大門剛明「罪火」

罪火 (角川文庫)

罪火 (角川文庫)

 修復的司法をテーマにしたミステリー作品ということで、取り寄せて読んでみた。2009年に初版が出たようだが、この時点で大門さんがここまで調べているのは感服。矯正・保護センターを持つ刑事司法の専門家が多い龍谷大学の出身*1で、一貫して死刑や裁判員裁判をテーマにした作品を書いているようだ。「罪火」でも被害者運動や、被害者による死刑制度反対運動のいきさつなども少し出てきて、詳しい人は頷きながら読むのではないか。修復的司法については、日本で少ないながら実践例のある、少年事件でのVOM(被害者・加害者対話)のプログラムに焦点を当てている。
 VOMでは、被害者と加害者が対面してコミュニケーションをとることが目指される。「罪火」では繰り返し、修復的司法の推進者が「被害者のための修復的司法」を目指していることを強調される。VOMは加害者に自分の犯した罪に直面させ、再犯を防ぎ更生させるための強力な効果があると言われているが、被害者支援者からは「更生に被害者を利用している」という批判が根強い。他方、VOMは被害者が加害者に対面して、自分の苦しみを伝え真摯な謝罪を受けることで、回復が促進されるとされている。
 修復的司法は1970年代から西欧諸国を中心に広まっていき、今では刑事司法の重要な柱となっている。加害者を罰を与えるのではなく、罪を自覚させ更生させることに重きを置いた処遇の必要性が説かれている。オーストラリアでは大規模調査が行われ、刑事裁判によりも修復的司法のほうが、加害少年の再犯率は下がり、被害者の心の回復は促進されることが実証された。こうした修復的司法の推進には賛否両論があり、住居侵入や万引きなどの軽犯罪に比べ、深刻な犯罪である殺人事件の遺族や性犯罪の被害者にとっては負担が大きすぎるとして、日本でも導入反対の声は当事者・支援者から大きかった。しかしながら、当事者の中にも修復的司法推進を求める声もあり、運動内部での亀裂も起きている。
 大門さんはそうした制度や運動についての取材が綿密であり、網羅的に上のような流れを作品内でおさえている。修復的司法の実践者、受け入れる遺族、拒絶する遺族、推進する遺族、号泣する加害少年、更生しない加害者、更生したように見えるがしていない加害者などが登場し、一枚岩ではない様子を描こうとしている。その点で修復的司法について知るための一冊になると言えるかもしれない。
 だが、他方、肝心のストーリーを展開していく人物描写がちぐはぐで、上の取材がまったく活かされていない。主人公は30代男性で、過去に殺人事件を犯した加害少年、派遣会社で働くが鬱屈した暴力衝動を抑えきれず、13歳の少女を殺す。身勝手に自分を正当化しようとする主人公だが、思わぬ展開で安定した職を手に入れ、自分を愛してくれる女性が現れることで、自分の犯した罪の重さを自覚し苦しむ。筋書きとしてはきちんと線が引かれているのだが、描写がのっぺりしているので、前半の主人公の横暴さと後半の反省の情は定型にはまってしまい、読者に距離を持たせてしまう。最後にどんでん返しがあるのだが、あまりにも「びっくりさせてやろう」という意図が見え透いていて興ざめである。
 加害者を主人公にした場合、やはり読み手に「自分にもどこかにこうした暴力的なものが潜んでいる」もしくは「少しも共感できないが惹きつけられる魅力がある」点がないと、読んでいるほうは退屈してしまう。それを避けるために、取材した情報量で補っているように見えた。しかし、この作品は小説であって修復的司法のガイドブックではないので、中途半端になってしまったように思う。小説なのだから、制度や運動の説明を端折ってでも、もっと生身の人間の葛藤や苦しみを描いたほうがよかったのではないのか。
 逆に、この小説を修復的司法のガイドブックとするならば、納得のできない点もやはりいくつも出てくる。たとえば、修復的司法の推進者であり、VOMの進行役を務める女性は、被害者遺族に会うときに自分の子どもたちを連れて行く。そして、子どもたちは激昂して、被害者に自分の感情をぶつける。こうした遺族に負担をかけるような行為は慎むべきだし、そもそも訓練を受けていない子どもたちを連れていくべきはないだろう。また、VOMの場面でも、被害者が取り乱して叫んだり、加害者が泣き崩れて土下座をしたりする場面が肯定的に描かれる。しかし、こうしたドラマチックな展開は、本来は修復的司法では避けるべきだとされている。この作品には修復的司法についての誤解を広げるような面もあると思う。
 ここまで修復的司法に特化した作品が出ていることには驚いたし、綿密な取材に好感を持った一方で、小説としてはあまり面白くないというのが正直なところだ。「修復的司法」をテーマにしなくても、こうした加害者の自己正当化や赦しの問題ならドストエフスキーの「罪と罰」がもう決定版としてある。

罪と罰〈上〉 (岩波文庫)

罪と罰〈上〉 (岩波文庫)

私が修復的司法に興味を持つのは、関わる人の心に「自分も加害者のような悪を潜めた人間である」という点にある。「貧しい生活の中で金貸し老婆を殺すラスコーリニコフのどうしようもないところ」を、「人間みんなが持つどうしようもないところ」であると思わせる「罪と罰」には、修復的司法の核心と重なるところがあると思う。制度を取り上げることと、修復的司法それ自体に迫ろうとすることが、うまくかみ合わなかったのが。この「罪火」という作品であるというのが、私の感想だ。
 付記しておくが、私の点が辛くなったのは、この作品にはジェンダーの視点がまったくないのもあると思う。性犯罪被害にあった女性を「汚された」と表現しているだけでゲンナリしてしまう。その個所に被害者を「汚れた」と書く必然性はなかった。また、男性の登場人物に「修復的司法は女っぽい」と言わせたり、母親である登場人物に13歳の自分の娘に対して「女として見ていなかった」と言わせたりしている。現実の反映か何か知らないが、こうした無造作に書かれた言葉の一つ一つが、読む気をそいでいく。男尊女卑と言うよりは、性に対する鈍感さであり、この作者の人間心理に対する鈍感さのうちの一つの現れであると思う。