WANのトランス差別を含む文章掲載について

 WAN(Women's Action Network)に、石上卯乃氏によるトランス差別を含む文章が掲載された件で、ここのところネットで議論になっていました。ふぇみ・ぜみ×トランスライツ勉強会は、WANに対して公開質問状を出し、以下のことを指摘しています。

 

石上氏による当該エッセイは、トランスジェンダーへの差別をフェミニズムの語彙を用いて正当化し、誤った印象操作をするものです。生理などの身体的特徴によって性別が決まるのだと主張して、ミスジェンダリング(誤った性別割り当て)を煽動するとともに、トランスジェンダー排除言説への批判を攻撃と読み替えたり、トランスジェンダー排除派フェミニストを被害者として逆転させたりなどのイメージ操作を行っています。

https://femizemitrans.blogspot.com/2020/08/blog-post.html

 

 以上のように、石上氏の文章がトランス差別を含むものだと明確に指摘されている。他方、WANでは昨年、トランス差別に抗するという声明が出ていました。

フェミニズムジェンダーセクシュアリティ研究は、性差別だけではなくあらゆる差別を、また複数の差別の連動性を問題視する視点を育んできました。この視点は、女性の/女性という経験は必ずしも一様ではなく違いをともなうという洞察を、また、権力関係は男女間だけにでなく女性間にも存在するという重要な気づきを、私たちにもたらしてきました。これは、女性の置かれた社会的位置の多様性に応じて多様な抑圧が生じる複合的な仕組みを考察する上で不可欠の視点です。私たちは、フェミニズムジェンダーセクシュアリティ研究の蓄積から受け継いできたこの視点と洞察の重要性をあらためて確認し、これを培っていくべきだと考えます。

「トランス女性に対する差別と排除とに反対するフェミニストおよびジェンダーセクシュアリティ研究者の声明」

https://wan.or.jp/article/show/8254

 以上のように、WANでは、これまでのフェミニズムで「女性」と言う枠組みそれ自体が議論されてきたことを指摘し、トランス差別に抗することを明言しています。

 それにも関わらず、トランス差別を含む文章を掲載することは、WANの団体としての方針が一貫しないことになります。それについて、このたび、WANから次のような見解が出ました。

これを契機に WAN サイト上で投稿者も望むように「自由でオープンな議論」が生じることに期待して、掲載の方向で投稿者と編集担当の間で、メールでやりとりを行い、8 月12 日に(引用者注:石上氏の文章を) WAN サイトにアップしました。

「公開質問状への回答 WAN編集担当」

https://wan.or.jp/article/show/9108

 上のように、WANでは「自由でオープンな議論」を生じることを期待するとはっきりと書いています。

 しかしながら、差別構造のおいては、差別を「する側」と「される側」は明白な力の不均衡があります。この状況で対話を行えば、差別を「される側」は、弱い立場に置かれたままで、圧力と緊張の中で発話することを強いられます。これはマジョリティからマイノリティへの「対話の強要」として機能します。

 私は、力が不均衡な関係において、対話が不可能だとは思いません。たとえば、私は性暴力の問題について、修復的司法のアプローチにより研究してきました*1。性暴力の知識が十分にあるベテランのファシリテーターが、綿密に練られたプログラムを使い、慎重に性暴力被害者を尊重して対話を行えば、有意義な実践になり得るという結論に至っています。ただしそのためには、膨大なコスト(人材、準備期間、資金等)が必要です。仮に、私はWANがそこまでして、差別を「する側」と「される側」の対話を実施すると言うのであれば、賛同したかもしれません。

 しかしながら実際にWANのやったことは、一方的にトランス差別を含む文章を掲載し、それをもって「自由でオープンな議論」が生まれることを期待しているだけです。差別を「される側」の安全を確保する準備は皆無のままに、「自由でオープンな議論」が勝手に生まれてくるという見解は、反差別団体としてはあまりにも性急であると考えます。

 このようなマジョリティから「対話の強要」は、マイノリティの対話に対する信頼を壊し、声をあげる力を奪います。多くの人々は、自分を差別を「する人間」の前ではうまく話せません。緊張や恐怖、不安などから、スムーズに言葉が出なくなることもよくあります。そうなれば、マイノリティは見せかけの「自由でオープンな議論」の場で、マジョリティに対して、「うまく話せない」という経験を積み重ねることになりますし、そうした苦闘の中で自らの声を失いかねません。

 そして、このような「対話の強要」は、これまで一部の男性がフェミニストに対してやってきたことです。かれらは、フェミニストを「自由でオープンな議論」の場に引きずり出して、「言わないとわからない」「もっと論理的に話して欲しい」「感情的すぎて聞いていられない」「この人の話は特殊すぎる」「あなたに問題があるのではないか」などと論評します。これらの一部の男性の振る舞いへの異議申し立てを、フェミニズムはしてきたはずではないでしょうか。

 私はこれまでWANの会員になったことはありませんし、寄稿等の経験もないため、まったくの部外者ですが、フェミニストかつ対話を研究してきたという立場から、WANのこの見解を批判します。

 

*1:小松原織香『性暴力と修復的司法』成文堂、2017年。