あけましておめでとうございます。

 昨年は、初めての単著『性暴力と修復的司法』を出版できました。メールやTwitterなどで反響をいただいて、ありがたい限りです。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 「性暴力と修復的司法」のテーマは、私が10年以上取り組んできた課題でした。日本語の資料がほとんどない中、苦手な英語を勉強し、暗中模索しながら独学で研究を続けてきました。また、2015年には、海外調査を行うことができ、欧州で性暴力における修復的司法を実践している人たちと交流ができ、大きく自分の研究が進むことになりました。
 このテーマについては、最初から最後まで、自分の気持ちに正直に研究を続けてきて、賛否両論が飛び交うフィールドをまっすぐに歩いてきたという思いがあります。愚直にやってきたことが形になって本当に嬉しいです。出版にあたってお力添えいただいた方々、そして読んでくださった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

 今後の研究ですが、「性暴力と修復的司法」の研究は続けながら、同時に「環境問題と修復的正義」のテーマへも視野を広げていきたいと思っています。「修復的司法」と「修復的正義」は英語のrestorative justiceの訳語で、同じ意味です。しかし、これまで私は「修復的司法」の実践例を元に研究をしてましたが、これからは「修復的正義」の正義の概念の研究にも取り組みたいと思っていることから、訳語の選択を変えています。
 私が痛感しているのは、「法の枠組み」による紛争解決は極めて限定的で、当事者の思いを汲み取るにはあまりにも狭い範囲しか扱えないということです。法廷では司法関係者が中心になって裁判が進行し、当事者は専門家のアドバイスのもと、法的に有利な証言をしていくことになります。こうした法廷の役割は、社会に対する秩序維持や、加害者の処罰、被害者への補償金支払いの命令などにおいて、非常に重要な意味を持ちます。法廷における正義は法体系を基づいており、平等で論理的で冷静であることが求められます。他方、当事者が複雑な思いを話したり、被害者が十全に苦しみを表現したり、「謝って欲しい」と訴えたりする場には、法廷はならないのが現状です。当事者の「あふれ出るような思い」は法廷では行き場がありません。
 私は法的な正義とはパラレルに、オルタナティブな正義があり、それが「修復的正義」として概念化できるのではないかと考えています。そのことによって、これまで、法廷外で行われてきた草の根の「正義を求める活動」や「対話の試み」を再検討していくことで「当事者が求めている正しさ」の輪郭を浮かび上がらせることができるのではないかという仮説を立てています。ただし、これはあくまでも私の直感的なアイデアであって、まだ確固とした枠組みがあるわけではありません。私は決して器用なタイプではないので、少しずつ自分の中の考えをまとめ上げていきたいと思っています。
 その中で、私が新しいフィールドとして足を踏み入れたのは環境問題です。きっかけは、水俣に通い始めたことで、問題とは偶然的に出会いました。最初は細々と資料を読んでいたのですが、研究として取り組むうちに、環境問題の持つ複雑さに引き込まれていきました。環境問題は特定の「集団」が被害を受けます。このとき、ステークホルダーはコミュニティの中に入り組んだ形で相互依存的に存在しています。これは一対一の被害加害関係が固定されやすい犯罪の問題とは様相が異なります。環境問題の場合は、それぞれが置かれている文脈によって、問題後の行動の意味が変わってくることがとても重要になってきます。こうした状況の中で「正しさとは何か」という問いが私の中で浮上してきました。
 これまで、すでに環境問題では、「環境正義」「エコロジカル正義」などが提起されていますし、それらと「ケアと正義」の議論の連関も指摘されています。私は、「修復的正義」の研究で、それらと競合したり、優劣を論じたりするつもりはありません。むしろ、そこから汲み出せる問題の系を整理していきたいと思っています。もちろん、環境問題のステークホルダーの関係の中であらわになる「ジェンダー構造」にも注目していくつもりです。
 そういうわけで、今年も研究を頑張っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。