「劇場が閉じた」ことの意味

 新型コロナウイルスの影響で次々と劇場が閉じていく。それに対して、演出家の野田秀樹は「ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません」と訴える文章を発表した。

野田秀樹さん『劇場閉鎖は演劇の死』 公演自粛に意見書」『朝日新聞デジタル』2020年3月1日

https://www.asahi.com/articles/ASN3164G4N31UCVL00B.html

 

 この意見書で、野田さんは劇場閉鎖の前例を作ってはならず、できうる限り、劇場閉鎖を避けるべきだと述べている。また、文章の中で「演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません」の書いたことにより、スポーツに対する無配慮を批判された。

 このような文脈で「劇場」を閉じるべきか否かという議論があったのだが、先日書いた「『演劇』と『労働』」*1というエントリーに、「劇場」をめぐって鋭いブックマークコメントがついた。以下である。

id:Nihonjin 単に「お芝居」でなく、労働者側的な意味での「演劇」っていうと俺の中では唐十郎みたいなイメージなので、仮設のテントでなく劇場という建築物と結びつく演劇人は権力側、つまりここで言う会社側の人間だと思ってる

 

 私は先のエントリで、労働者が演劇作品を鑑賞することを通して、生の実感を得ることで擬似体験的に日常生活からの解放を経験する意義があるというようなことを書いた。上のコメントは、そのような労働者にとっての演劇の意義があったとしても、それは「劇場」外で行われるテント芝居のようなものではないか、と指摘している。

 つまり、「劇場」という建築物の中に演劇という事象を囲い込み、チケットを買った人だけがそこに入場できるという制度そのものが、権力側によって作られており、労働者はそこから疎外されているということである。そうであれば、劇場の閉鎖による「演劇の死」とは、あくまでも特権階級の人々にとっての「演劇の死」にすぎないということになる。これはとても鋭い批判であると思う。

 そもそも、演劇に「劇場」は必要だろうか。世界的に著名な演出家であるピーター・ブルックは著書『なにもない空間』で次のように述べる。

 

なにもない空間 (晶文選書)

なにもない空間 (晶文選書)

 

どこでもいい。なにもない空間ーーそれを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る。もうひとりの人間がそれを見つめるーー演劇行為が成り立つためにはこれだけで足りるはずだ。(7頁)

 ブルックが簡潔に述べているこの文章が、演劇の本質を表していると言えるだろう。演劇とは「見る者」と「見られる者」がいれば成立する。 つまり、演劇の本質とは自己と他者の相互行為にある*2。他方、ブルックは現代では演劇が誤解されていると指摘する。

ところがわたしたちがふつう言う演劇とは、必ずしもそういう意味ではない。真紅の緞帳、スポットライト、詩的な韻文、高笑い、暗闇、こういったものすべてが雑然とひとつの大ざっぱなイメージの中に折り重なり、ひとつの単語で万事まかなわれているのである。映画が演劇を殺す、などとわたしたちは言う。そのときわたしたちが思い描いているのは、実は映画の草創期のころの演劇、つまり切符売場やらロビーやらリクライニング・シートやらフットライトやら装置転換やら休憩やら音楽やら、そういったものによって現される演劇であって、まるで演劇とは本来こういうものにほかならないのだといわんばかりだ。(7頁)

 上のブルックの文章は1968年に発表されているため、現在読むと、やや古めかしかったり違和感もあるかもしれない。だが、言っていることは、いわゆる建築物としての「劇場」は演劇の付属物であって、演劇の本質ではないということである。すなわち、本質的な意味では演劇は(建築物としての)「劇場」は不可欠ではない。なぜならば、自己と他者の互いのまなざしの間に生まれる「劇場空間」こそが演劇に必要であるからだ。むしろ、「劇場」という制度から解放され、街頭や野外、テントなどによって形成される「劇場空間」の探究が、1960年代以降の現代演劇では行われてきた。その意味で、Nihonjinさんが提起している、建築物としての「劇場」を守ろうとする態度は、権力側につくことでしかないという指摘は一理ある。

 それでは、演劇が本質的には「劇場」を必要としないのであれば、演劇とその他の事象の境目はどこにあるのだろうか。自己と他者の相互行為の場は無限にある。たとえば、隣にいる人に鉛筆を借りることも、協力しあって掃除することも、誰かと料理をすることも相互行為である。そこに誰かが「劇場空間が成立している」と言ってしまえば、それが演劇になってしまう。演劇の概念が無限に広がり、「なんでもかんでも演劇」になってしまう。そうすると、演劇の概念は空虚で力を持たないものになる。

 たとえば、スポーツを観戦する観客と、スポーツ選手の間にも劇場空間は成立しうるだろう。甲子園球場で行われる阪神戦はまさしく演劇的である。応援団長の身振り手振りに合わせて、いっせいに観客は選手に向かって声を張り上げ、応援のメッセージを送る。また、ミスがあれば立ち上がって罵声を浴びせかける。それに応じて、選手は気分を盛り上げたり、プレッシャーに苦しんだりする。ここには「見る者」と「見られる者」の相互行為があり、劇場空間が立ち上がっており、演劇的行為が行われている。そういう意味ではスポーツには、演劇と重なる側面がある。

 だが、スポーツの本質はそこではないだろう。たとえば、阪神戦で無観客で試合をしたとする。そこにはいつもの興奮や盛り上がり、選手の緊張感もなく、試合の醍醐味にかけるかもしれない。しかしながら、その欠落感は、得られた試合の勝敗結果を損ねるものではないだろう。同様に陸上選手の競技会が無観客で行われて世界記録が出たとして、「これは観客がいなかったから、結果に意味はない」とはならない。やはり、記録は記録だろう。つまり、スポーツには演劇的な側面はあっても、本質は「見る者」と「見られる者」の相互行為ではないということである。

 ほかの例にしても、相互行為があったとしても、鉛筆を借りたつもりで、それが存在しない鉛筆であれば、「鉛筆を借りた」とは言えないだろう。だが、演劇ではそれがありえる。なにもない空間、小道具すらなにもない中で、架空の鉛筆をパントマイムで貸し借りする。それを観客が見ている。ここでは、実際に「鉛筆を借りる」ことは起きていないのに、「見る者」と「見られる者」の相互行為は存在する。掃除にしても、料理にしてもそうだ。相互行為はあっても、掃除も料理も実際には完了しない。なぜならそれは演技であって、実際に掃除も料理もしていないからである。にもかかわらず、観客は演技者が掃除や料理をしたところを「見た」。この「見る」だけ、「見られる」だけという生産性が全くないこの行為こそが、演劇の本質である。

 ここまで突き詰めて考えていくと、もはや建築物としての「劇場」など本質的な意味では演劇に必要ないということになる。では、新型コロナウイルスによって「劇場が閉じた」ことに問題はないのだろうか。これについて二点を書いておきたい。

(1)比喩としての「劇場が閉じた」こと 

 私はここまで究極的な意味で、演劇は「見る者」と「見られる者」の相互行為であると書いてきた。だが、この相互行為こそが、今回の新型コロナウイルスの影響で妨げられている。今回の感染症は、人間同士が会い、話すことで広がっていく。だから、感染症の蔓延を防ぐために、私たちは極力相手との接触を減らすようになる。これはまさに、相互行為を自粛するようになるということである。

 つまり、演劇は本質的な意味で撤退を余儀なくされている。単純に建築物としての「劇場」が閉じただけではない。「見る者」と「見られる者」が存在する場所、すなわち「劇場空間」が閉じられていく。現状では街頭、野外、テントにおける公演であっても、感染拡大防止のために自粛が要請されている。その意味では、建築物としての「劇場」だけではなく、あらゆる「劇場空間」が閉じられていったのである。

 おそらく演劇人は敏感にこのことを察知している。これまでも検閲や不況によって「劇場」が閉鎖されたことはたびたびある。また、既存の「劇場」に新しい表現が受け入れられないこともある。もちろん、それらも演劇人にとって由々しき問題ではあるが、「劇場がダメなら他の場所に飛び出そう」という発想はこれまでも繰り返し出てきた。たとえば、もともとの小劇場演劇は、既存の「劇場」では公演できない新しい創造の場を自分たちでつくろうとして始まっている。演劇人*3にとって弾圧や抑圧、既存の芸術との闘いは新しい表現を生み出す原動力になるはずである。

 ところが、新型コロナウイルスの演劇に対するインパクトは、場所を変えても「見る者」と「見られる者」の相互行為を行おうとする限り、自粛せざるを得ないということになる。他者に接触しようとすること自体が危険であるからだ。これは、従来の「劇場」の閉鎖という意味以上に大きな影響を与える。もっと言ってしまえば、演劇人としては、自分たちの武器の全てを取り上げられたような気分に陥るのではないか。

 もちろん、今回の新型コロナウイルスによる建築物としての「劇場」の閉鎖をきっかけに、オンラインでもさまざまな試みが生まれ始めている。この状況に陥ってからまだ数ヶ月であるため、革新的な新しい演劇の表現や劇場空間のありかたは見えてきていないが、世界中の「劇場」の閉鎖をきっかけに、こちらが想像もできないような作品が出てくるような可能性もある。そのとき「見る者」と「見られる者」の意味を問い直すような動きもあるかもしれない。

 ただ、今はまだその形は見えてきていない。だからこそ「劇場が閉じた」ということのショックは演劇人には大きいのだろうと推察はできる。

(2)実験室としての「劇場」

 さて、これまで本質的な意味で演劇には建築物としての「劇場」は必要ないと私は論じてきた。確かに本質を突き詰めていればそうではあるが、私は演劇には便宜的には「劇場」があったほうが良いと考えている。それは、「劇場」には社会における実験室としての意義があるからだ。

 建築物としての「劇場」は奇妙な場所である。お互いがこれからつくりごとの世界で、お芝居を擬似体験するという前提で、お金を払って中に入っていく。「これから舞台で起きることは間違いなく虚構ですよ」という確約がなされている*4。「劇場」では騙すものと騙されるものの共犯関係があるのである。その結果、得られるものは「安心」である。観客は安心してここで起きていることが虚構であると楽しむことができる。たとえ、舞台上で人が殺されても、慌てて救出にいく必要はない。なぜなら、これは虚構であるという暗黙の了解があるからだ。これに対する強烈な違和感を持ち、「演劇は嫌いだ」という人もいる。それはそうだろう。「劇場」は不自然で人工的に作られた場だからである。

 これは科学の実験室を想像してもらうとわかりやすい。実験室では極力、データに影響が出ないように、実験環境を整える。実際の世界で起きている自然現象にそのまま立ち向かうのではなく、人工的な空間で一定程度の結果を得ることを目的としている。中には「実験室のデータでは生身の人間や世界のことはわからない」という人もいる。それも一理あるが、科学実験であるからこそわかることもある。

 同じように「劇場」で行われていることは、社会と切り離され、実際に身の回りで起きている問題に直接的に関わっていくこととは異なる。だが、その密室の中で実験的に行われる虚構の中で、初めてなにかの「事実」に触れることがある。それが、前回の記事で書いた「生の実感」であるかもしれないし、ふだんは見ないようにしている自分の感情や人間関係の機微かもしれない。そこで得られる「なにか」は言葉にし難い、感性的な経験だろう。

 そうであっても、そうした「なにか」を得ようとする観劇体験は、やはり建築物としての「劇場」にいく人だけに与えられる特権的なものにとどまる。ここでいう「特権」とは、単純に経済的な格差だけではない。子どもの頃から演劇に触れる機会や、劇場にいく機会があったか。また、自分の必要なものが「劇場」で得られると思うことができるか。こうした目に見えにくいが確実にある人々の格差がある。そして、演劇人の側がその格差を打ち破るような仕掛けを作り、劇場をより開かれたものにしてきたか/これからしていこうと思うのか、は私にはわからない。

 繰り返しになるが、私は演劇を専門として研究しているわけでもなく、観客としても少し「劇場」から遠ざかっている。私は原理的には「劇場」は社会に「実験室」として存在意義があると考えているが、そうした実験としての演劇を志す演劇人がどれほどいるのかわからないし、少数派ではないかと感じている。なので、この記事も、一つ前の記事も、あくまでも演劇の理念について書いたものであって、実態にそぐわないかもしれない。ただ、このような文章が演劇について語りたいが、語る言葉がまだ足りないと感じている人の、何かの助けにはなるかもしれないとは思う。

*1:「演劇」と「労働」 https://font-da.hatenablog.jp/entry/2020/05/09/142954

*2:これについては、同様の指摘が次のブログにもある。nyakapoko「平田オリザのいう「演劇の意義」を解釈する(https://nyakapoko.github.io/post/10_engeki/

*3:野田や平田がそこに当てはまるかどうかはおいておいて、本質的な意味で

*4:そうではないこと標榜した演劇作品もあるが、ここは一般論としてそうしておく。