id:usukeimadaさんの以下の記事にブックマークコメントしたら、詳しい解説を求められた。*1
アイデンティティ政治についての批判で、よくある論点なので、一応解説しておく。以下の二点が肝要な点だ。
(1)カテゴリーを使用したアイデンティティの語りは、常に誤謬を含む
(2)政治的要請に応じ、カテゴリーを使用したアイデンティティ政治がなされる
このアイデンティティ政治の問題について、清水晶子のバトラーを論じている部分を引用しよう。
バトラーにとってアイデンティティのカテゴリーが厄介な問題になるのは、何よりまず、我々がそのようなカテゴリーの記号を使わずには生き延びられないからである。アイデンティティ政治の批判的考察として知られる'Imitation and Gender Insubordination'は、その点を明確に示した論考である。アイデンティティのカテゴリーは管理と統制とに利用されやすく、したがってアイデンティティを否認することはホモフォビックな取り締まりの作用への抵抗になりうる、とバトラーは話を始める。さらに、「わたしはこのようなものである」と主張することは「わたし」の一時的な要約を意味するにもかかわらず、そのように「わたし」を決定するわたしは、決定された「わたし」からは排除されており、「わたしはこのようなものである」という主張はその排除そのものを隠蔽することで成立している。だからたとえば「わたし=レズビアン」として「アウトである」ような「わたし」の「ゲイネス」は、常に隠蔽によって構造づけられ、完全にあらわになることはない。アイデンティティのカテゴリーをた受かって「わたしは……である」という時、我々は常に必ず、カテゴリーのあやまちをおかすことになるのだ。アイデンティティの政治へのあきらかな批判としてこのような考察を足早におさらした後、バトラーはしかし、「私は[カテゴリーを示す]言葉の使用を妨げようとしているのではない」と述べる。カテゴリーが不可避的に誤るものであえるとしても、なおもそのカテゴリーを使用する「緊急の政治的必要が存在していると主張することは可能だろう」。かくしてバトラーにとっては、政治的手段として使用された記号を取り締まりの力を持つ命令へと変化させないことが重要な課題になる。アイデンティティのカテゴリー記号を使う現在の政治的必用があり、だからわれわれは記号を使用するのだが、「どうすれば。、その未来の意味作用を予め排除しない形で、記号を使用できるのだろうか」。チャンの「キリン」の場合同様に、ここで問題になるのは、現在のみならず将来の可能性を承認すること、それが何であるのかいまだわからない何かを、にもかかわらず、あらかじめ封殺しないことである。そして、現在と将来の可能性にかけてあこの身振りは、バトラーにとってもまた、二重のものになる。「どうすれば、記号を使用しつつ、それと同時にその記号の一時的偶発性を認めることができるのだろうか」。
(清水晶子「キリンのサバイバルのために」、173ページ)
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ここ数年、やおい・BL・腐女子などをタイトルにつけた論文や書籍の刊行が相次いだ。とりわけ、女性学の分野では、流行のテーマであった。もちろん、それがアカデミズム内における消費であったかもしれない。だが、これらのカテゴリーを使うことで、女性のセクシュアリティ研究が拓かれ、より豊かな言説の創造に向かうのであれば、よかったのだと思う。*2
私は「腐女子に生まれず、腐女子になった」のだけれど、それがどーした?アイデンティティの呪縛が重く、背負ったものをあるポジショナリティに縛り付ける。*3だが、それに賭けるのは、現在の状況を変えるためである。
というようなことを書いたのだけれど、id:usukeimadaさんは、こんなことを書いている。
自称と他称の問題は、もっと厳密に考えておくべきでした。腐女子の方々の中でも、自称することにそこまで重きを置く方々がいるのは、僕の考えには入っていませんでした。
http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090507/1241628903