男の中で語る

 フェミニズムの知識があるとされる、男性の中で、性について語ることがある。そこにいる全ての男性が、フェミニズムの功績を認め、男女差別の解消を目指そうという気持ちが共有されているとする。そこで、フェミニズムやそれに関連の深い構築主義の限界が語られることがある。すなわち、「フェミニズムの展開の中で後回しにされてしまった問題」や「男女の根源的な差異はあるのかという問題」が議論される。私はそうした場で、フェミニズムを擁護し、構築主義の立場をとる。
 その理由は、「私が構築主義者のフェミニストだから」ではない。その場で、自分が女性であれ男性であれ、自由に発話してよいし、その内容が性別に還元されることは不当であると信じるためには、構築主義が必要だし、そこに至ろうとしたフェミニズムの運動があったからだ。私の存在を肯定するために、構築主義フェミニズムが織り込まれていると私は感じている。同時に、構築主義フェミニズムが否定されることは、私が否定されることだと感じている。いまだ女性差別はなくならず、フェミニズム構築主義も必要であることは、私が女性としてその場に存在していること*1と切り離されることではない。
 たぶん、この感覚を取り扱おうとしてきたのは、過去十年、一部の社会学や人文系界隈で提唱されてきた「当事者性」の概念や「当事者学」の領域だろう。私にとって、「当事者性を引き受けること」とは、あるカテゴリーに自分を措定して固着させることではない。カテゴリーからはみでる自分にも気づきながら、そのカテゴリーに(社会的に)はめ込まれているから身動きできないという、自分が生きていくうえでの現実を見据えようとすることだ。そして、この不自由さは、個人の心がけで変わるものではないことを説明することだ*2
 しかし、自分がまるで自由であるかのように振る舞おうとすることが、客観的で論理的で学問的な態度であるかのような言説はまだまだ多い。そして、男性と議論をしていく中で、私は何度となく、その場に適応しようとしながら、「自分だけが自由でない」そして「自由でない私は学問ができない」という劣等感を抱いてきた。自由であるかのように振る舞いながら、より自分を不自由な方向へはめ込んでいく。
 大学院に入学して4年が経ち、少しずつでも、自分が感じるアカデミズムでの息苦しさを言語化していきたいと思っている。

*1:つまり、私が「女性であることが有徴化されるほど、男性がマジョリティとなっているアカデミズムの場」に存在していること

*2:それは多くの社会学を中心にした研究でも蓄積されている