。特に、パジャマ(しかもネル地)を丸めて、股に挟んだオナニーは、リアリティがありすぎてちょっと笑ってしまった。それから、オナニーの快楽は知っているのに、それをどうやってセックスに結びつけたらいいのか、という疑問は、確かに子どものときに持っていた。私も、オナニーという言葉よりも、ずっとずっと前から自慰行為にふけっていて、そのころオナニーは儀式としての秘密の楽しみだった。女性の、知識の前に身につけた、性のよろこびと探究を描いた日本の小説は、初めてじゃないだろうか。セクシュアリティを論じる題材としても使えそうな作品である。