正しいことと、それがどうでもよくなること

まとまらないが、メモ代わりに。

 私はPCを大事にしているので、たいてい正しいことを言う。たとえば、「レイプをしてはいけない」と言う。間違っても「男はそういうもんだから」とか「欲望は抑えきれないから仕方がない」とかは、言わない。そういう寛大で理解ある態度をとりたいわけではない。
 ただ、興味は他人よりあるほうだ。レイプをする人が、なぜレイプにいたるのかを知りたい。そして、「そんなことはしてはいけない」とわかっていながら、足を踏み外す人間というものが、謎めいてみえる。
 人は「人を殺してはいけない」と知っていても、殺す。「レイプしていはいけない」と知っていても、レイプする。逆に、なんの得にもならないのに、被害者が加害者を赦すことがある。どちらも、まったくの不合理であり、他人からは理解不能である。
 このわけのわからなさに至らないように、社会を整備する必要はある。しかし、それ以上に、私はこのわけのわからなさに魅了される。たとえ、この世界が今よりもユートピアや地獄であっても、人間は善/悪のどちらかの存在になることはないだろう。どこか混じりあった不純物であり続ける。これは法や政治の及ばぬ領域である。この人間のどうしようもなさを引き受けてきたのが、文学*1である。
 たとえば、ドストエフスキーの「地下室の手記」はまったくもって不愉快な作品である。

主人公である「地下室の住人」は、現代社会の人間の典型例であり、悪のすべてが詰まっている。唾棄するしかないような、人間性の持ち主である。もちろん、この小説は、後のドストエフスキーの作品の下敷きになっていく、素材のようなもので、これ一本を評価することは難しい。ただ、私が感じるのは、ドストエフスキーは、人間の感じうる人間の悪い部分を描くことを、徹底してやりきろうとした、ということだ。
 それを読んで、教訓を得て、「地下室の住人のようになってはいけない」「そういう人間を作らないようにしないといけない」と思わせるのは、文学の仕事ではないだろう。単に「それでしかない」というような産物である。
 サルトルの「文学かパンか」という問いを、私は10代から抱えてきた。飢えた子どもの前で、文学は無力である。今すぐ、食べ物をとってきて、渡さなければならない、という焦燥感にかられる。私は、「何が正しい」と聞かれれば、パンを渡すことが正しいと答えるだろう。私が、もっとも忌むべき解決策は、まるで文学がパンを生み出せるかのような幻想を披瀝することである。文学が、文学であり続ける限り、パンは生み出せず、無力である。文学は、その無力さを放棄してはならない。可能なのは、人が文学を放棄することであり、文学が無力さを放棄することではない。
 しかし、その文学の無力さと、無能力は違う。文学の能力とは、人間の無力さに耐えることである。
 私が学問の世界に近づくとき、文学とパンの間で引き裂かれる。限りなく文学に近い学問の世界を向きつつ、文学ほどには無力さを引き受けられない中途半端さに苛まされる。
 ただ、私が確信していることは、私はパンを渡すことを目的とするなら、学問を選ぶことはなかった、ということである。私もまた、「パンを渡すこと」が正しいと知っていながら、それを選ばない。私が合理的に判断できるならば、私は絶対に学問などとは関わらない。不合理で他人からは理解できないし、させる自信もない。逆に言えば、私はそのわけのわからない自分が気になってしょうがないから、学問から離れられないのだとも思う。自分が学問をする理由に納得がいったとき、私はたぶんこれをやめると思う。

*1:芸術と言わないのは意図的。ちょっとそこは、まだ私の中で保留。