魅惑の分離主義
私はTwitterのアカウント(@renrakufontda)を持っている。そこのやりとりがまとめられて、読めるようになっている。主に金明秀(@han_org)さんへのリプライというかたちで、「ある問題の当事者」が研究の場で、その問題についてコメントするときに抱える葛藤を語っている。
「マイノリティと『冷静に・論理的に語ろうとすること』のジレンマ」
http://togetter.com/li/359325
各方面からたくさんのコメントをいただいた。
その中で、i-noさんが私のレズビアン・フェミニストに対する発言に対して、コメントしてくださっている。i-noさんは、「レズビアンである<わたしたち>のストーリー」の作者だ。
- 作者: 飯野由里子
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「『マイノリティと「冷静に・論理的に語ろうとすること」のジレンマ』を読んでちょっと責任を感じちゃったので」
http://rare-pieces-of-words.blog.so-net.ne.jp/
i-noさん、本当にありがとうございます。インターネットすごいわ!一番聞いてみたい人から、お返事もらってしまった!
直接のレスポンスに代えて、私の方から補足として、レズビアン・フェミニズムにどういう関心を持っているのかを、こちらで書こうと思う。
私が、レズビアン・フェミニズムという言葉を知ったのは、西欧フェミニズムの批判的な文脈からだった。実は私は一時期、アイデンティティ・ポリティクスに深い関心を寄せ、2006年ごろには性暴力サバイバーで、社会にメッセージを発している人に聞き取り調査を行ったりしていた(未発表)。その中であった関心は「私」と「私たち」をつなぐものである。「同じカテゴリーに所属する人びとであっても、中に差異があり一つの集団として何かを主張することができるのだろうか?」という問いは、活動に身を寄せた人ならば学問的な意義とは別に、何度も迫ってくるものとしておなじみのものだろう。フェミニズムと性暴力の問題を考える上で、このアイデンティティ・ポリティクスの代表例(ときには失敗例)として挙げられるのが、レズビアン・フェミニズムだった。
この、いわゆる「レズビアン・フェミニズム*1」の大きな特徴として「男性排除」がある。男性がいる限り、女性は男性に反発する形であれ、男性に従属する形であれ、男性を中心にした周縁的なアイデンティティしか持てない。だから、男性と分離された、女性だけの共同体をつくろうというのだ。レズビアン・フェミニズムの「女ならばつながれる」というアイデアは魅惑的だったが、その活動の結果を見れば、トランス当事者を排除したり、教条主義的になったりした、というのがそのときの私の理解だった。
私の中には「分離主義=悪」という刷り込みが今もある。しかし、同時に、私は自分が分離主義が大好きなのも知っている。「同じ属性のほうがわかりあえる」という幻想を抱いている。たとえば私は、2年前にmacskaさんから頂いた、「サポートグループに対する疑問」について何も返答できていない。
「『アメリカ発 DV再発防止・予防プログラム』へのコメントへのコメントと、サポートグループの不可能性」
http://macska.org/article/269
何か書こうと思いながらすでに、2年が経過しているのである。何度か書きかけたが、消してしまった。
私は、こういうときのために、研究という手法があると思っている。いくら考えてもわからないし、感情では受け入れがたいが、どうも向こうに理がありそうな時、丹念に一から考えていくのである。そこで、これまで私が悪と決め付けてきた、レズビアン・フェミニズムとは何かを検討することにした。
すると、「レズビアン・フェミニズムって、めちゃくちゃ面白い!」と思った。特に70年代の米国では、レズビアン・フェミニストが音楽会社や出版社を立ち上げ、多くの音楽祭が開かれる。そして、レズビアン・ネーションを立ち上げ、自給自足の生活を始めるのだ。もちろん、多くのレズビアン・フェミニストたちは、そんな生活を維持できず、薬物依存になったり、共同体不和や教条主義にうんざいしたりしたようだ。でも、ユートピア思想に酔いしれ、ヒッピーや原始共産主義に影響を受けて、そんなことを始めちゃってる人たちの写真を見ると、魅了される。
その写真は、ある性暴力サバイバーの活動家の言葉を思い起こさせた。彼女は、どこかに一軒家を借りて、農業をやって、サバイバーだけで自給自足で暮らしたいと夢を語っていた。暴力を憎む被害者たちで集まって、平和にのんびり暮らしたいと。もちろん、それは夢物語で、本当はサバイバー同士の不和は深刻だし、農業がやって生きていくのは厳しいことだ。それでも、そういう夢の話を聞くのが、私は好きだった。
要するに、私はレズビアン・フェミニストのノリが嫌いじゃないということだ。レズビアン・フェミニストには詩人が多い。それに、絵を描いたり、音楽を演奏したりする。そのとき、その場にいれば、私は「レズビアン・フェミニズム最高!」と思うだろう。同時に、きっとレズビアン・フェミニズムの中で、同胞と共有できない経験について、うつうつと考えていただろう。私にとって、レズビアン・フェミニズムは極端ではなく、自分の発想の延長線上にあるものだ。
そう思ったとき、私は日本語でレズビアン・フェミニズムについて調べようとした。ところが、まとまった日本語の研究*2は、i-noさんの著作しか見当たらなかった*3。モニック・ウィッティグやアドリエンヌ・リッチら有名なレズビアン・フェミニストの著作の翻訳はあるが、文学者として扱われている。私はこれは不思議な感じがする。西欧のフェミニズムの多くは、レズビアン・フェミニズムを批判している。たとえば、日本での翻訳が多いジュディス・バトラーも、ウィティッグを批判している。西欧フェミニズムを順番に研究していくと、レズビアン・フェミニズムの歴史や主張を追うことは必須になるんじゃないかと思う。もちろん、日本の活動が豊富にあるのだから、そちらを中心に研究することが優先されるのはとても良いことだと思うし、「レズビアンである<わたしたち>のストーリー」はもっともっと読まれてほしい。けれど、私は西欧のレズビアン・フェミニズムの活動もとても面白くて、興味を持つ人は今もいると思うし、主張ももっと理論的に検討したい。
というような、背景を元にTwitterで呟いた。Twitterとはいえ、言葉足らずだったなと反省した一方で、まさかのi-noさんからのレスポンスをいただき、呟いてみるもんだな、と思った。
i-noさんの著作での試みは、「選択的レズビアン」とそうでないレズビアンの二分法を、もっと丁寧に言葉を追っていくことで、<わたしたち>というまとまりを持った集団的語り手を再構成していくことであったのが明確にわかった。私の関心が「分離主義」に重きを置いたものであるため、個人のレズビアンとしての語りを大雑把に扱ってしまっているので、ご指摘いただけてよかった。
i-noさん、ありがとうございました。批判的検討を加えた次回作の構想もあるということで、楽しみです。私のほうは、いま、11月の学会の口頭発表にエントリー中なので、それが通れば初発表の場になります。通らなかったら、またのんびり研究します。(まだ研究始めたばっかりですので、間違ってることや、足りてない情報があれば、ぜひ教えてください)