「1945ひろしまタイムライン」の問題について

 NHK広島放送局が企画し、現在も進行中の「1945ひろしまタイムライン」に対する批判が噴出しています。この企画は「75年前のひろしまSNSがあったら」という仮想のもと、Twitterで現在の日時に合わせて3人の(架空の)人物のツイートが流されているものです。このツイートを読んだ人は、まるで現在、自分も1945年のひろしまに住む人たちと同じ時間を過ごしているようなヴァーチャルな経験を通じて、主に原爆投下を中心とした「過去に存在した人々」の生をリアリティを持って感じることができます。つまり、この企画で発信されたツイート群は、当事者の経験を「当事者でない人」に生々しく追体験させようとします。

 この企画で気をつけなければならない点は、以下の三つです。

(1)フィクションであること

 3人の人物にはモデルがいますし、当時の日記等の資料を用いて、1945年を生きたかれらの生の言葉を元にしています。他方、この企画の特徴は、それらの言葉を「自分たちの言葉」で語りなおすことにあります。*1すなわち、ツイートは「かれらの証言」ではなく現代の視点から見た「わたしたちの創作」として発信されています。

(2)企画の一部を担ったのはひろしまに住む高校生であったこと

 ツイートを創作しているメンバーの中には、高校生も含まれています。かれらは、中学1年生の少年「シュンちゃん」のツイートを創作しました。その過程の一部はNHK広島放送局のサイトでも公開され、かならずしも高校生の考えたツイートが、当事者の感情と一致しないことは明記されています。*2

(3)歴史家の監修がないこと

 この企画の監修は、劇作家・演出家の柳沼昭徳さんです*3。 柳沼さんはこれまで、「当事者でない人」が過去に起きた出来事を、地元の住民とともに語り合う中で、演劇作品を創るという創作方法をとってきました。他方、柳沼さんは歴史の専門家ではありません。つまり、この企画は、ツイートを流す前に、歴史的事実と創作の差異を専門家によって検討するというプロセスを経ていません。

  以上の点は、おそらく多くの「1945ひろしまタイムライン」を見ている人は理解していません。私自身、これらのツイートを積極的に読もうとは思いませんでしたが、Twitterを眺めているだけで、フォローしている人たちのリツイートによって一方的に断片的なツイートが流れ込んできます。かれらはひろしまの「生々しい体験」を興奮気味に他者にも伝えようとしていました。

 この企画の問題点が大きくクローズアップされたのは、「シュンちゃん」のツイートがきっかけです。このツイートは、1945年には間違いなくあった差別を背景にした発言を含むものでした。現代であれば「ヘイトスピーチ」とみなされる発言だったのです。もちろん、その発言にはなんの注釈もなく、これまでのツイートと同様に断片的に拡散されるものでした。

 この差別発言の問題については、春乃花さんの以下の記事で詳しく述べられています。

春乃花「ひろしまタイムライン」問題: 「ファシズムの教室」とともに考える

https://note.com/pectapomme/n/n6f9864866d6b

 春乃さんは、ヴァーチャルに過去に起きた出来事を経験し、被害や加害の生々しい感情を追体験しようとすることの効果の、肯定的な面も紹介しています。その上で、ヴァーチャルに被害感情を内面化した人々が、それを反転させて加害感情に転化する危険も上の記事で指摘しています。

 そして、「1945ひろしまタイムライン」の問題点を次のように指摘しています。

こうした「当時を体験する」試みは、慎重に行えば悲惨な歴史を繰り返さない貴重な追体験となるだろう。
しかし、細心の注意とフォローできる準備や配慮もなく、発信だけが一人歩きするツイッターという場では、危険な煽動行為に陥る可能性がはるかに高い。
非常に繊細で危ういことを軽々しく行った罪は重い。 

 以上の春乃さんの指摘に、私も賛同します。私は当事者の経験を、「当事者でない人」が語り継ぐことは重要な意味を持つと考えています。そのときに、生々しい証言は改変され、創作されることもあるでしょう。人間は、人間である以上、他人の語りを完全に再現することはできないからです。そして、再現不可能でありながら、他者の経験を語り継ごうとする営みにこそ、深い意味があると私は考えています*4

 しかし、そのときには、春乃さんも指摘するように「細心の注意」が必要になります。たとえば、すでに広島では被ばく者の声を、「当事者でない人」が語り継ぐ試みが、慎重に行われてきました。広島市被爆体験伝承者養成事業を行っていますが、その研修期間は最短でも3年です。

広島市被爆者体験伝承者養成事業とは」

https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/10164.html

 こちらの記事では、実際に伝承者となった女性へのインタビューが記録されています。

益田美樹「被爆体験伝承者:ヒロシマの記憶を受け継ぐプロフェッショナル」

https://www.nippon.com/ja/features/c03307/?pnum=1

 伝承者の女性は「怖さは当然ある。乗り越えていません。完全になり替わって話すことはできないし、本当のつらさは本人でないと分からないと思います」と認めた上で、次のように語ります。

「体験だけを伝えるのであれば、朗読技術に長けた人が原稿を読む方が、よく伝わるかもしれません。本人によるビデオ証言も同じ。でも、情報の行間であったり、映像に残っていないような本人のちょっとした表情だったり、感情に関する部分は、本人から直接、何度も話を聞いた人だからこそ伝えられることもある。心の受け継ぎ。そういうところを受け継ぐのが大事だと思っています」

https://www.nippon.com/ja/features/c03307/?pnum=3

 この言葉の後に、女性は伝承を続けていくのは、辛い経験をした当事者を「いとおしく思えた」とことが根っこにあると語っています。この記事では、当事者と「当事者でない人」との交流にもフォーカスされ、伝承制度が心を受け継ぐ試みになり得ることが明かされています。

 こうした伝承制度と、今回の「1945ひろしまタイムライン」の取り組みは、同じく「当事者でない人」が経験を語り継いでいくことを目指しています。その最も大きな違いは、目的や手法ではなく、両者が経験する「プロセス」にあります。伝承制度のような取り組みは時間がかかりますし、非常に困難な作業です。また、丁寧に心を受け継ごうとするプロセスは地味ですし、センセーショナルな注目を拒むところがあります。結果として、目立って「みんなの目の届くところ」にあらわれるのは「1945ひろしまタイムライン」なのです。このことをどう考えればいいのでしょうか。

 これは、Twitterという媒体について考えることでもあります。ここ数年、Twitterは個人の交流を目的としてツールだけではなく、社会問題の発信の手段になってきました。その先駆けともいえるのが、「#metoo」のハッシュタグをつけて、性暴力の被害経験を告発する運動でもあります。多くの被害者が自らの経験を語ることで、性暴力に関する社会の注目が集まりました。「被害者への支援」や「被害実態への理解」が急速に広まっていきます。有名人が性暴力で告発され、社会的制裁を受けることもありました。これまで、沈黙を余儀なくされてきた性暴力被害者が、metoo運動で声を上げることができたのです。この運動は間違いなく、必要であり、有用であったと言えるでしょう。

 他方、私はずっとmetoo運動には慎重な態度をとっています。まず思うことは、これまでも性暴力被害者は声を上げたということです。いままで性暴力の問題が明るみに出なかったのは、被害者が沈黙したからではなく、周囲が耳を傾けなかったからです。また、私は「声を上げなければならない」と被害者にプレッシャーをかけることにずっと反対してきました。たとえば、以下のような記事を書いています。

「話さなくていい、声を上げなくていい」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/2020/03/09/122141

  さらに、私を躊躇させたのは、Twitterでのムーブメントが、あまりにも簡単に誰もが参加できるものだったことです。私は参入障壁を下げることは、基本的にはいいことだと思っています。社会運動が「人生の全てを賭けなければ参加できない」とは思っていません。多くの人が気軽に参加できる運動は、社会からも注目を集め、問題への関心を高めます*5他方、簡単に参加できる運動は、簡単に離脱できる運動でもあります。次のムーブメントが来れば、その人たちはいなくなってしまいます。そのとき、当事者は取り残されるのではないか、という懸念があります。つまり、「みんな勝手に盛り上がって、いなくなった」とき、置いてけぼりにされる当事者がいるということです。そのとき、社会運動は「当事者の搾取と消費」で終わります。

 そして、「1945ひろしまタイムライン」は企画者の意識的・無意識的な意図にかかわらず、これまでの「Twitterによる被害者の告発」のムーブメントに乗っかるかたちで行われているように、私には見えます。被害経験の生々しい言葉により、人々は怒りや悲しみの感情を自分の中に内面化します。そして、人々は善意から「こんなひどいことがあった」ことを、みんなに知らせようと拡散しました。こうしてTwitter上に目に見えない「私たち」の集団が作られていきます。その感情が十分に膨らんだところで、当事者の「被害感情」が「加害感情」に転化したツイートが発信されます。より弱い立場にある民族マイノリティへの差別発言が行われたのです。ある問題の被害者であることは、別の問題での加害を免罪しません。けれど、往々にして、被害感情は、自らの加害行為に目隠しをします。同時にこれまで当事者の被害感情を内面化してきた「当事者でない人」は、かれらを批判することを躊躇します。こうしたことが、この企画では起きていたのではないでしょうか*6

 NHK広島放送局は今回の差別ツイート事件について、批判を受けて次のように書いています。

当時中学1年生だった男性にとって、道中の壮絶な経験が敗戦を実感する大きな契機になったことに加えて、若い世代の方々にも当時の混乱した状況を実感をもって受け止めてもらいたいと、手記とご本人がインタビューで使用していた実際の表現にならって掲載しました。

NHK広島放送局「8月20日のシュンのツイートについて」

https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/434538.html

 繰り返しになりますが、ある問題の被害者であることは、別の問題での加害を免罪しません。たとえ、中学一年生の少年が壮絶な経験をしていたとしても、そこでの差別発言は加害にほかならず、それを注釈なしに拡散することは、二次加害行為になります。そのことに、この企画を運営するNHK広島放送局が思い至らないのはなぜか。それは「被害者の生々しい証言」であることに引きずられているからではないでしょうか。しかも、このツイートは実際の当事者の心理的混乱の中から生じてきたのではなく、現代の私たちが「自分たちの言葉」として生み出した創作です。私たちはこの発言を目隠しなしに見つめるべきです。差別ツイートは「当時のことを思えば仕方ない」のではなく、現代の私たちが選び、発信した発言です。

 私はこうしたあやまちを避けるためにも、歴史の専門家による監修は必要だったのだろうと考えています。被害者の生々しい証言に、「当事者でない人」が引きずられるのは当然のことだからです。私自身、当事者の心理的混乱から生まれてきた激しい言葉に、よく引きずられます。これは「冷静になろう」という心がけでどうこうできるものではありません。だからこそ、資料を丹念に読んで精査し、専門家同士の議論を重ね、トレーニングを積んできた歴史家の見解が必要とされるのです。

 私は「1945ひろしまタイムライン」の取り組みは、人々が過去の歴史に向き合うための、大きな潜在力を秘めていたと思います。それにもかかわらず、丁寧なプロセスを欠いたため、差別ツイートを拡散するに転じるという失敗をしたように見えます。そして、私が疑っているのは、この企画を運営した人たちの中に「バズらせればいい」という現代風の価値観が何よりも至上になっていたのではないか、ということです。もし、その私の疑いが当たっているならば、非常に危険だと思います。

 

*1:

https://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibaku75/timeline/index.html#about

*2:

https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/butaiura/427607.html

*3:

https://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibaku75/timeline/#about

*4:この問題ついては、今、投稿論文を書いています。査読を通過すれば、(来年以降にはなりますが)公開されます

*5:私はその成功例のひとつが水俣病運動における「一株運動」だったと考えています。それについては論文を書きました http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201904.pdf

*6:私はこう書くとき、一部の性暴力被害者がTwitterでトランス差別を行なっていることを念頭に置いています。私はあれは、かれらがおかしいと切断するのではなく、metoo運動、そしてそれに乗っかった「当事者でない人」たちの問題としても考えるべきだと思っています。トランス差別については前に書きました。 https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/02/08/124056