生活保護とシングルマザー

 現在、ある芸人の母親が生活保護を受けていた件が、マスメディアでもネットでも大きな話題になっている。問題となったのは、その芸人の母親が「不正受給」していたのではないかという疑惑が持ち上がったのだが、当事者の記者会見により、「不正受給」でないことは明らかになった。それでも、「生活保護の不正受給が多い」のだという一部政治家によるキャンペーンがはられ、生活保護費の減額や、扶養家族への(プライバシーの侵害につながることが懸念される)調査の厳格化が政策として提言されている。
 今回の、一部政治家のキャンペーンでは、生活保護受給者の家族の扶養責任がやり玉に挙げられている。しかし、ツイッターなどで盛んに言われているように、原家族に暴力があるために、逃げる手段として生活保護が必要な人たちがいる。特に親からの虐待に苦しむ人にとって、家族から離れる手段として生活保護は大事なライフラインとなっている。もし一部政治家の政策が通れば、多くの虐待加害者は、虐待の事実を認めないため被害者―加害者間でトラブルが起きるだろう。さらに生活保護の需給をめぐって、生活保護の窓口が虐待の有無の認定が迫られる可能性もある。しかし、知識も技術もない窓口に、それは無理である。生活保護の窓口は、家族関係の支援の窓口ではなく、あくまでも生活に必要な収入の得られない人のための経済的し支援の窓口として機能すべきだ。
 そうした騒動の一方で、「不正受給」どころか、生活保護を受けることを拒否する人たちがいる。いったい、生活保護の受給をめぐって何が起きているのだろうか。ここで、鈴木大介「出会い系のシングルマザーたち」を取り上げる。

出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで

出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで

この本は、子どもを抱えながら生活費の不足に悩み、生活保護を拒み、「出会い系」と呼ばれるウェブサイトで、個人としてセックスワークを営む人たちに取材を重ねたルポルタージュである。
 実態としてのかれらは、精神疾患を持ち苦しい状況におかれている。鈴木さんは、かれらの「寄る辺のなさ」を「丸裸の花」にたとえる。

 そもそも母子家庭の貧困そのものはいまさら論じるまでもなく、その平均年間収入は213万円(厚生労働省・平成18年度全国母子家庭世帯等調査結果報告)というのは、この問題に興味のある向きには耳にタコができるほど聞き慣れた数字だろう。ちなみにこの数字、「生活保護法に基づく給付、児童扶養手当等の社会保障給付金、就労収入、別れた配偶者からの養育費、親からの仕送り、家賃・地代などを加えた全ての収入の額」となっているが、本書取材対象者にこの3桁の内容を伝えたところ、返ってくるのは溜息ばかりだ。
「年収が213万円あったら、私はこんなことしていないかもしれない」
(略)
 そして彼女らの陥っている貧困は、実にさまざまな要因が複合的に積み重なった結果だった。
 僕は花弁が全部抜け落ちた、グロテスクな花を思い浮かべる。あらゆる希望やあらゆる可能性という名の花びらが、ひとつ、またひとつ潰され、結局なにも残っていない丸裸の花だ。確信した。これほどまでになにも持たざる者が、現代日本に存在するということを知る。それがすなわち自己責任論払拭への第一歩だ。たとえそれが、知れば知るほど無力感ばかりがつのるエピソードだったとしてもだ。
(44〜45ページ)

このあと、鈴木さんはシングルマザーの苦難を描く。まず、ほとんどのシングルマザーは養育費を手にしていない。鈴木さんは引用していないが、平成18年度全国母子家庭世帯等調査結果報告で養育費を父親と取り決めている母子家庭世帯は、全体の3〜4割だ。そして、実際に受給している世帯は19%に過ぎない。16%は養育費を受けたことがあるが途絶えており、59パーセントは受けたことがない。その理由の上位として挙げられるのは、「相手に支払う意思や能力がないと思った」(47%)、「相手と関わりたくない」(23%)である。鈴木さんの本に戻ると、DVから逃げてきたため養育費の交渉など論外であるケースや、父親が失職したケース、父親が行方不明で所在が分からないケースなどが挙げられる。養育費が取り決められていても、父親が支払わない場合の罰則規定もないため、養育費を受けられる母子家庭世帯は非常に少ないのが現状である。
 次に、シングルマザーは就労を目指すのだが、子どもが小さいため働ける職場がほとんどない。求人誌を見て電話をかけても「子どもがいます」と言った時点で面接にも残れない。託児所つきの仕事は、電話をかけてもつながらないほどの人気職である。残る仕事はヘルパーだが、体力のいる仕事であるため、体を壊して辞める人も多い。そして年齢差別があるため、35歳以上になると、派遣会社でも就労が厳しくなる。
 こうして就労が難しいシングルマザーは、経済的に追い詰められていく。そこで機能すべきなのが、セーフティネットである生活保護である。しかし、鈴木さんの取材したシングルマザー20余名のうち、受給していたのは5名だけだった。その理由はいくつかあった。最初に、役所の窓口での執拗な取り調べ(「水際作戦」と呼ばれている)が壁となる。鈴木さんの本では、あるシングルマザーが、子どもが偏見の目に晒されるのが怖くて、水商売を避け、匿名性が守れる出会い系でのセックスワークを始めて経緯が取材されている。このシングルマザーは福祉事務所に通い、困窮を訴える手紙まで書いたが、受給できなかった。そのころから、出会い系でのセックスワークを始めている。子どもへの差別は、水商売ではなく、生活保護受給に対してもあからさまになる。鈴木さんは次のような例を挙げている。

(略)地方在住のある取材対象者は、せっかく受給に至った生活保護を、自ら辞退した経緯を持つと言う。10歳の息子と家賃3万円の借家に住む彼女の決心のきっかけは、「子どもがクラスメートの親から差別されたこと」だ。
 「東京じゃ信じられないことだろうけど、ここらで生活保護を受けているというのは、『泥棒扱い』なんです。このあたりも母子家庭そのものは少なくないけど、生活保護を受けると扱いが別物になる。『生活保護を受けている家庭の子が万引きをする』という根も葉もない噂をするお母さんがいた。その後、うちの子が不登校になりかけ、理由を聞いたらイジメ」
 そもそも生活保護の受給がクラスメートの親に知れたのは、地元市役所の職員が情報を漏らしたためと彼女は疑っている。実は同学年の児童でも生活保護を受ける母子家庭の子がいたが、すでに不登校という。申請を通すためにずいぶん努力した生活保護だったが、辞退に未練はなかった。前出の遠山さん(引用者注:上で挙げた生活保護を受給できなかったシングルマザー)と同様に、「バレない売春で稼ぐほうが、生活保護の差別よりはマシ」という結論を出した。
(62〜63ページ)

鈴木さんは別の章でしっかり書いているが、出会い系でのセックスワークは非常に過酷な仕事である。一人でメールを打ち、相手を探し、個人交渉で仕事をしなければならない。殴られることもあるし、ぼったくられることもある。また、得られるのも一回1万円程度であることが多く、継続した収入が得られるかどうかはわからない。いまは不況のあおりもあり、風俗で働くのも難しい中、この本に出てくるシングルマザーたちは出会い系でのセックスワークを選んでいる。
 ここまでの話であれば、これは同情や共感を呼ぶ問題である。差別と貧困、社会制度の不備がシングルマザーを追い詰めているからだ。しかし、鈴木さんは不協和音のような、かれらの不思議な言動を拾い上げていく。たとえば、鈴木さんの取材対象者の2割強は、出会い系でのセックスワークを始めたきっかけが「だって、寂しかったから」である。経済的困窮の中で「仕方なく身売り」ではなく、寂しさを埋めるためにセックスワークをする。明らかな貧困の状況と、子どものように繊細なこの発言のギャップについて、鈴木さんは取材を進める。その背景にあるのは、日本で、最後のセーフティネットとして機能している「頼れる実家・頼れる親・親族」がないということだった。かれらは、シングルマザーになったから貧困に陥ったのではなく、シングルマザーになる前から、資源を持たない苦境に立ち、寂しさを抱えてきた人たちだったことが、わかってくる。
 鈴木さんの本に登場する、もっとも印象的な人物が小西さん(仮名)である。小西さんは、生活保護を受給しないのは、「婚活に差しさわりがあるから」だという。

(略)北関東某県に住む小西直美さん(29歳)は、8歳と6歳の子どもを抱えた3人暮らし。夫が子どもに対して暴力を振るうために離婚に踏み切ったが、現在では売春による収入だけが一家の支えだ。
「この苦しさから抜け出す手段って、再婚以外にあるのかな?子どもと母親だけの家庭はさびしい。私自身、親から虐待を受けて、18歳までの人生の半分以上は施設で育った。子どもにも同じ思いをさせるのは、耐えられない。生活保護を受けたら、彼氏なんてまた、その生活保護をタカリにくる男になっちゃうかも。私はそれでもいいけど、子どものためにならない。いまはとにかくいまを切り抜けて、本当に普通のやさしい人と会いたい。子どもたちには父親が必要ですから、そうでないと子どもたちも私と同じ、心の欠けた人間になっちゃうから……」(小西さん)
 本当に”普通のやさしい人”であれば、生活保護を受給していようといまいと、それによって結婚するかどうかを決めたりはしない。そう言っても「出会いの可能性が減るかもしれないのはたしかだから」という小西さんの言葉には、こんな心の叫びが込められていた気がする。
「もうこれ以上の孤独には、耐えられない」……。
(65〜66ページ)

小西さんは、母親から虐待を受け、児童養護施設で育った。その後、子どもの父親となった男性と交際・結婚したが、虐待を理由に離婚。鈴木さんは「親がいない、職業経験も少ない、資格も学歴もない、万人受けする容姿にも恵まれなかった」のだと小西さんを描写する。小西さんは出会い系でセックスワークをしてかろうじて生活費を得ている。そして、小西さんは精神的に不安定で、心に「死ねスイッチ」(76ページ)が入ると、精神科の処方薬を過剰摂取したり、手首を切ったりしてしまう。小西さんは「それがどんなに子どもにとってショックなことかわかっていても、そのときは耐えられないんだよね。未遂やっちゃったあとは、もう謝るだけ。駄目なママでごめん。ごめんねって」(76ページ)と語っている。そして、鈴木さんはこうした過酷な話を聞きながら、自分がシングルマザーを対象とした取材の中では、これはありふれた話であり、動揺しなくなり「陳腐化された物語だ」と聞いてしまい、うんざりするようになったという。その中で、一つ残った疑問は「母親失格なのか?」ということである。鈴木さんは次のように書く。

 はたして彼女は母親として失格だろうか?
 なるほど子育ての環境としては劣悪極まりないというか、ハッキリ言って最低だ。僕自身、段階を追って彼女の半生を聞いてこなければ、大声でこう言っただろう。「あんたは母親失格だ!」と。
 僕の頭のなかで、手首から血を流し錯乱する小西さんと、それを泣きながら止める子どもたちの姿が、見てきたかのようにイメージできた。イメージすればするほど、それは耐え難い光景だ。なにも持たざる者である彼女を自己責任論で否定することはできない。それでもなお、「なぜ産んだんだ!」という気持ちが抑えられない。デキ婚なんて軽々しく言うな。テレビや新聞で親による児童虐待のニュースを聞き及んだときと、同じ気持ちだ。
 だが僕は一連の取材を通じて、いったいなにを見てきたんだろう。この日僕は、小西さんの言葉を通じて、あることに思いいたって愕然とした。それまで、その事実に思いいたらなかった自分を深く恥じることになった。
「いま小西さんにとって一番避けたいことはなに?」という僕の質問に対し、彼女がこう即答したのだ。
「チエとカズ(2人の子ども)が奪われること」
 この瞬間、やるせなさと苛立ちに満ちていた僕の心が自己嫌悪に凍りついた。
 僕が想像していた答えは「これ以上の貧困に陥ること」「一生このまま再婚もせずにひとりで生きること」というものだった。だが小西さんは、躊躇することなく「子どもを奪われるのが怖い」と答えた。僕の目の前にいる、およそあらゆる意味で常軌を逸しているように思えたこの29歳が、まったく違う姿に見えた。その瞬間、僕は初めて彼女を「母親」として認識したのだと思う。(77〜78ページ)

小西さんの恐れているのは、養育ができないとみなされて、児童養護施設に自分の子どもが預けられることである。小西さん自身は、児童養護施設で寂しさを感じて暮らしていた。「私子どものころ、私を叩くママだっていいから、いっしょに暮らしたかった」(79ページ)と小西さんは語り、子どもを施設に奪われるなら心中するという。そして、子どもを奪われる悪夢を見てうなされ、なんとか出会い系でのセックスワークで稼ぎ、今月も生活をしていきたいと奔走する。どんな環境であっても、施設より母親のもとにいるほうがマシだ、というのは小西さんの自分の経験からの強い思いだ。鈴木さんは、小西さんのその思いにショックを受ける。

 なぜこれほどあたりまえのことに思い至らなかったのか、僕は自分で自分が嫌になった。シングルマザーがシングルマザーである所以は唯ひとつ、「子どもを手放さないこと」なのだ。思えば、子どもを手放してしまえば、どれほど身軽になるだろう。彼女らにとって合理的な生活・経済の再建を考えるなら、子どもを養護施設等の公的福祉機関に預けるのもひとつの手段なのだ。少なくとも彼女らには帰属すべき実家や頼れる親族もいないのだから。
 それでも彼女らは、手放さない。その手に握った小さな手を、決して手放さない。
 子どものためのお土産を買いたいという小西さんを、駅から少し離れた国道沿いのファーストフード店まで送ったが、その日の取材は終わらなかった。連絡の取れた取材対象者にメールで小西さんに投げかけたのと同じ質問をしたのだ。
 その夜、それぞれの言葉で返された返答メールのすべては、同じことを意味していた。
「私にとって、子どもが最後に残された宝物。何があっても私は、子どもと別れることはない」
 これぞ母親としての矜持だろう。ただしそれは決して力強い声ではなかった。疲れ果て、心底ボロボロになりつつ、それでもあきらめずに挙げる、か細い悲鳴だった。
(80〜81ページ)

鈴木さんは、こうしたシングルマザーたちの共通点にしだいに気づいていく。相手との距離感がわからず、自己肯定感を失い、恋愛依存で、子どもを溺愛している。こうした女性たちは、ある種の類型を持ち、鈴木さんも若いころに出会っていた。どちらかといえば、容姿に関係なく「モテ系」であり、男性をその気にさせやすいが、女の集団では敬遠されがちなタイプ。しかし、このタイプの女性たちが、「子どもを産み、さらに社会的な孤独のなかに陥ったとき、どんな病み方をするのかまで、僕は考えたことも知ったこともなかった(85ページ)」と鈴木さんは書いている。鈴木さんは、この取材を通して、ふわふわしてタンポポの綿毛みたいな女性たちだとおもっていたかれらが、子どもを奪われたり失ったりした時、激しく慟哭し、キズまみれで叫ぶことを知ったのである。
 そこで、鈴木さんはこうした出会い系でセックスワークをするシングルマザーたちの救援策を模索するようになる。とにかく精神疾患で就労が難しいシングルマザーに生活保護の受給を勧める。しかし、激しい反発を食らう。生活保護スティグマ化されている限り、かれらは受給を拒む。そこで鈴木さんは、シングルマザーの自助グループである、「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」への相談を勧めるのだが、これも拒絶される。ある取材対象者はこう語っている。

「その人たちに、いままでのこと(出会い系で売春してきたこと)とか言うの、それは無理だよ。どうせ話したらあなたが悪いって。(売春のこと)言わないで生活保護の手伝いしてくれるの?鈴木さんから紹介した時点で(売春をするシングルマザーだということが)わかってんじゃ、意味ないよ。そもそもうちまで来てくれるのかな?相談の電話しても通じないとかない?いつも話し中なんじゃないの?」
(102ページ)

鈴木さんはこうしたやりとりの中で、かれらが女性集団に対する強い不信感を持っていることに気づく。女性集団の中で孤立したり、いじめられたりした経験を持ち、女性の友人の存在は薄い。そのぶん、かれらは男性に救いを求めようとする。それは売春に対しても同じことだった。生活保護と言う公的な制度に支援を求めるのではなく、出会い系を利用する男性たちに救いを見いだそうとする。それが仕事で金のやりとりだとわかっていながら、「恋愛の延長線上」にそれを置こうとする。前述した小西さんについて鈴木さんはこう書く。

 小西さんは待ち合わせをした相手と街を歩きホテルに向かうとき、手をつなぐのだという。手をつなぐことで彼女のなかで、その出会いは売春から希望に昇華するのだ。もしかしたら、その手をにぎり返してくれる男がいるかもしれない。同じその手から、セックスの代償としてはあまりにも少ない金をもらい、それで子どもを育てるとしても、小西さんには希望がほしい。どこまでも男女という関係性のなかでしか生きられない寂しさが彼女らをいっそう孤独のなかに追いやる。
 これを、彼女らの「男性依存的生活」とするのはあまりにも簡単だ。だが、そう類型化した時点で、彼女らは救済の対象でなくなってしまう。違う、これは社会病理だ。生育してきた環境も、陥った困窮状態も、救いを求める相手の的外れっぷりも含めて、これは社会病理であると認識すべきだ。これが僕のたどり着いた結論だった。
(104〜105ページ)

 こうした出会い系でセックスワークするシングルマザーたちの、女性集団でなじめないというきつさは、別の問題でも露出する。この本では「不正受給」をするシングルマザーも登場する。誉田さんは、生活保護受給者である母親からのアドバイスに従って、結婚せずに母子家庭での生活保護受給を狙った。精神科をまわり「言うなり先生」(128ページ)を探し、精神障害者手帳を取得し、福祉事務所と交渉した。母親には、同棲してはいけないときつく忠告されているが、担当の民生委員とは関係も良く、彼氏についての相談もするという。ホステスの仕事の明細や、養育費をもらっていることを隠すことも、ノウハウとして知っている。しかし、誉田さんも楽勝の人生だったわけではない。

 いまでこそふたり目の子どもの父親から養育費をもらい、同男性名義のプチ高級車を乗り回すという絵に描いたような不正受給者である誉田さんだが、前述したように、第一子出産後に内縁の夫が蒸発したときには勤めていた店の閉店が重なったこともあり、実際に生活保護がなければ生活していけなかった機関があった。実は精神科通院は高校2年生のときからで、通院歴は10年以上、うつ状態どん底まで悪化し、数週間単位で勤めている店に出られない状況に陥ることは、何度もあったという。
 いわゆる「水商売」といっても田舎町のスナック仕事のこと、子どもを抱えつつどんなに働いても年収300万程度にしかならない。つまり不正受給者誉田さんは、生活保護を受けていなければ何度も人生を破たんさせていたのかもしれないのだ。ここで一考。同情の余地がいかほどあるかは微妙だが、おそらくこの「生活保護を最大活用するという思考とテクニックは、いわゆる「水商売」や風俗産業に従事しつつ子どもを育てる女性のなかで、黙々と伝えられてきた自己防衛の文化ではなかろうか。(130ページ)

上のようにノウハウを駆使して、生き延びる誉田さんにすれば、シングルマザーは水商売での互助的なつながりのなかにいたほうが楽なように見える。シングルマザー同士の横のつながりで、相談に乗ってもらったり、お互いの子どもの面倒をみてもらったりできる。イジメに関しても、預けている学童保育で、水商売をする母親の子どもや、フィリピーナの子どもがたくさんいるので仲良くしていているという。そうした誉田さんの話を、鈴木さんづてに聞いた、ある出会い系でセックスワークをするシングルマザー(看護師の免許を持っている)は次のように語った。

「うん、羨ましい。楽しそうですよね。でも、たぶん私に同じことはできないな……。それはたぶん、私に看護師の資格がなくっても、そう。同じことはできない。その誉田さんて人は、たぶん生活保護をズルして受けてても、水商売でやってても、実はなにしてもあまり差別されないタイプの人なんだと思うんだよね。でも同じことを私がやったら、たぶんすごいバッシング受けるんですよ。上手く言えないけど、女には女社会の中で、叩かれるタイプとそうでないタイプがあって、私を含めて出会い系サイトで鈴木さんの言う『隠れ破綻』をする女って言うのは、本能的に自分が叩かれやすいタイプだって知ってるんだよね。男の鈴木さんには、なかなかわからないと思うけど」
(152〜153ページ)

鈴木さんは、こうした語りを聞いて、救いのなさを感じるという。不正受給をする人を「楽しそうで羨ましい」といい、女性同士の自助団体に助けを求めることをためらい、出会い系を利用する男性に救いを求めるかれらの「生きづらさ」の突破口のなさが明らかになるからだ。そして、せめてかれらが、「助けて!」と言っていい社会であるべきではないか、と読者に問うている。
 以上、長くなったが、生活保護受給に関する部分を中心に、「出会い系のシングルマザーたち」を見てきた。私は、今の生活保護をめぐる騒動で、「不正受給を減らし、『本当に困っている人』に受給すべきだ」という言説を何度も目にした。それは、これまで私が耳にしてきた言説でもある。でも、「本当に困ってる人」「本当に生活保護を受給すべき人」って誰なんだろうか?
 上を読めばわかるように、「本当に困っている人」であるシングルマザーは、生活保護を受給することへのバッシングを避けるために、受給を拒む。しかし、かれらは「無垢で可哀そうな貧困者」でもない。子どもに辛い思いをさせてしまう母親であり、男性に救いを求める恋愛依存の女性であり、仕事を仕事として割り切ることのできないセックスワーカーである。まとめてしまえば「うまくやれない人たち」なのだ。鈴木さんは、それを「社会病理」として見ようとする。それは、政策提言するならば、大事な視点だと思う。それと同時に、鈴木さんのかれらへの「理解できない」「病理である」とする繰り返しの記述に違和感もあり続けた。
 鈴木さんと同様に、この本を読んで「取材対象者たちに共感できない」という感想を持つ人も少なくなかったようだ。でも、同情も共感も後回しでいいように思う。冒頭で述べたように、まず社会制度を、貧困対策として機能させ、事情がどうあれ、生活保護を受給できるようにすることが、私は必要だと思う。その人が、どんなにズルく見え、母親失格と見えようとも、受給すればよい。「本当に困っている人」を洗い出そうとすればするほど、「本当に困っている人」の像はブレ、見えなくなり、同情や共感はできなくなる。それと、制度設計は関係がないとすればよい。親子二世代で不安定な就労をしながら、水商売仲間とつながり、楽しく暮らそうという誉田さんを、不正受給者としてバッシングすることは簡単だ。けれど、今回の鈴木さんの取材でわかったような「不正受給することが生活を破たんさせない最善策なのだ」となってしまう社会である限りは、いくらバッシングしても、誉田さんしか生き残れないし、小西さんたちは受給しようとできない。大事なのは、誉田さんと小西さんたちを区別することではなく、どちらにしろシングルマザーが生きていけるような社会制度を設計することだ。その結果、誉田さんが不正受給しなくても、生活を破たんさせないですむので、不正受給をやめられれば、それが一番いいのである。
 その上で、もう一度、生活保護受給者についてどう感じているのかの話をすればよいと思う。もちろん「感情的なバッシングを取り除けなければ、制度の不備の改正はできないし、政策も変わらない」というのも、現実的にはそうだ。しかし、やっぱり道義として「同情や共感と、社会制度は関係ない」という福祉の姿勢を取り戻すべきではないか。そう思うのは、性暴力被害者という「本当に困っている人」とラベリングされる人たちと付き合ってきて、やっぱり同情や共感ができないこともあるが、支援は提供されなければならないと強く感じてきたからだ。もちろん、結論として、鈴木さんも、同情や共感はさておき、社会制度の改編や福祉制度を利用することへの偏見を取り除くことが必要だとしている。しかし、なんで、鈴木さんが「同情や共感」できないことを、繰り返し書いていたのか、私には最後までよくわからなかった。私も、相手に同情や共感できないと、残念だったりさびしく思ったりすることは、あるが、それはそれだけの話だと思う。