フェミニストから801ちゃんへ
id:nagano_haruさんの経由で、801ちゃんからフェミニストへ質問が来ていることを知りました。
nagano_haru「801ちゃんより、腐女子を分析中のみなさんへ」
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100511/1273595010
私はフェミニストです。腐女子研究者というアイデンティティは持っていませんが、一度、出版物でヤオイについて分析しているので、応える立場にあると思いレスポンスします。twitterの発言は追っていないので*1、nagano_haruさんが引用している部分に応えます。
この手の事に猛っても仕方ないのは百も千も万も承知だけど、大阪の件ついて腐女子でもない人が勝手に腐女子を分析した挙句、俺の考えた正義を披露してだから腐女子は駄目なんだとか、ほざいているのを見ると、腐女子どころじゃないくらいのド腐れだなあと思います。分析したいだけだろ、お前ら。
http://twitter.com/801_CHAN/status/13794510792
私は、「だから腐女子は駄目なんだ」と言うフェミニストをまだ見かけていないのですが、どのフェミニストに対して801ちゃんがそう思ったのか、具体的に例をあげて欲しいです。それがもし、私であるのならば、この問いに応えると思います。
特にフェミフェミいうてる人たちは、他人のそういうデリケートな部分を、したり顔で分析したり批判したりすることの失礼さとか、他人の生き辛さを再生産していることについてどう思われますかね。まじで。失礼にもほどがある。
http://twitter.com/801_CHAN/status/13794573911
まず、私の場合は、自分のヤオイを読んできた経験を分析しました。それが、ある程度普遍化して、一部のヤオイを読んでいる人たちにもあてはまるような理屈になるように努めました。ただ、そうした分析が出版され目に触れるようになることで、腐女子はもちろん、それ以外の人にも影響を与えることはおおいに考えられます。その結果、他人の生きづらさを再生産することもあると思います。ですから、書くときには非常に迷いますし、配慮が十分であるのか悩みます。
しかし、どう配慮しても、表現物は「他人の生きづらさを再生産すること」を100パーセント避けることはできません。ですので、具体的に「他人の生きづらさを再生産」している箇所についてご指摘いただければ、検討することになります。議論を通して、そのご指摘が妥当だと判断された場合は、必要であれば改変したり、出版を停止したりします。
ですから、もし私の書いたエッセイについて、「他人の生きづらさを再生産すること」が含まれていると、具体的にご指摘があった場合は、それに対して応答します。
こうした対応が失礼である、と言われてしまえば、「そうですか」としか言いようがありません。ヤオイを書く人が、作品を発表をする自由を持っているように、ヤオイを研究する人は、研究を発表する自由を持っています。もちろん、ヤオイが法による表現物の規制の対象になるように、研究も法による表現物の規制の対象になります。ですから、「法内に」という限定はありますが、研究を発表する自由はあるので、失礼ながら発表する、ということを、私は選びます。
腐女子ってさーと語ってるお利口さんな人たちは一体何人のサンプルを持って言ってるの?10人?100人?1000人?
http://twitter.com/801_CHAN/status/13794630743
(私の場合は「腐女子」という言葉は使っていませんが)私の分析では、自分を対象にしたので、サンプルは1人です。
腐女子が腐女子である理由は、腐女子の数だけあります。それを自分の分析推測で論じて適当な結論をつけることが、どれだけ失礼で人を傷つけるのか、考えたほうがいいし、あなた方が思っているよりも腐女子は多くて、あなた方の論じるソレが周りの腐女子を傷つけているという自覚を持ったほうがいい。
もちろん、「腐女子が腐女子である理由は、腐女子の数だけあります」はおっしゃる通りです。私もエッセイの中で、「私は普遍的なヤオイを読んでいる人」ではない、と明言しています。ですが、こうした分析を読んで、私を「ヤオイを読んでいる人」の典型例だと思う人はいるでしょう。そのことで、傷つく腐女子がいるかもしれません。その自覚というのは、大変難しいように思います。もちろん、私の中に逡巡がないわけではなく、「これで誤解を与えるのではないか」という迷いはいつもあります。ですが、「これだけ悩めば十分に自覚したと言える」というような線引きはできません。ですから、常に「自覚は足りないのだろう」と思いながら、発表することを選んでいます。「自覚を持ったほうがいい」ということはその通りなのですが、それをやっているとはお答えできないのが正直なところです。
その上で、私の表現物も批評の対象になり、解釈や批判の対象になります。分析した研究も、分析の対象なのです。ですので、ずっと「分析する側」にとどまっているわけではなく、発表後は、「分析される側」に移行します。そして、レスポンスがあったときに、必要であれば、再度レスポンスをします。そうして、表現物を批評の場に開いておくことが、必要です。なぜならば、誰も、(法内の範囲であれば)分析したり解釈したり批判することを、規制できないからです。それは、表現物一般と同じです。
さて、ここからは逆に801ちゃんへの質問をしたいと思います。石田仁「『ほっといてください』という表明をめぐって――やおい/BLの自律性と表象の横奪」*2という論文があります。石田さんは、ヤオイは、ゲイ男性の表象を利用しているにもかかわらず、現実のゲイ男性と自らを「他者」として切断していることを、指摘しています。そして、次のように続けます。
いったん「他者」として切り分けた存在を、「私」との関係で非対称に配当し、お決まりのパタンでくり返しイメージした後に葬送する。この表象の横奪の問題は、現代(ポスト植民地時代)の諸研究で、すでに重要な論点として認識されている。たとえばハワイ、スペイン、沖縄が、経済的宗主国によってリゾート地として創出―消費(=開発)されてきた経緯があり、しかもこの「開発」は現地のイメージを一方的に創出―蕩尽する営みと密接不可分だった。とすれば、「女でない他者」のイメージをパタン化し領有するやおい/BLも、微睡みの中にいることは許されない。
もちろん異性愛男性こそが、女性イメージを圧倒的に性的な存在としてパタン化し領有してきたことは論をまたない。そのため「女の側だって少しぐらい好き勝手してもいいのでは」という声もある。ただしもちろん、そういった考えは溜飲を下げる以上の効果はもたらさず、生産的な批判ではないと考えられている。
このあと、石田さんはこのような「やおい/BL批評」こそが科学に基づく啓蒙主義であり、作品に対する植民的介入ではないか、という論を展開しています。そして「となりの801ちゃん」の一コマを取り上げ、こうした批評行為に屈しない、多義的な表現であると分析しています。上記のような批判を無力化する狙いをもった表現だというのです。さらに、石田さんは、批評が植民的介入であるとしながらも、自らもまた分析を行う立場にある矛盾のただなかにある、と告白します。私は、石田さんの批評に賛同していますし、「となりの801ちゃん」の一コマの分析に異論はないです。その作品では多義的な表現であると考えています。そして、私も、今まさに、植民的介入の立場にあると言えます。
しかし、今回は「となりの801ちゃん」という表現物ではなく、801ちゃんという人の発言に対する応答です。その発言は、多義的ではなく一義的です。だから、私も一義的に聞き返そうと思います。
特に腐女子たちは、他人のそういうデリケートな部分を、大喜びでパロティにしたりネタにしたりすることの失礼さとか、他人の生き辛さを再生産していることについてどう思われますかね。まじで。失礼にもほどがある。
発した言葉は、そのまま自分に返ってきます。私はこれは、男女の逆転を言っているのではありません。「女性/ゲイ男性」の非対称性の話をしています。自らを女子と呼べるというシスジェンダーの特権、パートナーと結婚できるというヘテロの特権。そうした特権を享受しながら、厳しい状況に置かれたゲイ男性の表象で遊ぶこと。私は、このことは否定されたり、禁止されたりするものではないと考えています。しかし、他人に向けた言葉はそのまま返ってきます。繰り返しますが、私は多義的な表現を否定しません。ですが、一義的な身ぶりで他の人を批判し始めたとき、もう「ほっといてください」は通用しません。あなたは、私をフェミニストとして呼んだ。だから、私はフェミニストとして応える。その関係性の中だからこそ、問いたいし、次のことを言いたいです。
ゲイ男性がゲイ男性である理由は、ゲイ男性の数だけあります。それを自分の脳内の妄想で適当な理屈付けをしてお話作りすることが、どれだけ失礼で人を傷つけるのか、考えたほうがいいし、あなた方が思っているよりもゲイ男性は多くて、あなた方の論じるソレが周りのゲイ男性を傷つけているという自覚を持ったほうがいい。
もちろん、私もヤオイを読む人の一人であるから、その言葉は私自身にも向かいます。また、私が801ちゃんに向けた問いで、私に向けられた801ちゃんからの問いが相殺されるわけではない。石田さんは、次のようにも言います。
私は「自省(reflection)」「やおい/BL」表現が、ゲイ/男性表象の横奪にならないか、どこまでも自己点検してほしい」という腐女子たちへの要求――くりかえすがその要求はまったく正しいが、効力を発揮していない――でもなく、左記の問いを研究者自身に転化させた「そうした要求が植民的行為に該当するかどうか、どこまでも気をつけていこう」的な構えでもない何かへ。残されたわずかな紙幅は、欲望の把捉の探求にあてられる。
(119〜120ページ)
その後、石田さんは、やおい/BLにおけるゲイ男性の表象を、「横奪」だけではなく「仮託」という視座から再批評する可能性を示唆しています。ここでは、分裂する自己像、ゲイ男性とヤオイの中のゲイ男性イメージ、受け攻めの能動受動役割など、対立項が各作品の中で入り混じり交錯しているさまを分析することが提案されています。すなわち、いかに、「横奪」と「仮託」がなされているのかを明らかにし、かつその表現がなしえようとしているものは何かを捉えようとする試みです。私は、石田さんの「仮託」のアイデアに影響を受けていますし、非常に印象に残る論文だと思っています。
ですが、こうした効力を発揮しないが、ただ正しいとしか言えないこと――すなわち、801ちゃんがフェミニストに求めた自省と、私が801ちゃんに求める自省――は、やはり営みとして試み続けられることを、求められるのではないかと思います。それが効力を持たないにしても、やはり要求し続けなければならない、と私は考えます。
ヤオイ(やおい/BL)作品が、市場に氾濫し、それで利益を上げたり、消費したりしている大人たちがたくさんいます。そうしたゲイ男性の表象と、ゲイ男性が実際に置かれている差別/抑圧の続く状況。この非対称性について、やはりヤオイを求める人たち―腐女子は知り、考え、行動して行かなければならないのではないか、という気持ちが私にはあります。そして、801ちゃんが、フェミニストを批判するというかたちで、批評の場に出てくるのなら、そのことを歓迎します。
言論の場は、他人を傷つけあう場でもあります。こうした場に、腐女子のシンボルとなった801ちゃんが積極的に出てくることは、賛否両論ある中島梓の、「ヤオイを求める人たちはコミュニケーション不全である」という分析に対し、実践による反論になるかもしれません。私たちは、誰かを傷つけ、生きづらい状況に追い込み、それでも表現物を作り続けている。そして、そのことで生き延びている。そうした営みを、自省していくのは、生き延びたものが<他の人が生き延びるために>負うべき責任ではないかと思うのです。他の人が、同胞であれ、他者であれ。そうした議論ができればいい、と思っています。
私が大阪の規制について書いたもの
「大阪に住んでいる18歳以下のあなたへ」(「となりの801ちゃん」)
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100430/1272586465
私がやおいに関して書いたもの(主なもの)
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「日本記号学会第28回大会『遍在するフィクショナリティ』」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080510/1210438151
「永久保陽子『やおい小説論』」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080513/1210686551
「腐女子になったんですが、それが何か?」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090514/1242263499
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追記
id:nodadaさんより、石田論文の解釈についてコメントをいただきました。私は、次のような記述をしていました。
その後、やおい/BLにおけるゲイ男性の表象を、横奪ではなく仮託と置き換えることで、植民的介入を避けつつ、新たな批評を拓く可能性を示唆しています。私は、石田さんの「仮託」のアイデアに影響を受けていますし、非常に印象に残る論文だと思っています。
nodadaさんのコメントは以下です。
石田氏は横奪を仮託に置き換えるというよりは両立するものとして相互連関的に把捉し、「ほっといてください」や植民的?啓蒙主義を超えて立論を目指すことを示唆していたのではないでしょうか。
nodadaさんのおっしゃる通り、石田さんは「もちろん『横奪の語を取り下げる必要はない。横奪と仮託は両立しうる」(121ページ)と書かれていますので、nodadaさんのご指摘は正しく、私の文章を訂正しました。またハイクでも、示唆的なコメントをいただいています。
nodadaさん、ありがとうございました。