修復的「司法」なのか修復的「正義」なのか?

 先日の研究会で私の研究は、修復的「司法」なのか修復的「正義」なのかで紛糾してしまいました。もともとは、restorative justiceという単語なのですが、訳語に議論があり、かつては「恢復的正義」なんて語もありました。とりあえず訳語を避けて、ここでは広い意味でのrestorative justiceを「RJ」と略して使います。
 RJは1970年代より西欧先進国を中心に広まっていった概念です。ある時期から、それぞれの地域や共同体の中にある、近代刑事司法とは違うやり方で人間と人間のトラブルを解決する実践を、RJと総称するようになりました。
 RJには統一した定義はありません。人工的な概念で、私たちの生活の中から生まれてきた言葉というよりは、「新しい紛争解決の方法に注目していこう」という動きの中で広められた言葉です。よく言えば柔軟だし、悪く言えば空虚です。
 RJ概念が生まれてきた背景には、従来のjustice(司法・正義)への批判があります。近代の刑事司法制度は被害者を法の手続きから排除し、加害者を罰することで秩序を守ってきました。そうではなく、被害者と加害者の関係性に焦点を当て、被害の後、被害者が尊厳と補償を回復し、加害者が更生して社会に戻ることを目的とします。そしてコミュニティ(当事者の周囲の人たちや地域住民)がそれを助ける必要性を訴えます。
 さて、ここで日本語の訳語の問題が出てきます。justiceという言葉を「司法」または「正義」のどちらに訳すかという問題です。児童虐待被害者支援やであり、セラピストの森田ゆりも翻訳の際にこの訳語の問題に触れています。

責任と癒し―修復的正義の実践ガイド (LITTLE BOOK)

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 森田さんが指摘しているのは「司法」と訳してしまうことで、RJが「刑事司法」という枠組みの問題だと思われることです。RJは草の根の小さな団体で行われている、その人たちの独自のやり方を大事にします。その思想と「司法」という言葉はそぐわないところがあります。また、「正義」と訳してしまうと、大仰な話になってしまうのでこちらもそぐわないのです。
 私も大学院の修士論文は、上の森田さんが指摘する訳語の問題に触れ、RJと略語を用いて学位をとりました。訳語の問題を回避したと言えます。しかし、その後もずっとRJの話をしていますが、やはり研究者じゃない人に英略語で説明するのは抵抗があります。カタカナでリストラティブジャスティスという人もいますが、発音しやすい単語ではありません。私としては一番、字面が単純な「修復的司法」を用いています。
 ただ、そうすると今度は研究者の側から「なぜその訳語を採用したのか」という問いが出て、答えなければならなくなります。私は正直に「どちらでもいいですし、より広まっているほうを使います」というのですが、「言葉をもっと丁寧に扱うべきだ」と言われました。確かに、私は雑だしいい加減なところがあるので反論の余地はありません。しかし、雑なところを生かしてざっくりと日本語圏で修復的「司法」と修復的「正義」の何が違うのかをまとめてみます。
 修復的「司法」という言葉を使うときには、刑事司法制度の批判の意味合いが出てきます。なので、刑事司法批判の文脈でとらえられます。「性暴力における修復的司法の可能性」であれば、刑事司法制度の中での、被害者・加害者の取り扱いのどこが問題であり、どう対応しているのかが問われます。
 修復的「正義」という言葉を使うときには、近代的な「応報的正義」の批判の意味合いが出てきます。これは悪いことをしたら、処罰をして報復するという正義です。しかし、本当に正義を遂行するにはそれでいいのかという問いがRJの中では生まれてきます。悪いことをしたら、その行いを悔い、詫びて償いをし、二度と同じことを繰り返さないことが必要なのではないかという疑問です。また被害者も名誉を回復し、補償を受ける権利があるともRJでは考えます。なので「性暴力における修復的正義の可能性」であれば、被害者が補償を受けて名誉を回復し、加害者が二度と再犯しないようにすることが必要ではないかという問題になります。
 この「司法」と「正義」の枠組みを回避する言葉としては修復的「実践」(restorative practice)があります。これはヨーロッパで広まりつつある概念で、刑事司法制度や正義の問題にとどまらず、教育や福祉の現場で紛争防止・介入のプログラムとして広められる実践の総称です。
 さて、上に三つを並べてみましたが、どれも魅力ある言葉ではあります。私は自分がやっていることを、どの単語で語ってもかまわないと思います。しかし、自分の言葉で中核になっている関心を語ろうとしたときにはどれにも当てはまりません。だから、私は三つの概念のうち、どれかを選ぶことに熱心になれません。
 私がRJに出会ったのは、性暴力の被害者とどっぷりかかわっていたころでした。ものすごくひどい暴力のあとを生きようとしている人たちは、いろんなことを言います。憎んだり恨んだりすることもあれば、忘れたり赦したりすることもあります。それも固定的なものではなくて、会うたびに変わったりします。
 性暴力の支援の分野では法改正が必要だといわれます。私もそれには賛同する一方で、激しく揺れ動く被害者の気持ちを受け止めるには、裁判制度の枠だけでは無理だと考えました。「誰の言っているのが正しいか」という法廷で争うという方法ではどうにもならないことが多すぎると思ったのです。そのときに知ったのがRJのアイデアです。
 なので、私の中核にあるのは「暴力の後、被害者と加害者となった人たちは、お互いをどのように考え、どうやって生きていくことができるんだろうか」という問いです。そのときに、私のキーワードになっているのは「赦し」という言葉です。「赦すほうがいい」というわけではありません。「赦さない」とういうのも一つの「赦し」の在り方だと思っています。なので、言い換えると、私の中核にあるのは「人間にとって赦しとは何か」という問いです。
 私はこうした視点からRJを研究しています。三つの用語のうちからは選べませんし、ほかにいい訳語も思いつきません。なので暫定的に修復的司法という言葉を使っています。しかし、少なくとも私の研究はこれまでのRJを研究してきた人たちとは違う人々をひきつけるのではないかと思っています。
 人間は誰しも、誰かを憎んだり赦したりした経験があるでしょう。多くのRJのプログラムは「犯罪者」と「犯罪被害者」の問題を扱いますが、そこで起きていることを丁寧に見ていくと、毎日の生活の中で起きている私たちの日々の悩みとつながっていきます。それは「修復的実践」を広げて、「みんながもっと修復的な紛争解決を学んでいこう」というのとは、少し違います。激しい暴力の当事者の問題に触れることで、突然、胸に去来する「ああ、この人たちの苦しみはここにあるのか」「私の苦しみはこういったものだったのか」という思いとして現れると考えています。
 私はRJの団体を立ち上げて、実践をやっていくことはないと思います。もちろん、できる限り資料を紹介して「いま、こんなプログラムができている」という情報を広めたいという気持ちはあります。それとは別に、人のありようを描きたいという気持ちがあります。何の役に立つのかはわかりませんが、たぶん、物理的・経済的・精神的事情が許せばずっと続けるように思います。
 最後にもう一つ。やっぱりRJはみんな好きに使えばいい言葉だとも思っています。「司法」なのか「正義」なのか「実践」なのかは、大事な議論だとわかっていても、私はもっとゆるく気軽に使える単語であって欲しいです。もちろん、「修復的司法」という言葉も「わかりにくい」という批判があるので、もっとキャッチーなものがあれば私はいつでも乗り換えます。こういう態度が、「中核がぶれている」と昨日も批判されたのですが、「そうかなあ」と疑問です。私は雑だしいい加減だけれど、孤独にRJについて7年やってきたわけで、ぶれてたらとっくにやめてたでしょう、と本人は思います。