ばななと日本人
よしもとばななが、web上で叩かれている。居酒屋での店員の対応について書いたエッセイが発端のようだ。
「よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」」
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090808
よしもとさんは、自分たちのように社会的人脈が豊富な客に対しても、頑なに接客マニュアルを固持し、特別サービスをしてくれない居酒屋店長を批判する。よしもとさんによれば、この店長は接客マニュアルに従うことに専心するばかりに、相手の権威的な立場を計算に入れずに対応する。こうした相手の立場に応じて損得を計算するような、その場その場の対応がないがために、結果的にマニュアルに縛られた居酒屋店長は利益を逸しているというのだ。
よしもとさんが批判しているのは、店長個人ではなく、こうしたマニュアル通りの対応をさせているチェーン居酒屋のシステムだろう。そして、その背景にある、ひとりひとりの顔がみえなくなるように仕向ける、消費社会の性質だろう。よしもとさんは、ここ10年以上*1、スピリチュアルな思想を隠さない小説を書き続けている。オーラや魂といった、宗教的なモチーフも多用されている。死んでしまった人が、こちらの世界にあらわれるといったシチュエーションも多い。また、オーガニック製品を愛用し、ロハスな生活を志向している。このエッセイは、エコロジー思想の観点からの批判でもあったのだろう。
だが、とてもそうは読めない。これでは融通のきかない店長が非難され、自分の名声自慢をしただけである。
よしもとさんがデビューしたのは1987年である。1970年代の高度成長期を通過し、1980年代のバブル経済がまさに花開くそのころである。消費主義は積極的に肯定され、買っては捨てる文化が日本の社会でも定着していく。ファーストフードがもてはやされ、流行を追うことにみなが躍起になっていた。同時に、そのころエコロジーやニューエイジの思想も台頭してくる。ぎらぎら光る消費社会のネオンがあってこそ、その対抗軸としてスピリチュアルなムーブメントが清い輝きを持つのである。太陽と月のようなものだ。
その時代精神とも言うべき作家の一人がよしもとばなな*2だった。凝ったレトリックを排し、稚拙とも言える簡素な文体で、少女の視点から見る死と世界の謎をつづった作品は、当時から賛否両論だった。彼女の父親である吉本隆明は「マクドナルドのハンバーガー」と評した。口当たりよく、安価で、すぐに手に入るような、アウラを失った商品としての小説。高尚な知識や、格調高い韻のリズムもない。だが、よしもとさんの作品は若者を中心に大量に消費されていった。
今回、web上でよしもとさんのエッセイを「小娘のセンチメンタリズム」と呼んだ人*3がいる。その評価は彼女にふさわしい。20年以上ずっと、彼女は、「小娘のセンチメンタリズム」を書き続けてきたのだから。文壇で、ある作品を「少女小説」とカテゴライズすることは、揶揄として使われる。なぜならば、所詮「女子どもに向けた小説」は、男子諸君に向けた小説よりもずっと劣っているからだ。そして、女子どもには「本当の文学」はわからず、「小娘のセンチメンタリズム」に浸るくらいしか芸がないのである。こうした小娘に浴びせられる視線の中で、屈折したよしもとばななは出来上がった。
よしもとさんが、消費社会を批判すればするほど、ウソくさくなる。彼女がこうして名声を手にしたのは、まさにその消費社会のおかげであるからだ。そして、その名声を盾に、消費社会の内部で生きる人々を外側から批判しようとするよしもとさんは、いったい何者だというのだろう。よしもとさんは、34歳の男性に対し、「いいときの日本を知らないんだなあ」と書く。だが、「いいときの日本」を潰してきた張本人が、よしもとさんである。そして、その欺瞞をよしもとさん自身も知っている。
私はよしもとばななの日記をずっと読んでいる。身内のアレコレをつづっただけで、さして面白くもない。日記のなかで、よしもとさんは、すぐに怒るし、礼儀正しいとは言えないし、読んでいてイライラするような発言もよくしている。価値観も共有できない。それでも、読み続けるのは、この世代の人たちの屈折を体現しているように思うからだ。孤独ぶってみるものの、仲間で群れる。宗教を希求しながら、信仰生活には入らない。イデオロギーを馬鹿にしながら、さして政治的発言はできない。若い世代を批判したり、憐れんだりしながらも、「自分たちはいつか追い抜かれる」と思っている。なぜならば、「最先端が最高峰」の時代の人たちであるからだ。
よしもとさんは、犯罪被害者をモチーフにした作品をよく書いている。私が一番できがよかったと思ったのは「デッドエンドの思い出」である。
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また、「ひとかげ」では、かつて書いた「とかげ」を全面書き直ししている。
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「彼女について」では、女児殺人事件に巻き込まれた主人公が、霊的な世界を通して救われる物語が書かれている。
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先日、村上春樹がラノベ作家であることは書いた*4が、よしもとばななもまた、ラノベ作家なのである。言い換えれば、商品市場で格闘する職業作家であり、消費社会システムの一部である。それでもなお、「オカルト」趣味を隠さず、「小娘のセンチメンタリズム」を一貫して作品化し続けることが、彼女の小説家としての意地であろう。よしもとさんは、そうした作品を書き続けるために、権威に振り回され、そうならないために名声を獲得してきた。強くなければ、己の目指す道は選べない。この能力主義とマチョイズムに裏付けされた、個人主義的発想が、居酒屋店長を批判の根源にある。支配されたくなければ、支配者になるしかない。そこに支配関係を崩そうという構造の転換はなく、個人の自己責任と自助努力に収斂され、書かれたエッセイは「居酒屋店長批判」に終わってしまう。そして「この国のいやなところ」として、抽象的に全体化されていき、結局責任をとる「誰か」は見過ごされ「みんなの問題」になってしまうのだ。
私は「いい時代を知らない」34歳よりも、ずっと年下である。消費社会の限界が繰り返し指摘され、その輝きがかげれば、エコロジー思想もやはり曇る。かつて、「社会を二項対立で捉える」という批判が、こうした新人類世代から団塊の世代へと向けられた。だが、「社会と個人」または「システムと個人」を対立させようとする新人類世代へも、私たちの世代の視線は冷ややかなものとなるだろう。個人での救済が、社会の救済になる、わけがなく、その奇跡への信仰は嘲笑の対象にしかならない。
「顔と顔がみえるコミュニケーション」を称揚すれば、何か得られる気がした「いい時代」を、もはや私たちは生きていない。「コンビニのレジの無人化」について書いている人*5がいたが、すでにイギリスの大型スーパーではレジは無人化されている。また、居酒屋もメニューを各卓のデンモクから選べる店ができている。清算もカード払いにしてしまえば、淡々と店の人が料理だけを運んでくるシステムになるのかもしれない。安くあげるならば、そのほうが効率的だからだ。もしくは、「飲み屋と客のコミュニケーション」を商品化し、ウリする店はもっとふえるかもしれない。すでに、年配女性の接客をコンセプトにしたチェーン居酒屋がある。さらに、それらは厳密に価格で序列化され、わかりやすくパッケージングされていくだろう。
だが、すでに私たちはオーウェルの描いた「1984年」が到来しないことを知っている。全体主義は、より巧妙になっていく。すべての店で、「顔と顔がみえるコミュニケーション」が失われるのではない。経済層や文化圏によって、ゾーニングが行われ、カネと力と欲望があれば、望むものが手に入る状態は維持されるだろう。「コミュニケーションが欲しいんですか?では提供しましょう」という調子だ。だが、問題は、私たち自身が、コミュニケーションを欲しなくなっていく可能性だ。私は、「社会がそうなっていくこと」を危惧しているわけではない。私は、「すでに自分がそうなってしまったこと」を危惧している。「小娘のセンチメンタリズム」を「小娘のセンチメンタリズム」としか消費できない私は、コミュニケーションを欲していると言えるだろうか。
そしてまた、よしもとばななをweb上で叩いた人たちは、よしもとばななの顔は見えていただろうか。そもそも顔など見たいだろうか。だが、私たちにコミュニケーションへの飢えがないわけではない。むしろ、もっともっと強く渇望している。それは「顔の見えるコミュニケーション」を称揚することでは、とても満たされず、個人への慰めでは癒えきれないような、大きな欲望と傷である。それが何かわからない、し、何もないのかもしれない。だけれど、それらが、このようなweb上での大騒ぎを引き起こす、エネルギーであるのだろう。