「我が事」として何かを「社会を変えたい」と思うとき

 大西さんから、私のフェアトレードについての下の記事*1にコメントをいただいた。

大西宏「やまもといちろう氏は別にフェアトレードを批判したのではない(メモ)」
http://ohnishi.livedoor.biz/archives/51327750.html

大西さんは、これまでの議論の流れを追った上で、以下のように書く。

小松原織香さんが、コーヒーにまつわる問題点買い手としての消費者の意識の問題に重きをおいていますが、ちょっと認識のズレというか、小松原が「我が事」としてどうするんだとうということが伝わってきません。

これは、そんな話ではない。「コーヒー一杯買う時に、消費者として、誰から何を買うことで、何が起きるのかを考えよう」という話が、この図から得られる示唆である。それが堀江さんの「俺はこういう構造に気付くまで多くの時間を要してしまったけれど、気が付いてからは違う目で世界を見ることができるようになった」の意味するところだろう。

消費者にそういった矛盾を気づかせ、実際に農家の労働者の生存権を守るのかですが、社会運動だけでは限界があります。それは現実を一部の人たちに知らせることはできたとしても、実際には消費者にとっては遠い世界の話になってしまいます。そしてたとえその矛盾や理不尽さを知ったとしても、実際に買える場に巡り合えることはできません。

日本がフェアトレードが世界の先進国に比べ劣っているのは、なにも消費者だけの問題ではなく、そういったフェアトレードのビジネスがまだ十分に育っていないからです。いくら理念が立派でも、モノが流れ、カネが流れる仕組みがなければ、なにも起こらないのです。

これは、非常に重要な問題だろう。日本では、社会貢献型のビジネスが、西欧諸国に比べて、不活発であり、成功例が少ないと言われることがよくある。行政からも、NPO法人の制度化がなされ、企業からもCSR(企業の社会的責任)の一環として、持続可能な開発の必要性が問われるようになった。しかし、依然として、「モノが流れ、カネが流れる仕組み」といえるほど、確固たるビジネスにするのは難しい。
 「なぜ、日本で、社会貢献型の事業は成功しないのか?」という質問は、いろんな場所で発せられている。理由としてよく挙げられるのは、「西欧諸国はキリスト教団体を母体とする、資金を十分に持った社会貢献を目指す団体が多いこと」「寄付の文化があるため、大企業が社会貢献を目指す団体に金を出すこと」「日本の社会運動団体が洗練されていないこと」「日本には十分な市民活動の土壌がないこと」などだ。
 私自身、どれが答えだとははっきりわからないが、一つ強烈な経験をしたことはある。昨年、ノルウェーの市民による紛争解決プログラムを実施している「メディエーションセンター」を訪問した。ここでは、トレーニングを受けた市民ボランティアが、トラブル(隣人間の騒音トラブルなど)が起きた当事者の対話の調停を担っている。このセンターはノルウェー全国に支部を持ち、市民間の対話によって紛争を解決することを、促進している。これは、裁判で当事者を代弁する法律の専門家が、敵対して利害を争うのではなく、分断された個人と個人をもう一度つなぎ直すために、交流の機会として紛争解決を捉えようとする、理念に基づいた営みである。この理念については、1970年代から、ノルウェーにおける裁判制度の転換を呼びかけ、改革をけん引してきたニルス・クリスティの著作に詳しい。

人が人を裁くとき―裁判員のための修復的司法入門

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国家が資金を出しているため、ビジネスの要素はないが、何はともあれ金をとってきて、ボランティアという人的資源を確保できている、このセンターに私は非常に強い興味を持っていた。しかし、オスロに行ってみると、何から何まで、日本とは状況が違いすぎるため、比較すらできないことがわかった。ノルウェーの人々は、仕事が終わった後、家に帰って読書をしたり、映画を観に行ったり、友人や家族と語らったりする。その時間を、ボランティアに充てている。一方、日本では、残業してクタクタに疲れて家に帰ったら寝るだけ、というのが一般的な労働者の生活モデルである。過重労働である限り、ボランティアをする元気も、出てこないだろう。
 日本でボランティアをするというのは、特別なことだ。主婦や、リタイアした層が中心になっている。そうした取り組みに対して、「自己満足だ」「偽善だ」という揶揄も飛ぶ。「特別な余裕のある人たち」のやることだと思われがちだ。もちろん、そうしたボランティアもあるだろうし、社会貢献しているのならば、なんら貶められるようなことではない。私自身、性暴力被害者の支援活動にコミットしていたことについて、他人に「そういう余裕があっていいですよね」といわれると、言葉に困る。性暴力の問題の場合、真面目に取り組むと、たとえ、余裕があってもそんなものは吹っ飛ぶのだが、今、苦しい人よりは、少なくとも今、渦中にいる性暴力被害者よりは、余裕があるのも本当のことだ。なので「そうですね」と笑うしかない。同時に、悲しくもある。「そんなに余裕がないのか!」という想い。先進国で、お金持ちのはずの日本だけれど、ボランティアをする余裕もない。そしてそれは、嘘でもなんでもなく、本当にみんな、余裕がないのだということも、自分の身の回りを見渡せば明らかだ。
 私たちは、ノルウェーの人たちより、貧乏なんだろうか。ノルウェーの人たちより、ビジネスが下手なんだろうか。なんでノルウェーの人たちより、こんなにも余裕がないんだろうか。もちろん、ノルウェーが夢の国で、みんなが余裕を持って幸せに暮らしているわけではない。ネガティブな面もたくさんある。なんといっても、かれらは石油を持った「西欧先進諸国」で、日本は「極東」の資源のない国だ。でも、あんまりにも、考えてることも、していることも、日本と差がある。
 その強烈な経験があったとしても、私はとうぶん、日本で暮らすことになるだろう。物が溢れ、過剰なサービスが提供され、みんなクタクタで、余裕がなくて、でも、活力があって、独自のビジネスを成功させてきて、新しいコンテンツを生みだすところ。大西さんは次のように書く。

社会起業家となってフェアトレードを広げる道もあるでしょうが、実際にはフェアトレードに貢献している企業もあるので、そういった企業に就職するとか、そういった活動をしている企業の存在を知らせ、バックアップしていくことのほうがフェアトレードを広げる近道なのではないかという気がします。

きっと上のような言葉に、日本で暮らす多くの人がうなずくだろう。「さあ、頭をあげて、ビジネスをやろう!そうすれば明るい未来が待っているんだ!」という励ましを、私は否定できない。これから、日本で、ビジネスを通して貧困をなくしていこうとする人たちが増えればどんなに良いことだろうか。そう思いながら、私はこうした言葉を発する人から、どんどん後ずさり、遠ざかって行ってしまう。
 「何か、変じゃないか?」「ほんとに、ビジネスの問題なのか?」「ビジネスにできない問題が、そこにはあるんじゃないか?」こうして、私はビジネスこそが「遠い世界」になってしまい、人文系の大学院生になった。そして、社会貢献とは関係のない店でバイトをして、ビジネスとしては成功しないだろう、理念だけがキラキラしている団体にカンパをする。なぜなら、理念だけが「こんな社会変わらないんじゃないかな」という私の諦めを揺さぶるからだ。 
 たとえばそれが、「はなつちの会」であったりする。

「はなつちの会」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20120504/1336120286

「はなつちの会」は、カンパを集めて、沖縄でできた野菜を仙台に送って食べてもらう。そこに利益はない。だけど、私は揺さぶられる。沖縄・伊江島で丸腰で米軍に土地を返せと迫った農民たち。かれらの守った土地でできた農産物。それを、被災した仙台に送って、安心して何も考えずに食べてもらうこと。それが、仙台の人たちの何を救うのかわからない。たった一食の野菜で、かれらの生活が改善されるわけでもない。でも、そこには希望を紡ぐための物語があるからだ。仙台の人はこう言う。

(前略)仙台・宮城に住み続けている人たちとも安心な暮らしを探っていきたい。東北は中央政府から見捨てられた、と思わされる中で、草の根では各地の皆さんとつながっていきたい。

沖縄の人はこう言う。

戦争体験もなく、土地闘争で闘ったわけでもない私が、被災地に対してどれほどの思いを寄せる事ができるのか、それほどのものを私が引き継げるわけはないのですが。
それでも、このプロジェクトには参加したい思いがあります。 試行錯誤して行く中で、生まれる何かがあるはず、私にとっても希望みたいなところもあり。共にたたかう、的な思いもあり。

こうした言葉に、私は「社会が変わる」という夢を見る。余裕なんてないはずの人たちの、「何かしたい」という想いは、人を動かす原動力になるんじゃないか。
 これで、社会なんか、変わるはずがない。でも、私たちは日常生活で知っているはずだ。目の前の、たった一人の人間を変えることも、私たちはできない。たった一人の人間を、救うこともできない。そのたった一人の人間の前で、佇んだときの、あの気持ちを、私たちは日々、忘れようと努めて、生活をしている。大事な人たちを、見捨てて、諦めて、自分の余裕のなさに振り回されて、それでやっと今日を乗り切っていく。その私たちが、100円の明治チョコレートじゃなく、フェアトレードの200円のチョコレートを買うというのは、贖罪ではないか。「そうじゃない、このチョコレートのほうがおいしいんだ、だから買うんだ」と自分に言い聞かせながら、そのフェアトレードのラベルをみて、買う、その瞬間、頭をよぎることは、本当は発展途上国で苦しむ人々のことではなく、目の前にいるのに、何もできない、しない人たちへの葛藤じゃないか。何もできない自分への、埋め合わせではないか。
 沖縄から、仙台に野菜を送っても、私たちが、電力を使っていて、そのために原発が稼働して、ある地域がその汚染のリスクを担わざるをえなくて、すでにたくさんの不安を福島の原発の近くの人たちを一挙に抱えていることも、今も米軍基地があって、騒音や暴力の恐怖に沖縄の人たちが一番に晒されていることも、何も埋められない。コーヒー農家の人々の貧困も、米軍基地の問題も、原発の問題も、一挙に解決する策はない。それでも、野菜を送るのである。沖縄の野菜が、仙台にいる人たちの希望になってほしい。「あなたたちが、移住してもしなくても、健康で幸せであって欲しい」ということを、顔も知らない仙台の人たちに伝えたい。しかし、私のそうした気持ちが、自己満足で偽善で押し付けで不愉快なものであろうことを、自分でもわかっている。だから、気持ちはなんであれ、野菜のおいしさには変わりがない。それが私にとって、一番ありがたいことだ。元気でいてね、と百回いう代わりに、元気でいれそうなものを、送りたい。
 きれいごとで、社会貢献なんかやれない。それは、金勘定の話ではない。「支援したい」という気持ちは、「支配したい」という気持ちや、「自分の苦しみから逃げたい」という気持ちや、「イイ人だと思われたい」という気持ちや、「相手を見下す」という気持ちと、根っこは繋がっている。だから、支援するということは、そうした自分の気持ちと向き合うことでもある。私は、日本で暮らす人が、社会貢献から逃げるのは、自分のこうした気持ちと向き合うのが怖いからじゃないかとも思う。キリスト教の信仰に基づいて、気持ちを整理することもできない。こうした気持ちと向き合う「余裕がない」んじゃないか。
 私は、聞いてみたい。
「本当に、フェアトレードは遠い世界の話ですか?」
「遠い世界に追いやっているのは、発展途上国ではなくて、あなたの目の前の人と、自分に渦巻く感情じゃないですか?」
こんなにたくさんの情報があって、インターネットで検索すれば、フェアトレードショップなんて、いくらでも出てくるのに、「遠い世界」であり続ける不思議。ビジネスで、カネもモノも流れない理由は、マーケティングが足りないからじゃなくて、日本の消費者が「買いたくない」からじゃないですか?その買ったときの、偽善と無力感に耐えられないからじゃないですか?
 私は、葛藤に耐えて、黙ってフェアトレード商品を買うべきだ、と言っているのではない。答えは、それぞれの人が出せばいい。でも、問うてみたあと、その人が何を買うのかが、変わるかもしれない、とは思う。
 それから、興味お持ちであれば、「はなつちの会」へのカンパはぜひよろしくお願いします。

*1:グローバル化した市場の問題を無視したフェアトレード批判を始めると、大変なことになるかもしれない(メモ) 」http://d.hatena.ne.jp/font-da/20120503/1336027404