萩尾望都「一度きりの大泉の話」

 

一度きりの大泉の話

一度きりの大泉の話

 

  萩尾望都による、新人漫画家時代の回想録ではあるが、一番のハイライトは同居していた漫画家の竹宮惠子増山法恵らとの関係を告白的に述べている部分にある。増山の提起する「少年愛の世界」と、それにのめり込んでいく竹宮。そこから距離をとりながらも、彼女たちの交流に刺激を受け、一足早く独自の世界を描く作品として結晶化した萩尾。しかし、そのことは竹宮の嫉妬を招き、萩尾は一方的に彼女たちのコミュニティから追放される。

 人間関係としては珍しいものではないし、まとめてしまえば「よくあること」になってしまう。しかし、萩尾はそのときあったことを、自分の「見たこと」と「感じたこと」、その後に与えた影響を丁寧に叙述していく。そして、もう二度と彼女たちの関係は修復し得ないことを宣言している。

 客観的に要約すればこういう話だが、私はこの本を読んだ後、芋づる式に自分の中の記憶を引き出され、その晩は悪夢をみた。私は、萩尾の「残酷な神が支配する」が大好きなのだが、読むと具合が悪くなるのであまり読まないようにしている。

残酷な神が支配する(1) (小学館文庫)

残酷な神が支配する(1) (小学館文庫)

 

  上記の作品ほどではないが、萩尾の描き出す世界は、読者を過去の記憶や深い思考へ招き入れるところがあるのだと思う。個人的には、私も自分のトラウマと格闘して四苦八苦していたころに、英国・ブライトンの語学学校に少しだけ滞在したことがあり、萩尾もあの地で過去の記憶と対峙していたのかと思うと、感動した。そして、なぜ、「残酷な神が支配する」の有名な崖のシーンがセブンシスターズであるのかという謎も解けた。セブンシスターズは、日本ではあまり知られていない観光地だが、ブライトンのすぐそばである。私はブライトン滞在中はそのことに気づかなかったが、のちにセブンシスターズにも行ったことがある。

 さまざまな、萩尾や竹宮に対する論評が飛び交い、社会分析と結びつけたものもあるが、私にとってそれらはあまり興味のあるものではなかった。私にとって、萩尾の書いたものは、自分の内面世界に直結するものである。「私と萩尾」の話しか語れない*1

 私は萩尾が絶望に満ちた世界を生き延び、漫画家を続けてくれたことが本当にありがたい。これは当事者の手記なので、竹宮とは異なる視点で書かれているし、認識のずれもあるだろう。実際に「何があったのか」は、研究や取材によってのちに明かされるかもしれない。今回の手記を受けて「もう24年組とは言えない」とか「朝ドラにしてはならない」という声もあるが、これから何十年も萩尾や竹宮の漫画は読み継がれていくだろうし、ずっと将来に「新しい事実」がわかるかもしれないし、翻案された朝ドラが生まれるかもしれない*2。それは今ではないだろうが。彼女たちの作品は、時代を超えていっても輝くような高い完成度を持っているので、焦っていまなにかをいう必要はない。

 いま、手元にはないのだが、竹宮の「少年の名はジルベール」を読み返したくなった。事実を照らし合わせるためではない。こういう人たちが私に作品を届けていてくれたことを、改めて振り返りたくなるからだ。 

 

*1:偶然だが、エヴァの映画を観た時にもそう思った

*2:歴史を紐解けば、芸術家の人間関係はだいたい複雑で心痛むものが多い。「XX派」などと呼ばれるコミュニティは大体途中で分裂する。