「弱者男性」は何を望むのか?

 数年前から「弱者男性」という言葉がインターネット上で流通するようになっている。定義は明確ではないが、マイノリティ属性(「障害者」「セクシュアルマイノリティ」「生活困窮者」「民族的少数者」など)を持たないが、不安や困難を抱える男性のことだろう。問題は、「弱者男性」は「フェミニズム」批判のために出てきた概念だということだ。
 最近話題になったのは以下の記事だ。

「決して救われない社会的弱者「キモくて金のないおっさん」について語る」
http://togetter.com/li/824984

「弱者男性とフェミニズム
http://shibacow.hatenablog.com/entry/2015/05/24/202444

 男性側からの「弱者男性」への反論と、それに対する再反論が以下である。

「いい加減“弱者男性”をフェミニズム批判の道具にするのをやめろよ。
http://anond.hatelabo.jp/20150524050514

「「弱者男性」の敵はマチズモ」
http://anond.hatelabo.jp/20150525015701

フェミニズムには、男性のジェンダー不平等も解消する義務がある」
http://anond.hatelabo.jp/20150525142655

 私がざっと見たところ、かれらの主張を要約するとこうである。

かつて男女差別が苛烈であったころは、女性は圧倒的な社会的弱者であった。しかし、フェミニズムの台頭で社会は変革され、男性以上に賃金を稼ぐ女性もいる。だから、フェミニズムは女性ばかりを救済するのではなく、稼ぎの少ない「弱者男性」を救うべきだ。稼ぎの多いフェミニストは、「弱者男性」と結婚しなければならない。

 この主張は曖昧でよくわからない。だから疑問が次々と湧いてくる。

フェミニズムは女性の自助的なつながりから始まった。だから、運動の筋から言っても、仮に救済に優先順位をつけるならば、「賃金を稼げない女性」が最優先ではないか。
・「稼ぎが少ない」とはどの程度のことをいうのか。生活を賄える程度の稼ぎがあるのならば、福祉の対象ではない。また、フェミニズムの到達目標は女性が自活するために稼ぐ労働環境を得ることであり、十分「弱者男性」については到達されていると言える。
フェミニズムの多くは結婚制度に批判的である。廃止論を主張するフェミニストも珍しくはない。結婚制度を基盤にした社会扶助を「現実的な方策」としてとることがあっても、積極的にすすめることはないだろう。ましてや、「高所得男性はフェミニストと結婚すべきだ」という主張は今まで見たことがない。
・従来の結婚制度を反転させた形で、「弱者男性」がかつての女性のような妻役割を担うとするならば、それは家庭内のケアワーカー(無賃)になるということである。それが「弱者男性」の望みであるならば、まずはケア技術を上げるべきだ。

 以上のようなことを考えていると、「弱者男性」が欲しいものは「甘えられる女性」なのではないかという疑問が浮上する。すなわち自分を「ケアしてくれる女性」である。
 女性が社会的に「ケア役割」を持たせられることは、フェミニズムでもここ数十年議論になっていることである。有名になったのはキャロル・ギリガン「もう一つの声」だ。(日本語訳が絶版になって久しく、図書館などで探すしかない)

もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ

もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ

 ケアとは、「相手を慮り、自己利益ではなく他人の利益を優先してものごとを考え、相手の世話をすること」である。男性中心文化では、「自己利益を優先し、論理的に思考して自分の正しいと思うことを通すこと」の価値が高く置かれる。他方、女性中心に文化では「ケア」の価値が高く置かれ、親密な関係が維持されている。しかしながら、社会の文化は男性中心であるため、「ケア」の価値は不当に貶められている。
 本来、ケアは生物学的な特質には関わらないため、男性であっても「ケア」をすることは重要であるというのがケアのについての主流の議論だ。多くの女性はむしろ積極的にケア役割を引き受け、価値付けていることが多い。だからこそ、「結婚して家族をケアすること」に重きをおく。この状況に対しては、「男性もケアをするべき」というのと「女性のケアに高い価値を付与する」というのの両面から、「不平等をなくしていこう」というのがフェミニズムのスタンダートな主張といえるだろう。
 しかしながら、「弱者男性」の不満は「自分がケアを分担できないこと」ではなく、「ケア役割」の女性が自分に配分されないことのように見える。それも、上で想定されているような生活上のケアだけではなく、金銭的な援助も含む。それも無賃で親密性の中で与えられたいというのだ。こうした要求に応えるフェミニズムは、ほとんどいないと思う。ただ、以下のような「弱者男性」運動が起きた時に、フェミニズムが妨げることはないように思われる。
(1)最低限のケアを配分を要求する運動
 もちろん、ケアが必要な人に行き渡らない場合には、社会保障でなされることがある。たとえば、障害者や高齢者の介護がわかりやすい例だろう。たとえば、「弱者男性」の中に家事などが困難である場合には、ホームヘルプ等のサービスを利用するための補助が欲しいということは要求できるかもしれない。自分たちが、なぜ家事ができず、どうして援助が必要なのかを示すことができれば、不可能ではないだろう。実際に自分で自分をケアできない状況というのは、非常に厳しいし、助けを求めて良いと思う。
(2)男性労働者に対する適正な生活保護の運用を要求する運動
 また、金銭的な援助が必要であれば、それも訴えることができると思う。残念ながら、男性の場合は、生活困窮したり、就労が難しい場合の生活保護受給が適正に行われていない。また、過重労働やハラスメント下の労働も多く、仕事を辞めたいと思ってもその後の生活保障が整備されていないため、無理を重ねることになる。うつや自殺につながる重大な問題であるから、こうした要求は重要だと思う。
 上のような運動が起きたとき、フェミニズムが連携するかどうかはわからない。なぜならば、ケアを求める運動は障害者運動が蓄積しているし、生活保護の運動については野宿者支援が努力を重ねている。そちらとの連携が優先されるだろうと思う。また、ケアや貧困の問題でよくあるのは、男性と女性では抱える困難の質が違うということだ。そこで、同じ目的であってもフェミニズムは別様の運動を行うことはよくある。だから、フェミニズムが積極的に「弱者男性」の運動と共闘するかどうかはわからないが、少なくとも反対はしないだろう。
 ただ、こうした運動は、「弱者男性」が望んでいるかもしれない、「寂しさを女性が埋めてくれる」という結果は得られない。「弱者男性」の問題に限らず、マイノリティ男性の多くは「ケアしてくれる優しい女性がいて欲しい」「福祉支援よりも妻が欲しい」ということがある。しかし、出発点はそこであっても、運動を始めれば人と関わり合う濃密な経験が得られる。必ずしも「寂しさを埋める」のは女性でなくて良いと思うようになる人もいる。
 私自身も、社会的に困っている男性から親密な関係を求められることがあるが、お断りしている。カウンセリングに行くか、社会運動を始めるのがよいとお勧めするが、毎回、がっかりされる。そして、女性よりも男性に対して距離を置くのも正直なところだ。なぜならば、そのままDVやストーキング、性暴力の状況になっても、「そんなそぶりを見せたお前が悪い」と言われることを経験的に知っているからだ。以下ではてこさんが詳しく書いている。

「なぜ弱者男性は弱者女性より深刻に詰んでいるのか」
http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20150525/1432544584

わたしは男性を前にしているとき無意識に「襲われないように身を守らなければ」と思っているし、「好意を勘違いされないように」と思っている。男を獣扱いするな、自分は女性を虐げたことなどないと、どんなに言われてもそれはもう仕方がない。事が起きたとき責められるのはこちらだし、起きた後では取り返しがつかない。

 上の記事では、「弱者男性」に差し伸べるのは「男性」であったほうがいいのではないかという理由が丁寧に書かれている。私もその点は同意する。*1
 私は「弱者男性」の苦しみが小さいとは思わない。「誰かに甘えたい」「世話をして欲しい」という願望は、多くの人が持っているだろう。だからこそ、結婚するしないは別にして、生活共同体を作ったり、誰かと定期的に会う機会を作る。「自分はキモくて金がない」から誰からも愛されず孤独で死んでいくのだと思うのは、とても辛くて苦しいことだと思う。だからといって、フェミニズムを高圧的になじったところで、解決はしない。
 以前にも、男性の置かれた孤独については書いた。もう7年が経ち考えが変わったところもあるが、大筋は同じだ。自分の孤独に向き合えるのは自分だけだ。

「承認欲求の牢獄から抜け出すために」
http://www.parc-jp.org/alter/2008/alter_2008_11-12_femme.html

*1:女性同士の依存関係や暴力もあるのだが、男性の依存は周囲の人間に正当化されやすく、暴力も激化しやすいというのが、私の実感だ