ポルノを語るのは誰か

「男と女にとって、ポルノは別のものとして存在している」
私はそう思っているが、言いよどむ。このときの「男/女」を分けた境界線はどこか。すべての「男たち」「女たち」の経験や思考をひとまとめにしていいのか。はっきりしていることの一つは、ポルノを語るとき、私は自分が女であるという意識から逃れたことがない、ということだ。
 世の中に溢れるポルノのほとんどは、男性向けに作られている。女はバイブ一本も安心して買うことができない*1。この圧倒的非対称の中、東京都条例で規制の標的になったのはBLと少女向けの性描写があるコミックである。子どもにポルノを見せていいのかどうか、という議論をするときに、まず問題になるのが「少女たちの性行動」であったこと。この状況の中で、私は「女としての私」の意識を立ち上げる。世の中で認められるポルノが、成人ヘテロ男の、すなわち(行政にとって)健全な性的欲望を満たす性描写だけだというのはおかしいのではないか。この意識から出発する都条例反対運動は、「表現の自由」を守る闘いとは齟齬がある。この状況におかれる<私>を問わずして、ポルノの問題など語れるだろうか。
 私の思考には、私の「女として生きてきた」経験が入り込む。それは、私が今まで出会ってきた、「ポルノを見ると取り乱す自分」の経験でもあり、「ポルノを見ると取り乱す友人」との出会いの経験でもあり、「それでも、ポルノについて思考しよう」と友人たちと議論を重ねてきた経験でもある。「なぜ、女ばかりが性的なイメージとして使われるのか」という怒りと、男性同士の絡み合うシーンに欲情する自分と、なぜか女の私以上にポルノを嫌悪する男性たちの存在と。
 私はポルノ規制について考えるとき、この社会がどうあって欲しいのかを考える。とりわけ、子どもにとってどんな社会がいいのだろうか。ポルノが身近にあることがいいことなのか、ないことがいいことなのか。性教育を受けるチャンスはどうやって保証すればいいのか。小さな人たちの存在を無視して、自分の欲望を満たすことはできない。そして、このことを考えるときに、私は自分が育った社会を下敷きにして検討せざるを得ないのだ。
 私の育った社会は、女を性的に貶めることに甘かった。私の育った社会は、セクシュアルマイノリティを排除してきた。私の育った社会は、私が見たくないポルノを、あちこちの氾濫させた。私の育った社会は、小さい女の子たちを模したキャラクターが、性的に誘惑するポーズをとっているイラストが一般の本屋さんで無造作におかれていた。私の育った社会は、成人女性を性的対象にしない男性に対して侮蔑的だった。
 私が変えたいのは、こうした社会だし、私が守りたいのは、自由に子どもたちが育つ環境だ。そうすると「暴力を排除した無菌社会」を作りたがるという批判が来ることもある。しかし、暴力はどんな社会でだって完全に避けることはできない。人間同士が暮らす場所では、必ず起きる。けれど、避けられる暴力は、できる限り避けようとする努力と、暴力を振るう人を排除しない*2ことは、両立するはずだ。
 
 こうした社会構想を基盤にして、何らかの政治課題を議論の俎上にあげようとすると、問題は常に複雑化し、解決策は一本化できない。具体的な獲得目標である「表現規制に反対する」前に、自己の探求と他者理解が運動体の課題として出てしまうからだ。内部批判が繰り返され、実際的な政治行動へと身動きがとれなくなっていく。
 
 このような運動の傾向性を「観念先行」として批判する人がいる。

「実務先行か、観念先行か/何をお手本として「運動」を考えるか 」
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20101226#1293378777

彼は自らの団体を「最前線」だと認識し、次のようにいう。

「最前線」以外の我々も、今までよりもっともっと「実務」に慣れるべきであります。たとえば「情報公開請求」などの実務でもって東京都から情報を引っ張り出し、それを検討し圧力をかける、そういったことをより活発に行なうべきであります。http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20101220#1292839180で述べた「団体」は、まず初めは表現規制反対をするための知識収集としての「読書会」あたりからスタートするのが妥当ですが、数年内に「情報公開請求」などの実務をこなせる力を持つべきだと思うのであります。そういう「実務実力」を持つ「団体」がどのくらいの数生まれるかが、今後10年の「表現規制反対」運動の命運を分けると考えるのであります。

そのために、「イデオロギーフリー」と称して、団体内の考えの違いには触れず、実務を優先していくという。そして、次のように結論付けるのである。

我らオタク系表現規制反対運動は、今まで述べたように、「議会対策」をたいへんに重視する「運動」でありまして、議会軽視気味な「市民運動」ノリで「乱入」されるのはちょっと、とか、「巧くない」「正しい手続きを取らない」ことにあまり我々は寛容ではない

これは、「東京都青少年健全育成条例改正案に反対する女性表現者の会」*3を運動から排除しようとしているとして、批判的声明を出した「「東京都表現規制問題をめぐる一連の出来事についての共同声明」*4、さらにそれへの批判として出された「東京都表現規制問題をめぐる一連の出来事についての共同声明」を非難する声明」*5に対する批判として書かれている。そして、この一連の議論を「むだにかしましい」としているのである。
 非常に結構な物言いである。「女が三人集まって姦しい」とはよく言ったものだ。*6無駄に、女が集まってがちゃがちゃ言っている。それについて、さらに男も加えてがちゃがちゃ言っている。それは彼にとっては「乱入」であり、自分は「寛容ではない」という。いったい何様のつもりだろうか。私は、この文章を読んで、田中美津の「いのちの女たちへ」を取り出してきてしまった。

女にとって新左翼の闘いとは、千両役者と黒子、切腹と殉死のそれであった。物心つくと同時に自分より偉い者と思い込まされ、意識・無意識下に絶対化してきた男に対する幻想は、新左翼内部にあっても、女を黒子として存在づけたのだ。日帝打倒のまえに男も女もない、「人間として」「プロレタリアとして」「革命的共産主義者として」、共に主体的に闘うのだ、というような一見意義のつけようがない革命の論理の前にひれ伏して、女は新左翼の「いわゆる政治」と「いわゆる哲学」の支配する「政治的非日常性」と、女であることの歴史性に規定された「日常性」との間で切り裂かれてきたのだ。そしてその矛盾を一身に背負わされ、しかもその痛みに意識的に不感症になることで女は、新左翼内部の市民権を得てきたのだ。(文庫版、216ページ)

<精神は概念によって支配され、生活は概念からもれてしまうことによって支配される>。これは、先日なんの気なしにかけていたラジオの受験講座で聞いたことばだが、あたしの乏しい知識によれば、近代合理主義というのは、概念に人間を組み伏せるための思考方法としてある。矛盾の複合体である生ま身の人間にとって、はななだしく不自然なその思考方法は、概念からはみ出る部分を切り捨てることをもって、進歩と調和を図ってきた。いってみれば、ムリが通れば道理がひっ込む的な事態を、その思考は必然的にまき起こすものであったが、もとより道理より生産第一の世であれば、めんどうなこと、わけのわからないもの、やっかいごとを切り捨てて、企業の大義を全うしようとする人々から熱狂的に迎え入れられたことは想像にかたくない。通称インテリといわれている人々の頭の中は、この思考方法が支配しており、それも女よりか男に圧倒的にこの思考がとり付いている。それは、大学進学者は男が多い、というような理由からではむろんない。企業の生産性が男にこの思考方法の習得を要求したからだ。すでに何回も書いている、男の、よく整理のゆきとどいた、たてまえばかりを詰め込んだ引き出しこそ、企業の要請のもとに男が己れの中に血肉化していった近代合理主義思考そのものなのだ。さて、新左翼の男と、男並みにガンバロウとした一部の女たちも、この思考方法を採用していた。闘いの生産性にとって近代合理主義思考は、またとない友であった。その思考でいけば、権力は常にスッキリした姿で見渡せた。すなわち政治権力として――。悪いのはすべてソイツであった。政治権力の非人間的暴力性は機動隊、自衛隊によって体現されており、「直接民主主義」の名のもとに、機動隊殲滅の闘いが叫ばれ、具体化していった。武装カンパニアが、非日常政治空間の主役となり、それに向けて闘いの高率化が求められた。故に武装闘争が活発になればなる程、必然的に非生産的な女は後方へ退くことを余儀なくされ、その一方で男並みをもって女の解放を勝ちとろうとする女がゲバ棒、火炎ビン部隊に志願していったのだった。(文庫版、217〜218ページ)

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

田中美津は、彼が感動的だという左翼運動を批判し、まさに市民活動へと転換していくなかで「新左翼の鬼子」と自らを呼び飛び出してきたウーマンリブの活動家の一人である。左翼が弱体化したから、市民運動が出てきたのではない。必然的にこのような市民運動が取って代わったのだろう。このくだりは以下の本が詳しい。
新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

なんにせよ、私はゲバ棒握るつもりも、火炎ビン投げるつもりもないし、指導者然としたご立派な活動家に追従して情報公開を求めていく運動をすることもない。実務先行、けっこうである。私は身辺の事情で、自ら表現規制の実際的な活動にコミットメントできなかったし、これからもしばらくは難しいと思っている*7。その自らのふがいなさに憤ることや、自己批判をすることはあっても、運動の論理でその進む道行きに指図される覚えはない。内部批判を「かしましい」と評するその男の男らしさにゾッとする。
 私自身は、私自身にいらだつ。いつになれば、政治的にコミットメントを決意するのか、と自問自答を繰り返す。今までそのことを書いてこなかったのは、自分自身に対するエクスキューズになると思ったからだ。だけれど、言わなければならないと思ったのは、いまだ、こうした「あのときお前は何をした?」という糾弾を左翼の男が繰り返すからだ。

「お前ら、あの時闘ったのか!」新左翼の男共は、よくこんなセリフを投げつけ合う。今はどうかしらないが、あたしが「新左翼」だったありし頃、このセリフは仲間内で争うときの、いわば常套句であった。あのときとは、○・○日の非日常空間を指していた。あの時、、革命の大義に向けて十分男らしかったかどうか、あの時やり切ったかどうか――その問いに答えられない男は、セクトは、「非国民」であった。だから、その問いが一度発せられるやいなや、あとはドロ仕合――。お互いに「非国民」のレッテルを貼り合うことに終始するのが常だった。(文庫版、219ページ)

その闘いのときに、ゲバ棒も握れずオロオロしていたのが、これを書いた田中美津である。そのみっともなさを批判することはいくらだってできるだろう。だけど、私が自分を重ねるのは、その彼女の惨めさにほかならない。
 私は今でもポルノを見て取り乱すことがある。ある精神科医の講演会でのことだ。演題は「身体について」というようなもので、ポルノについて話すとは書いてなかった。大きな会場で、聴衆は満員に近かった。彼は、次々と少女の身体を変形したイラストのポルノをスライドに写して解説した。何の準備もなく見せられた私は、呆然としてそれを眺めていた。私にとって、少女の変形した身体は、たとえイラストであっても、痛みを伴わずに見ていられなかった。それは創作物にすぎない、とわかっていても、見るのが苦痛だった。精神科医は面白おかしくポルノ規制を批判し、聴衆も笑っていたように思う。私はほとんど身動きできずに、映し出されるスライドに見入っていた。講演会が終わっても、私はしばらく立ち上がれなかった。何人かの聴衆は、精神科医の著作にサインをもらい、雑談をしていた。私はそちらを見て、立ち上がって、笑った。彼らは会場を後にして、私は最後にそこから出て、帰り道で号泣した。ポルノを見ること自体がつらかったのではない。そのポルノを見て、笑っている聴衆と笑っていない自分の間にある断絶がつらかった。そして、精神科医に笑いかけた自分が、そのとき彼に救いを求めていたのがつらかった。私はあのとき思ったのだ。「私はこのポルノを見るのがつらかった」ということを彼に伝え、理解して欲しかった。念のために書いておくが、彼が精神科医であるからケアを求めてというのではない。このポルノを見て、笑えない人がいるということを、理解して欲しい、認めて欲しいと思ったのだ。それは私の奴隷根性に他ならない。

 いま痛い人間は、そもそも人にわかりやすく話してあげる余裕などもち合わせていないのだ。しかしそのとり乱しこそ、あたしたちのことばであり、あたしたちの生命そのものなのだ。それはわかる人にはわかっていく。そうとしかいいようのないことばとしてある。痛みを原点にした本音とは、その存在が語ることばであり、あたしたちの<とり乱し>に対し、ことばを要求してくる人に、所詮何を話したところで通じる訳もないことだ。コミュニケートとはことばではなく、存在と存在が、その生ざまを出会わせる中で、魂をふれ合わしていくことなのだから!<わかりやすい>ということと<出会っていく>ということとは、まったく別の事柄なのだ。自分をよそにおいて、つまりあくまで奴隷頭としての己を維持したまま「リブってなんですか」と聞いてくる男に、「わかってもらおうと思うは乞食の心」、とつぶやいて、己れの闇は己れの闇、その中をひた走る中で、姉妹たちよ、あたしたちはまず己れ自身と出会っていかねばならない。女から逃げて続けてきた<ここにいる女>と出会っていかねばならない。
(略)
聞く主体としての己れを問うこともなく、わかりやすく、わかりやすくを要求してくる心の裏には「運動家」というものは、冬でもウチワをもって他人さまの心の火種をあおぎたてるのが当然、みたいな常識あってのことらしい。啓蒙されて動くのと体制の価値観を奉るのとでは五十歩百歩――可能性を己れの中に手さぐりしない者は、たやすくたてまえに己れを売り渡す。わからせてもらいたいと思うも乞食の心。(文庫版86〜87ページ)

今まで何度かこのブログでも引用した箇所である。田中は、「なぜウーマンリブをやっているのか」という問いに、このように答える。田中にとって、ウーマンリブは女の痛みから出発し、社会を睨んで自己肯定へと至ろうとする挑戦である。だが、その痛みを持たないものに、説明しようにも、その痛さはどうやったって伝わらないのだ。「ああ、○○が××だから痛いんですね」と了解されることによって、相手に理解の範疇に入れられ、痛みそのものは括弧に入れられてしまう。そうではなく、痛い私自身を抱えること自体に、田中は迫ろうとする。
 私は、その講演会で痛かった。だが私は、その私を理解され、認められることを求めるのではなく、痛さを抱えたままポルノについて思考することを求めたい。痛い私の思考は、痛くない誰かの思考とは違ったものになるだろう。痛いから正しいとか、痛いから配慮して欲しいというのではない。痛い私に見える光景は、痛くないあなたとは異なっていて、そうした私の光景から立ち上がる思考を私は進めていきたいというのだ。
 私は自分が愚図であると知っている。自分が愚図であるがゆえに、次々と法案や条例案が可決していく様を指をくわえてみて、悔しがって見せることで自己満足にひたっていることも知っている。だけど、私はその自分の愚図さを、批判することはあっても、否定はしない。そして同じようにぐずぐずしている人たちを否定しない。
 10年後、どこで誰が、この問題を取り扱っているのかはわからない。「最前線」がどこになっているのかもわからない。ただ、私が確信していることは、自分に嘘をついたまま、この問題に取り組むことはできないことだ。日常の中に溢れるポルノと、それに接して取り乱すことと。そうした経験の積み重ねと切り離して、大同小異で運動に飛び込むことは、自分を殺すことだと私の直観が言う。私はいまだ運動主体になれない自分を批判されても当然だと思う。だが返す刀で言っておかなければならない。「もし、私が運動主体になるとすれば、あなたの運動を否定することになるだろう」ということだ。
 私はオタクや漫画家の権利を守るためにコミットメントするわけではないのだから。

追記

こんなブックマークコメントをする人がいました。

id:skeleton-lair 私は私以外の痛みを否定し、他者の欲望を拒絶する。それが自由であるが故にとかなんとか。/ポルノに不安を覚える女性と安心を覚える女性の非対称も気になるところ。

上の記事では触れてませんが、私はポルノが好きです。安心して楽しむこともあります。こういうの書きました。

「レイプされたい」という性的ファンタジーについて
フリーターズフリー2号、人文書院

フリーターズフリー vol.2 (2)

フリーターズフリー vol.2 (2)

こういう記事も書いてます。

「オナニーは、セックスで代用できません」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100324/1269420267

私の場合は、ポルノに対する不安と安心は混在しているし、そういう女性は少なくないんじゃないかな、と思います。あとこの人の、前半のコメントは変ですね。そんなこと書いてません。

*1:http://h.hatena.ne.jp/font-da/9259274181284189652

*2:罰しない、ということではないし、暴力を放置することではない。私がここで念頭においているのは「メーガン法」などである

*3:http://blog.livedoor.jp/fujoshi2010/

*4:http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20101223/p1 http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20101223/p1 http://d.hatena.ne.jp/toled/20101224/p1

*5:http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20101225/1293207502

*6:そして、この「姦しい」という字は「強姦」の「姦」の字と同じである。この文脈でこの字があたる表現を使うって、ちょっとは考えなかったんだろうか?もちろんこの表現を規制はしませんけどね!

*7:中間総括として以下のように書いているhttp://d.hatena.ne.jp/font-da/20100321/1269174840