パロディ問題について

【この記事の末尾に重要な追記があります。そこまで併せてお読みください(2019/7/17)】【さらに末尾に追記をしました(2019/8/4)】

 

 少女漫画雑誌「花とゆめ」14号に掲載された、ある読み切り作品について議論が起きている。この作品は、新人漫画家A氏が編集者B氏の指示により、有名少女漫画家C氏の絵柄に似せて描かれている*1。さらに、この漫画の内容は、ステロタイプ化された少女漫画のパロディになっている。この作品の発表後、「花とゆめ」の編集部には多数の抗議が寄せられた。また、漫画家C氏から、この作品について連絡等はなかったことを示唆する発言がSNS上であった。その結果、「花とゆめ」編集部は漫画家C氏と読者に向けて謝罪を表明した*2

 この問題について、漫画評論ブログ「漫棚通信」で以下のような言及があった。

「誰が誰にあやまるのか:花とゆめ2019年14号」

http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-6af73f.html

 

 「漫棚通信」では、今回問題になった読み切り作品は、少女漫画のパロディであることを指摘している。そして、パロディは重要な表現形式であり、漫画家C氏も寛容になるべきだという旨の発言*3をした上で、以下のように述べる。

現代日本、パロディはきわめて生きにくい時代となっています。いわゆるパクリと混同されることも多い。原著者に対して仁義を切らないと、パロディは存在することも困難です。田中圭一が原著者からどこまで許可を得ているかは知りませんが、本来のパロディは原著者に連絡など不要なのです。

 わたしの世代はパロディを崇高な権利として理解していました。本来パロディは原著および原著者に対する批判であり風刺であり、さらにはそれとは無関係のナンセンスな自己表現、のはずでした。これをわたしたちは筒井康隆長谷邦夫から学んだのです。パロディに対して著作権を行使して反対する行為。これを施行する原著者は、ケツの穴の小さいやつ、と思われていました。わたしは現在もそう思っています。

 以上のように、「漫棚通信」では、パロディの表現の重要性が述べられている。

 それでは、この記事に対して、私の見解を書いておきたい*4。私はある表現を分析する場合に気をつけるのは(1)表現意図(2)掲載媒体(3)表現内容の三つである。

 第一に、表現意図についてだが、「漫棚通信」の記事と同様に、私もこれは少女漫画のパロディとして創作されたと考えている。パロディは古代から続く表現のバリエーションの一つであるのは言うまでもない。「女たちの平和」で有名なギリシャ喜劇の作家・アリストファネスもパロディを取り入れている。また風刺画は政治の権力者に対する鋭い批判として作用する。パロディは権力や保守的な価値観を揶揄や皮肉によって、笑いの対象にすることで批判をする力を持っている。

 それでは、今回問題になった読み切り作品は、何を笑いの対象にしたのだろうか。「漫棚通信」によれば、既存のステロタイプ化された少女漫画である。繰り返し、少女漫画で描かれる図像や展開のパターンをなぞりながら、その表現をずらしたり変形させることで面白おかしく描き出す。こうした表現自体は禁止されるべきではないし、不当ではない。それに対しては私は賛同する。では、何が問題であったのか。

 私が問題にしているのは第二の掲載媒体である。少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる。これが私が今回、「花とゆめ」編集部に違和感を抱く理由である。「花とゆめ」は商業雑誌であり、読者が欲しい作品を提供するはずだ。時には挑戦的な作品によって、編集部から読者に新しい表現をぶつけることもあるだろう。だが、自分たちが大事にしている少女漫画の表現をずらしたり変形させたりしたものを見せられ、揶揄を用いて笑いの対象にされ、批判されれば、そんなことを期待していない読者が怒るのは当然のことだろう。クリームパンと書いてある商品にカレーパンが入っていれば怒るのである。

 たとえば、ある政治権力者の風刺画を発表するのは、官報ではない。体制に対して批判的な新聞である。権力者を批判したい人たちが買う媒体に、批判的な風刺画を掲載するのは合理的である。また、同人誌によるパロディについてどう思うのかと私に聞いてくる人もいたが、「花とゆめ」は同人誌ではない。少年漫画雑誌「サンデー」にスラムダンクの二次創作(パロディ)が掲載されることはない*5。なぜなら、同人誌ではないからだ。通常、編集部は自分たちの発行物の購買層を想定し、そこに受け入られる範囲の内容の作品を掲載するはずである。

 そうであれば、「花とゆめ」編集部は、自分たちの雑誌の購買層は、掲載された読み切りを受け入れると予測していたのだろうか。この作品について、少女漫画の「自虐だ」という人もいた。だが、自虐ネタというのは本人が望んで、自らの行為を笑いに変えていくから力を持つ。今回の作品を描いたA氏は、C氏の絵柄を利用してパロディ作品を描いており、他人をネタにして笑いをとっている。本当に自虐ネタだというのであれば、A氏は少女漫画家として地位を確立し、自らの作品をパロディの対象にすべきだろう。この読み切り作品は自虐ではない。

 加えて、なぜ少女漫画を読む人は自虐ネタで笑いを取らなければならないのだろうか。C氏の作品を子どもの頃から読み、ともに成長してきた読者もいるはずだ。なぜ、それを笑いの対象にしなければならないだろうか。そうしたい人はすれば良い。そうでない人に、他人が求めることではない。自虐ネタなどにせず、心の中でそっと守っておく人もいるだろう*6。C氏のファンが「花とゆめ」編集部に抗議したのはもっともなことだろう。

 なぜ、「花とゆめ」編集部はこのような反応が予想できなかったのだろうか。私は二つの推測をしている。一つ目はミソジニーにより「女性読者は抗議などしない(または相手にしなくて良い)と思い込んでいた」という可能性。二つ目は「編集部内でこの漫画はウケてしまい客観的な判断ができなかった」という可能性である。特に後者については、いわゆる身内ネタでは「メタな笑い」はウケる。その身内ウケをそのまま商業出版物にまで発展させてしまったのではないか。ただ、この二点は全くの憶測であるので、全く違う事情があるかもしれない。なんにせよ、私はこのように少女漫画雑誌に少女漫画のパロディが掲載されたことは不可解であるし、どういう理由があるのか知りたいところである。

 第三に表現の内容についてだが、私は当該の読み切り作品の掲載された号を入手できなかった。そのため詳しく立ちいることができない。だが、「漫棚通信」の中で記述されているのを読み限り、この読み切り作品ではC氏の絵柄に似せられたキャラクターが「「BEM=BUG-EYED MONSTER」たる巨大眼少女」として登場すると書かれている。「漫棚通信」ではC氏の絵柄を「バランスを失するほど眼が大きい少女の絵」と評している。だが、C氏自身は、眼を大きくしたのは子どもの認知能力でも表情を読み取りやすくするためだったと語っている*7。C氏が子どもに対する配慮として大きく眼を描いているの絵柄を選んでいるのに対し、A氏がその絵柄の特徴を掴む時にモンスターと名付けている。両者の漫画に対する姿勢を比較すると、A氏の絵柄の捉え方は非常に浅薄であると言えるだろう。

 当然ではあるが、パロディが力を持つのは、鋭い批判精神が作品に凝縮されている場合に限られる。それに足りる作品だったとは、上の絵柄に関する話では判断できなかった。つまり、A氏の読み切り作品はあまり面白くないから笑えないし、批判されたのはないか。

 極めて優れた作品は、辛辣な揶揄や皮肉を含んでいても、読者を笑わせてしまうエネルギーを持っている。その稀有な作品として、岡田あ〜みんの「ルナティック雑技団」を挙げておきたい。この作品に登場する天湖森夜(てんこもりや*8)は少女漫画に出てくる王子様のようなイケメンの学生で、大人しくていかにも可愛い主人公の女の子と出会う。そこから凄まじい勢いでギャグが展開されていく。この作品が掲載されたのは少女漫画雑誌「りぼん」で、ほかは王道中の王道の少女漫画が並んでおり、完全に浮いていた。岡田は少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載していたとも言える。岡田にもアンケートなどで、作品の酷評は届いていたようだが、熱狂的に支持する読者もいた*9

 第一と第二の話をひっくり返すことになってしまうが、面白ければパロディは様々な批判を吹き飛ばす。その力が今回の読み切りには残念ながらなかった、という結論で良いように私は思う。

新装版 ルナティック雑技団 1 (りぼんマスコットコミックス)

新装版 ルナティック雑技団 1 (りぼんマスコットコミックス)

 

 

追記

 いくつかのブコメへ応答しておく。

id:min222 色々書いてあるけど、これ書いてる人は花ゆめに載ってる漫画読んだことなさそうと思った 

 それは誤った推測なので訂正を求める。この記事を検索すれば、「花とゆめ」に掲載されている「ガラスの仮面」の感想が出てくる。私は少女マンガ全般が好きなので、「花とゆめ」に掲載されている作品もいくつも読んでいる。印象に残っているのは「ツーリング・エクスプレス」「僕の地球を守って」「闇の末裔」「フルーツ・バスケット」など。ただし、雑誌ではなく単行本で読んでいるため、雑誌の売り上げに貢献していないことは認める。

id:greenT 少年漫画ではドラゴンボールのパロディを銀魂でやったりとか普通なので、ここに何の問題があるのかわからなかった。面白くないパロディは攻撃されてよいというスタンスならわかるけど普段の氏のスタンスと合ってる?

 自分で検索してみたら11年前にはもっとはっきりと書いていた。今読むと文章が稚拙で目も当てられない記事だが、リンクを載せておく。だいたいいつも同じことを考えているので、特に変わりはない。

「正しいことと、それがどうでもよくなること」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/20080331/1206979753

 私はポリティカル・コレクトネスを揶揄する人々のことは批判するが、ポリティカル・コレクトネスでは解決できない問題があることは認める。ざっくりと感覚的に言うと、表現の問題の9割はポリティカル・コレクトネスで解決するが、残りの1割は解決しないと考えている。

 id:solailo ううむ。ある程度なるほど、と思いながら読んだのだけど、font-daさんが読まずに「たぶん面白くなかったんだろう」と結論するのは残念。読めなかったならコメントを控えるか、読んだ上での感想をのべてほしかったな。 

 おそらく、もうこの作品は出版社が公開停止したため、入手できない。入手できるならば、ご自身で読んで私を批判する記事を書けばいいと思う。

id:ht_s ジャンプのギャグ漫画とか読んだことない人? >少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる 

 「すごいよ‼︎ マサルさん」と「ボボボーボ・ボーボボ」は好きだ。

追記2(2019/7/17)

ブクマコメントで id:motidukisigeru さんから次のようなコメントいただきました。

id:motidukisigeru 「ロマンスとバトル」は恋愛を否定するバトル漫画世界に放り込まれた少女が、依存的ヒロインから脱却し、恋愛の力で世界画を改革する話で、少女漫画への批判どころかフェミニスト的な観点からも面白い話である。読め

 この情報をもとにすれば、十分に批評精神を持ったパロディとして作品が成立している可能性があります。もし入手でき、そのことが確認できれば、私のこの論は撤回し、作品の公開を求める立場となります。同じく読んで「作品がパロディとして優れている」と評価する立場の方からの、私への批判は今後もぜひお待ちしています。

(ブクマコメで「アマゾンから買える」ということを知り、衝撃を受けました。とりあえず注文しましたので、届けば私からも追記を書きます)

追記3(2019/8/4)

 上の追記を書いてから、作品を入手して読んだが、作品の評価も記事の内容も変更の必要はないと、私は考えている。面白くない作品*10については、あまり言及しないようにしているので、今後も触れない。

 また、この作品を「面白い」と評する記事が出ているので、以下にリンクしておく。

種村有菜さんと絵柄が酷似」として白泉社が謝罪した、花とゆめの読切作品『ロマンスとバトル』は面白かった

https://topisyu.hatenablog.com/entry/2019/08/04/132900 

 この記事を書いたid:topisyuさんが最後に挙げている「ここは今から倫理です。」も、私は1巻で読むのをやめてしまったので、漫画の好みが私とは違うのだろうと思う。

 そう考えていると、topisyuさんの記事にブックマークコメントでid:anigokaさんがこんな風に書いていた。

さすがトピッシュ先生どっかの偶蹄目と違ってちゃんと読んでる!

 この「偶蹄目」という言葉を何か私が知らなかったので検索すると、ウィキペディアに、生物の分類であると解説されていた。代表的なのは「カバ、イノシシ、ラクダ、キリン、ヤギ、シカ」である。anigokaさんのという「どっかの偶蹄目」とは、ここに入っている「キリン」、すなわち私(=font-da、アイコンはキリン)のことだろう。

 これは上手いメトニミー(換喩)である。換喩というのは、人・ものの特徴的な部分を取り出して、その言葉で人・ものを指すことである。私はキリンではないし、キリンに似てもいないが、「キリン」という単語は私を類推することができる。それをさらに「キリン」の属する「偶蹄目」という言葉に置き換えることで、「知らない人は何のことかわからないが、知っている人はぴんと来る」ような隠語になっている。

 ここで私はどちらかというと揶揄されているわけだが、この「偶蹄目」という表現のせいで笑ってしまった。「偶蹄目」というのは耳慣れない言葉だし、響きも変わっているからだろうか。理由はなんであれ、こうやって対象にしている相手さえ笑わせてしまうのが、表現の力である。別に面白いからといって、揶揄の攻撃性がなくなるわけでもない。が、この話の流れで笑ってしまったので印象に残った。

 

*1:名前を伏せる必要はないと思うが、編集部の意向に沿ってこの記事では仮名としている。

*2:花とゆめ14号よみきり作品に関するお詫び」

https://www.hakusensha.co.jp/information/55225/

*3:漫棚通信」ではC氏に言及した後に「本作の作品構造、さらにマンガと模写の歴史について考えを及ぼせば、本作のキャラクター造形も許してくれるのではないか。」と書いている。これは、パロディだということを理解するならば、原作者はいかなる表現も寛容すべしという、規範のように読める。

*4:私は研究者ではあるが、漫画については専門的な研究方法・論文の作法を身につけているわけでなく、あくまでもエッセイ等を書く立場にある。

*5:今回、抗議をした少女漫画の読者に対し、偏狭だという声もある。だが、少年漫画雑誌「ジャンプ」に女性読者が増えた時、「女(特に腐女子)のせいで少年漫画が面白くなくなった」とネットで声高に言う人はたくさんいた。また、二次創作(パロディ)作品は原作に対する侵害だとして、女性作家を攻撃した人たちもいた。こういうことは棚に上げているのだろうか。

*6:もちろん、これは他者からの批判にさらされることとは違う。「批判するな」と「自虐したくない」は別の話である。

*7:これについては、インタビュー記事で読んだ記憶があるが見つけることができなかった。代わりにC氏のツイッターでの関連する発言を見つけたのでリンクしておく https://twitter.com/arinacchi/status/306718043243966465

*8:これは関西弁の「てんこ盛りや」(=山盛りだ)からとっている

*9:私は大好きで友だちと回し読みしてゲラゲラと笑った

*10:これは批判すべき作品とは違う。