まずは大人の性教育を

 id:macskaさん経由で、以下の質問を目にした。

異性愛者へ12の質問」

1.あなたの異性愛の原因はなんだと思いますか?

2.自分が異性愛なのだと初めて判断したのはいつですか?
 どのようにですか?

3.異性愛は、あなたの発達の一段階ではないですか?

4.異性愛なのは、同性を恐れているからではないですか?

5.一度も同性とセックスをしたことがないなら、なぜ、異性とのセックスの方がよいと決められるのですか?あなたは単に、よい同性愛の経験がないだけなのではないですか?

6.誰かに異性愛者であることを告白したことがありますか?
 その時の相手の反応はどうでしたか?

7.異性愛は、他人にかかわらない限り、不愉快なものではありません。それなのに、なぜ多くの異性愛者は、他人をも異性愛に引き込もうと誘惑しようとするのでしょうか?

8.子供に対する性的犯罪者の多くが異性愛者です。あなたは自分の子供を異性愛者(特に教師)と接触させることを安全だと思いますか?

9.異性愛者はなぜあんなにあからさまで、いつでも彼らの性的志向を見せびらかすのでしょうか?なぜ彼らは普通に生活することができず、公衆の面前でキスしたり、結婚指輪をはめるなどして、異性愛者であることを見せびらかすのでしょうか?

10.男と女というのは肉体的にも精神的にも明らかに異なっているのに、あなたはそのような相手と本当に満足いく関係が結べますか?

11.異性愛の婚姻は、完全な社会のサポートが受けられるにもかかわらず、今日では、一年間に結婚する夫婦の半分がやがて離婚するといわれています。なぜ異性愛の関係というのは、こんなにうまくいかないのでしょうか。

12.このように、異性愛が直面している問題を考えるにつき、あなたは自分の子供に異性愛になってほしいと思いますか?セラピーで彼らを変えるべきだとは思いませんか?

「「異性愛者」へ12の質問」『押して、押して、押し倒されろ!』「「異性愛者へ12の質問」を転載してみる。」『腐男子じゃないけど、ゲイじゃない』
この質問について、macskaさんが以下の注意をしている。

女性学メーリングリストの参加者のあいだでは、調査票をテキストとして学生に読ませ、議論させることについてはまったく異論がなかったけれども、授業の一部として実際に学生に調査票への回答をさせることについては批判が多かった。セクシュアリティのような学生たち自身にとって個人的なことに、講師が当たり前のように踏み込んで回答を求めること自体に問題があるし、そもそも教室の中でこのような調査票を配るということは、学生は全員例外なく異性愛者であり、同性愛者という「他者について」学ぼうとしている、という間違った前提がなければありえない。異性愛者の学生だけでなく、同性愛者の学生にとってもとても居づらい状況になる。

やっぱり、異性愛の権力性を指摘するのは大切だけれど、教室内における講師と学生の権力関係にも気を配らなくちゃいけない。その点、質問票をブログに掲載して「回答してください」と呼びかけている nodada さんは、読者に対して権力を持っているわけじゃないから全然問題ない。だけど、それを見たどこかの教育関係者が nodada さんのマネしたら困るから、この点はちゃんと言っておこうと思った。また、異性愛中心主義・強制異性愛主義についての教育をしようとするなら、教室の中にも、さまざまなワークショップやグループの中にも、同性愛者(やその他のクィア)がいるということも、ちゃんと考えておかなくちゃいけない。
「「異性愛者への12の質問」についての女性学MLでの議論」『macska dot org』

これって難しい問題だなあ、と思った。
 実は、私は「ひどいジェンフリの授業」*1に出たことがある。大学の社会学の授業である。ジェンフリチェック(男らしさや、女らしさに「囚われている」度合いを測るもの)をやらされ、学生は教室で端からその点数を発表させられたのだ。講師は、フェミニズムに批判的な男性教授である。私もその授業に出ていて、本気で気分が悪くなった。でも、私は、そこでNOと言えなかった。もちろん、心証を悪くするのが怖かったからである。*2典型的にダメな性教育であった。
 こういう質問形式のワークショップというのは、性教育にはいくつもある。性暴力に対する思い込みを暴露するものもある。しかし、性というのは本当に扱いの難しい領域だ。上の「異性愛者への12の質問」はジェンフリチェックよりさらに扱いが難しい。使いようによっては、暴力的な事態を引き起こしてしまうだろう。そして、困った事態を引き起こすという人は、たいてい質問が生まれた社会的な背景や歴史を踏まえず、質問票だけを切り取って使う。自分が質問票に受けた衝撃を、学生にも押し付けようとする。性教育で、「ほ〜ら、みんな偏見に満ちていただろう?私が目を覚まさせてあげたんだよ」と得意げな顔をする講師ほど、厄介なものはない。*3
 私自身はこういうチェックってわりと好きだ。一人で問い直しすぎて、てんぱったりもする。けれど、他人と一緒に作業するときには、かなり覚悟がいる。セクシャルオリエンテーションについて語るときには、どうしても傷つきやすくなるし、正直に答えるのに勇気がいったりもする。誠実にやろうと思えば思うほど、答えるのは難しくなるし、精神的にもプレッシャーがかかる。*4誰と、どういう雰囲気の時に話すか、によって答えも変わるだろう。結局、誰かと性について話をするときには、「場づくり」が重要になってくる。そして、言いたくないときには、NOと言える場でないといけない。

 一方で、以前、知的障害児向けの性教育の教材について、騒動が起きていた。「過激な性教育」というセンセーショナルな報道の問題は、すでに指摘され事態は沈静化している。しかし、2009年4月19日の時点で、「過激な性教育」というワードでGoogle検索すると次のブログの記事が示される。

 小泉総理も苦言を呈したという、最近の小学生の性教育についてのサイト。性教育に関する新聞記事や、雑誌記事、学校での教材などが集められています。また、画像も秘宝館のコーナーにあります。


おなかのしたにペニス(ワギナ)だよ♪


 という「からだのうた」はちょっと笑えます。

 私個人としては、小学校時代は、具体的なことは何一つ教わらなかったと記憶してます。

 教育全般にいえることですが、「これが正解!」というのが無い分、難しい問題ですな。個人的には、だれが教えなくても中学生くらいになれば勝手に学習していくのだから、小学生のうちからあまり具体的に教えなくてもいいのでは?という気はします。

[追記]

上記サイトには、養護学校での性教育の問題が多く含まれているということにはっきりと気付いていませんでした。というわけで、「個人的には、だれが教えなくても中学生くらいになれば勝手に学習していくのだから、小学生のうちからあまり具体的に教えなくてもいいのでは?という気はします。」という部分は訂正。しっかりと読まずにコメントしてしまいました…
「過激な性教育」

この件では、ひたすら「知的障害児の教育では仕方ない」という言説が繰り返された。しかし、健常児ならなぜ必要ないと言い切れるのだろうか?「健常児に性教育は必要ない」ということは、すでに「健常者である私たち」は十分に性に関する知識を持っているということだ。しかし、現実には「勝手に学習」された知識によって、性に関する差別や暴力は起き続けている。むしろ、こうやって知的障害児に向けて作られた教材は、そうでない子どもたちにも使ったほうがいいんじゃないか。いつまでも、女性が自分の性器を見ることに恐怖があったり、「アソコ」と呼んでいたりする状況でいいのか?*5「からだうた」で「ワギナだよ」と歌えたほうがいいんじゃないのか?
 どう考えたって、性教育は必要である。全然足りてない。もっと性に対して語る言葉があるはずだし、自由に考えることができるはずだ。

 学校での性教育の中でこそ、暴力的な事態は起きやすいし、扱いが難しい。一方で、性教育はもっと必要だ。だとすれば、結局、子どもを教育するような、学校を出た大人の性教育がまず必要になるんじゃないか。とりわけ、教職につく人たち(大学教授も含む)に対する、研修って必要ではないか。画一的な性教育というのも聞こえが悪いが、オリジナリティ<だけ>があふれる性教育もやっぱりまずいように思う。

*1:そして、過激でもなんでもなかった。むしろ古臭い。

*2:でも、たぶん顔に出てたからバレバレ。

*3:自戒をこめて!

*4:たとえば、私の場合は、この質問の回答をweb上で発表したりとかはできないです。

*5:別に「アソコ」と呼びたいなら呼べばいいけど、「おまんこ」でも「ワギナ」でもいいし、好きな名前でもいいんだけど、とりあえず代名詞でない呼び方もできることを知る(やってみる)のは大事。