フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します。

 フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します。それについて以下で述べます。

 ここでいう「トランス」とは、「性別を越境する」ことを指します。私たちの社会では、性別は「男性」と「女性」に分けられています。近年は「性同一性障害(GID)」という言葉もよく知られるようになり、「男性に産まれたが、女性として生きたい人」「女性として産まれたが、男性として生きたい人」の存在が可視化されました。そのような人たちに対して、(まだ多くの課題が残っているものの)性別移行手術や戸籍変更も認められることが増えました。こうした人たちは、「男性」と「女性」の性別を越境します。

 性別の越境の仕方はそれだけではありません。たとえば、服装だけを変える「異性装」によって性別を越境する人もいます。また、アイデンティティについても、何度も「男性」と「女性」の間で性別を行ったり来たりする人もいます。「男性」と「女性」という二分の間で揺れ続ける人もいます。そもそも、「男性」と「女性」の区切り自体に疑問を持ち、性別を「選ばない」というかたちをアイデンティティとする人もいます。これだけではなく、多種多様な性別の越境の有りようがあります。

 こうした、性別を越境する人たちに対して、歴史的にフェミニストは差別を繰り返してきました。フェミニストの基盤は「この社会で、女性であるということについて考える」ことにあります。多くの女性フェミニストは「私は女である」という経験から、社会の中にある性差別や抑圧に抵抗する言葉を紡ぎ出してきました。そのため、女性フェミニストにとって「女とは誰のことか」が大きな問題になります。そして、歴史的にフェミニストは、「性別を越境して女性になった人」、つまりトランスを運動から排除してきました。たとえば、「女性だけのフェミニスト団体」からトランスを排除しました。「女性だけの音楽祭」を企画した時にトランスを参加させませんでした*1。女性としてフェミニズムに参加するトランスにとって、このような差別や排除は不当です。そして、こうした差別や排除は、相手を傷つける行為です。私はフェミニストとして、トランス差別・排除に反対します。

 ところが、いま、Twitterでは多くのフェミニストが、トランス差別・排除の言説を拡散しています。そのときに掲げられるのは「女性の安全」です。女性限定のスペースを守り、男性のいない場所で女性がのびのびと暮らせる権利が欲しいという主張もあります。そのときに持ち出されるのが「性暴力」の問題です。一部のフェミニストは、トランスの中で男性生殖器(ペニス)を持つ人々は女性を性暴力の被害に遇わせる可能性があるため、特定の場所で共に過ごすことは危険であると主張しました。

 これらの主張は正当ではありません。私が一番大事だと思うのは、性暴力はペニスによって引き起こされるわけではないことです。ペニスを使わない性暴力はたくさんあります。指や器具を使ったり、生殖器以外を侵害したりすることで行われる性暴力は頻発しています。そして、それらの性暴力はペニスを使うものより、小さな被害だとは言えません。また、これらの性暴力は「男性から女性」にのみ行われるものではありません。「女性から男性」に対する性暴力や同性間の性暴力もあります。トランスの人たちも性暴力の被害に遭います。「大人の女性から子ども」への性暴力もあります。女性は性暴力の加害者になります。ペニスがない人たちだけで集まっても、性暴力は起きます。なぜなら、性暴力を引き起こすのはペニスではなく、加虐心や支配欲などの「暴力をふるいたい」という欲望だからです。

 しかしながら、これまで多くの性暴力被害者のためのグループは「女性限定」でした。なぜなら、性暴力被害者の証言を自分の性的欲望を満たすために聞こうと考えて、グループの情報を得ようとする人たちが一定数いるからです。かれらの多くは真摯に性暴力被害者に心を寄せるふりをしながら、相手から生々しい被害の様子を聞き出し、それをこっそりと自慰行為のネタにします。また、こうした話を利用してポルノ作品を創る人もいます。人間の欲望は果てしないのでそうした人びとが存在することは否定はできませんが、多くの被害者は自分の経験を性的に利用されることで深く傷つきます。そして、そうした行為を行う人たちの多くが男性です。そのため、性暴力被害者のためのグループは「女性限定」になりやすいのです。

 他方、こうしたグループから男性被害者やトランスの被害者は排除されることになります。性暴力被害を受けた後も、支援につながることができないのです。また、フェミニストや女性の支援者の性暴力に関する声明や見解についても、「女性中心主義」であるため、常に女性ではない被害者は周辺化されます。私はこの性暴力問題の「女性中心主義」を10年以上、批判してきました。私の立場としては、性暴力被害者の当事者団体については「女性限定」であることは安全管理の問題上、仕方ないと考えるところはあります。しかしながら、啓発活動や支援者向け講座の中での「女性中心主義」について明示的に批判してきました*2。ましてや、公開上のインターネットの言説はいうまでもありません。性暴力の問題が「男性から女性」に限定されることも、ペニスによって性暴力が引き起こされるかのように主張することも誤りであると、ここではっきりと批判します。

 ところが、現在のTwitterではフェミニストによって、ペニスのあるトランスは性暴力の加害をする可能性があるので危険だといわんばかりの言説が飛び交っています。こうした発言をする人びとを「ツイフェミ」と呼ぶことがあります。これはツイッターフェミニストの略で、従来のフェミニズム運動への参加経験や、研究者としての経歴がなく、Twitterだけで活動していることを揶揄的に表現した言葉です。しかしながら、ツイフェミであることと、ほかのフェミニストであることに大きな差はありません。私は今でこそ研究者であり大学で非常勤講師をしていますが、2007年にこのブログでフェミニストを名乗り始めた時には、学籍もありませんでした。また、草の根のフェミニズム活動には関わりましたが、その話は一切書きませんでした。ですので、インターネット上のフェミニストのプロトタイプだと言って良いと思います。当時、ネットでフェミニストを名乗ることは、罵詈雑言を受け、嫌がらせをされることを意味しました。ほとんどフェミニストは存在しませんでした。その中でフェミニストを名乗った理由は「汚名を引き受けよう」と思ったからです。私にとって、ブログでフェミニストであると名乗ることは、「私は女である」という経験を徹底的に掘り下げるという宣言でした。おそらくツイフェミと呼ばれる人たちの中にも、同じような動機でインターネット上で活動している人はたくさんいると思います。ですから、私はツイフェミと変わらない立場であると自認しています。

 私は、「私は女である」ことの経験からたくさんの感情を引き出されます。積年に降り積もった怒りも悲しみもあり、取り乱すこともよくあります。冷静ではいられないし、他者に対し拒絶的にもなります。過去に由来する感情を抑えられず、不条理な言動をとったこともあります。私はそのことを否定するつもりはありません。ネガティブな感情は、社会の中にある性差別や抑圧に抵抗するエネルギーになるからです。フェミニストであるということは、周囲から浮き、批判を浴び、時には白い目で見られることです。それに耐えて社会を変えようとすることができるのは、心に煮凝った暗い情念が自分を支えてくれるからです。私はルサンチマンを隠したいとは思いません。

 それと同時に、私はこの暗い情念から解放されたいと思っています。これまで生きてきた経験に根ざした感情を昇華したいと考えています。特に誤りや無知が引き起こすネガティブな感情は本来はなくて良いものです。たとえば、私の心の内側にもペニスへの恐怖やトランスへの無理解がべったりと貼り付いています。それらは私には必要がないものです。私はこうした自分の一部分を変えていきたいと考えています。

 フェミニストのパトリック・カリフィアはトランスについて議論する中で、「わたしたちは男性以上ではないにせよ、少なくとも男性と同じ程度には変わらなければならない*3」と述べています。このように言うカリフィアは、過去にレズビアン分離主義に与しており、トランスを排除した経験を持っています。しかしながら、自らのセクシュアリティを探求する中で、トランス差別に対する考えを変えてきました。その上で次のように言います。

 偏見を解きほぐすのは生涯にわたるプロセスである。最近、わたしは非常にためになる経験をした。私の長年の知己である女性が、トランスジェンダーであるとわかったのだ。そのことに気づかず、何年も知り合いだったのである。この発見はわたしには少し痛かった。というのも、わたしの「ゲイダー(*)」と同様に「トランス・レーダー」もうまく働いていると思いたかったからだ。彼女には騙すつもりはなく、わたしがもう知っていると思っていたのである。トランスセクシュアリティについて多くのことを学んできたから、これがそう大きな違いであるとは思わなかった。しかしわたしは、気がつくと彼女のことをまったく違った風に見ていた。突如として、彼女の手が大きすぎるように見えてきた。鼻にも何か奇妙なところがあるし、それに彼女には喉仏がなかったかだろうか?*4 声も女性にしては低すぎないか?それにいつも男性のような親分肌ではないか? それに何たることか、前腕にはかなりの毛が生えていた。

ゲイダー ゲイがゲイを見つけ出す第六感のこと。「ゲイ」+「レーダー」というユーモア溢れる俗語。

 これは楽しい種類の騒ぎではなかったが、こんな風に考えている自分に気がついた時、思わず笑い出してしまった。トランスフォビアを取り除くのは非常に難しい。トランスジェンダーではないわたしたちが、トランスセクシュアルについて正確な判断を下すことは至難の業だ。わたしたちは、私たちが互いに見るときのようには、彼/彼女を見ないからだ。彼らを評価するのには別の基準を使う。そしてこの基準には、彼らの染色体上の性が依然として彼らの自分の表し方に影響している証拠を見つけ出そうとする方向にバイアスがかかっている。(カリフィア、217-218頁)

 上のようなカリフィアの経験談は、トランスでない人間がいかに既成概念にとらわれているのかを描き出しています。「トランス女性とシス女性は違うよね」と、トランスでない女性が言い合っている、その感覚の裏側には、「違いを見つけ出そう」とすることへの隠れた動機があります。あるカテゴリーと別のカテゴリーの間の差異を素早く見つけ出せるのは、差別心のなせるわざです。トランスでない女性たちも、男性たちが同じように「男と女は違うよね」と言い出す場面を何度も経験しているはずです。男性が性差別から解放されることが難しいように、トランスでない人がトランス差別から解放されることは難しいことです。それでも、私はできる限り解放されたいですし、自分の差別心を正当化したいとも思いません。ペニスを恐れ、トランスの人たちを排除して、偽りの「セーフスペース」を持ちたい、とは思わないのです。

 私たちは社会を変えることができます。そして、私自身のことも変えることができます。それが、フェミニズムの希望ではないでしょうか。

(引用は以下のパトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ トランスジェンダー政治学からしています。) 

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:米国の事例です。参考としては以下。カリフィア、370-374頁。(以下、引用は翻訳版より)

*2:フェミニストの支援者から嫌な顔をされたことは何度もあります。私はフェミニズムの王道から外れています。

*3:カリフィア、180頁。

*4:翻訳版ママ