性暴力被害者の告発をどう受け止めるのか?

 この記事は三部構成になっています。関心に即してお読みください。

(1)はあちゅうさんの性暴力の告発
(2)はあちゅうさんに対する批判
(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか

(1) はあちゅうさんの性暴力の告発

 いま、インターネット上で性暴力の告発が次々と行われている。きっかけは英語圏で始まった「#metoo」というタグである。過去に性暴力被害を受けていた人たちが、自分の経験を語り出した。日本でもTwitterを中心にして、性暴力の告発が続いている。
 その中で、作家のはあちゅう(伊藤春香)さんが、電通に勤務しているときに上司から苛烈なセクハラ・パワハラをされていたことを告発した。加害者は、はあちゅうさんを深夜に自宅に呼び出して「指導」の名目で繰り返し罵倒し、人格否定を行なった。また、はあちゅうさんの女性の友人を紹介させて性行為を行い、その友人を貶める発言をはあちゅうさんに聞かせた。この件については、友人を紹介したはあちゅうさんの責任を問う声もある。だが、加害者は「被害者が最も傷つく方法」を嗅ぎつけ、それを繰り返すものだ。はあちゅうさんにとって、「自分の友人を性的に傷つける」行為が、はあちゅうさん自身を深く傷つける方法であるとわかっているから、加害者はそうさせたのだろう。(はあちゅうさんはこの件について友人に報告し、謝罪している*1)告発は以下で詳細な記事となっている。(詳しい被害経験も書いてあるため、閲覧には注意が必要です)

はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」
https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.awPmYPQGQ#.wklKj6dgd

 はあちゅうさんはこの告発に際して「良き被害者」の像を拒むことを明言している。告発後の個人ブログで、はあちゅうさんは以下のように述べている。

被害者であるなら品行方正を貫き、常に被害者としてだけ生きろ、
という認識のある方がいるとしたら残念に思います。

こういった証言をしたからといって、
今後、公の場で被害者としてしか
振舞えないのもおかしな話です。

私自身もセクハラ被害を訴える活動には協力したいと
思っていますが、それを仕事としたいわけではありません。

今後の活動の方向性についても質問を受けましたが
これまで通りに日常を発信していきます。

セクハラ被害を告発するかどうか迷っている人が一番恐れるのは
平穏な日常が奪われてしまうことのように思います。

私は自分に起きたことを語りましたが、
人生を奪われたわけではありません。

逆に言うと、被害者として振舞うことを
世の中に強要されるのなら、
人生を奪われたと感じるかもしれません。

普段通り元気に活動している姿を見せることが
私の今後の役割だと思っています。

今後ともよろしくお願いします。

はあちゅうBuzzFeedの記事について」
https://lineblog.me/ha_chu/archives/67293039.html

 以上のように、はあちゅうさんは、性暴力の告発後に「被害者としてだけ生きることを望まない」ことを強調している。これは、とても大事な点だ。
 性暴力の告発は「被害を語ること」だけでは終わらない。告発後に、当事者は周囲からの「被害者への視線」を浴び続ける。ときには、当事者のあらゆる発言が、性暴力と結び付けられる。たとえばそれは、「あの人は被害者だからあんなことを言うんだ」「あの人は傷ついているからそんなことを言うんだ」という邪推の言葉として現れるし、「あの人は被害者のくせに」「あの人だって加害者になってるじゃないか」という言葉に現れる。実際には、当事者にとって、性暴力は人生の一部ではあるが全てではない。当事者のすべての振る舞いや価値観が性暴力によって形作られたわけでもない。ところが、周囲の視線や言葉によって、当事者は「性暴力の経験」に縛り付けられることがある。これは性暴力を告発する際に、当事者に圧しかかる重荷である。
 はあちゅうさんはその重荷について、はっきりと「NO」の言葉を発している。この言葉を、私たち第三者は重く受け止めるべきだろう。そして、私はこの言葉は、次に告発する当事者へのメッセージにもなっていると思う。被害を告発した後も、いつも通り、明るく楽しく性的なジョークを飛ばし、微笑んでいる写真を出して、ポジティブシンキングな文章を書く作家として発信すること。至らない部分があることを隠さず、時にははしゃいで、羽目をはずすこと。ネットで炎上してしまうこと。いいことも悪いことも含めて、はあちゅうさんは「被害者」でありながら、「いつもの私」として生きていくのだろう。被害を経験したあと、当事者はどんなふうに生きることもできる。何かを諦める必要はない。そのことを、はあちゅうさんは身をもって実現することは、きっと同じ被害を受けた人たちへの希望になるだろう。
 誰もが性暴力の被害を受けることがある。特別な存在だから被害を受けるわけではない。被害を受けたから特別な存在になるわけでもない。性暴力のトラウマがある人も、性的なジョークを楽しむことがある。私は性暴力被害者の支援に関わっていて、どぎついジョークを言う当事者になんども出会った。自分の経験をジョークにする被害者もいる。性的に傷ついているからと言って、いつもみんなが泣いているわけではない。自分の苦しい経験を笑い飛ばすことで前を向こうとする当事者もいれば、単純にジョークが好きな当事者もいる。もちろん、ジョークを言う余裕もなく、笑えなくてじっと耐えている当事者もいる。その違いはトラウマの深さではない。いろんな人が被害にあうので、反応も人それぞれだというだけのことだ。そんなことはあまり知られていない。なぜなら、メディアに出てくる被害者は、いつも泣いていて痛ましい姿だけだからだ。もしくは毅然として告発する姿だけだから。その被害者の姿は「同情」や「賞賛」によって消費される。私はその「良き被害者」の像に抵抗することを支持する。

(2)はあちゅうさんへの批判

 告発に対してははあちゅうさんを支持する声が高まったが、一筋縄ではいかなかった。一つ目の理由は、はあちゅうさんがネット上ではよく知られた作家であり、もともと彼女に批判的な人が多かったことである。その人たちは「はあちゅうは嫌いだが、今回は支持する」という言及を、はあちゅうさんの告発に対して行なっている。二つ目の理由は、はあちゅうさんが、告発直後に「童貞」をネタにした性的なジョークを繰り返し発言したためだ。これは、童貞である男性へのセクハラであるという批判が起きた。
 はあちゅうさんは、後者の批判に対しては謝罪を出している。

はあちゅう「過去の「童貞」に関する発言についてのお詫び」
https://note.mu/ha_chu/n/n9f000c7bb226

 性的なジョークが難しいのは、それが期せずして相手を傷つけてしまうことがあることだ。そのとき「悪気はなかった」という言葉は免罪にならない。これは性暴力の被害者であってもなくても、同じことだろう。そのため、はあちゅうさんが謝罪したことは私も支持する。自分が「童貞である」ことに深い傷つきを抱えた人がいることは、私も知っている。だから、性的ジョークとして童貞をネタにしたことに反発する人が出るのもわかる。
 ただし、その性的ジョークへの批判が、「はあちゅうさんの性暴力の告発」をなかったことにする方向に進まないよう、気をつけなければならない。先に述べたように、性暴力の告発の重荷は、告発の後にのしかかってくる。その状況で、何をどう批判するのかという判断が、周囲の第三者には問われる。この点については、以下のブログ記事で丁寧に論じられている。

「セクハラの構造問題が議論されるべきなのに、被害者同士の殴り合いで発散していく地獄」
https://note.mu/fladdict/n/n666b0d9aaa4f

 上で書かれているように、童貞であることに深く傷ついてきた人たちが、はあちゅうさんに反発して怒りをぶつけたことに対しては、第三者は言えることはないだろ。その人にとって、大事な問題を第三者が「黙っていろ」と言うことはできない。しかし、この童貞の問題について「当事者以外もはあちゅうさんへ怒りをぶつけている部分があるのではないか」というのが上の記事の要点である。
 このことについては、これまでの性暴力の告発において、「当事者の一緒に怒ることが良いことだ」とされてきたことの功罪思う。私は一貫して第三者が怒りをぶつけることに反対している。はあちゅうさんの被害に対して、加害者に怒りを向ける必要もないと思うし、童貞のジョークに対して、はあちゅうさんに怒りを向ける必要もないと思う。重要なのは第三者の怒りではなく、「セクハラの構造」を明かしていくことである。
 その上で、ヨッピーさんの記事にも言及したい。ヨッピーさんは、インターネット上で活躍しているライターである。そして、Twitter上で、ヨッピーさんがはあちゅうさんの告発を後押しし、現在も連絡をとっていることを自ら明かしている。そして、以下のように書いた。

「〇〇は嫌いだけど、とかイチイチ言わなくていい。」
http://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2017/12/19/124547

 この記事でヨッピーさんは、かなり激しい言葉で「今回の件みたいに、業務上の権力者が目下のものに対して日常的かつ執拗に行った逃れづらいハラスメントと、ネット上の発言によって不特定多数を傷つけることが同質のものではないことなんてみんな最初からわかっている癖に、「これもセクハラだ!同じだ!」って結局一緒くたにして叩いてる人いっぱいいるじゃないですか」と書いている。これは、「はあちゅうさんが受けた性暴力の被害」と「はあちゅうさんの童貞のジョーク」を等価だとみなして、相殺することへの批判である。
 ヨッピーさんは、はあちゅうさんから童貞のジョークに対する謝罪が出た後も、あくまでも「僕の1個人の意見です」と断った上で、以下のように書いている。

「あいつも同じ穴のムジナ」みたいな事言う人は本当にそれを今回の件と同質に並べて良い事柄だと思ってるんですかね。もちろん童貞を茶化すような発言で本当に傷ついてる人が居ることは理解するしそういう風潮が是正されるべきものであることは間違いないわけですが、それでも大多数の人が「嫌いだ」って言いたいがためにその件を持ち出してるように見えるんです。本当にそうじゃないって言いきれますか?

 このヨッピーさんの疑念について、インターネット上の多くの人は同意しないが、私は同意している。それは、単純に私がヨッピーさんを、単なる第三者ではなく、より被害者に近い「支援者」だとみなしているからだ。その立場の発言であれば、理解できる。
 ヨッピーさんはこれまで支援者と名乗ったことはないし、そのようなカテゴリにこちらが当てはめることは暴力的なことであり、本人には不本意かもしれない。けれど、もしかするとヨッピーさんの発言を、性暴力の「支援者」としての枠組みで捉えた時、見え方ががらりと変わるかもしれない。そのため、以下では一般論としての性暴力の「被害者」と「支援者」の話を書きたいと思う。
 あくまでも以下は一般論であり、これまで言及してきたはあちゅうさんの性暴力の告発とは、異なる面もあるだろう。私はかれらのことを、以下の論によって解釈するつもりもないし、説明するつもりもない。当人の言ったことや書いたものが全てである。他方、そうした発言や記事を受け止めるために、聞く側が共有した方が良い知識もあるように思う。それを念頭に置いて、読み進めて欲しい。

(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか

 それでは、性暴力の被害者と支援者がどのような状況に置かれるのかについて、宮地尚子「環状島=トラウマの地政学」を参照して考えてみたい。

環状島=トラウマの地政学

環状島=トラウマの地政学

 宮地さんは、性暴力に限らず、当事者と支援者が置かれた状況について、「環状島」の地形にたとえて説明している。環状島とはこんな島のことだ。(図は【宮地, p.7.】)

 環状島はドーナツ上になっている島のことである。島の中心部に内海を持ち、そこからすり鉢上に斜面になっており、山に囲まれている。その山の尾根を越えると、今度は外海に向けて斜面が続いている。宮地はこの環状島の図を用いて、当事者と支援者の置かれた位置を次のように示す。(図は【宮地, p.10】)

 これは環状島の断面図である。中心の内海の最も深部は「ゼロ地点」だとされている。ここは、言うなれば爆心地である。厳しい衝撃で粉々に吹き飛ばされ、死の証拠すら残らなかった当事者のいる場所である。そして、この内海には亡くなった当事者たちが沈んでいる。当事者は、その内海から這い上がり、島の外に出て行こうと向かうのが、内斜面だ。この斜面を登って当事者は外の世界に出ようとしている。尾根を越えた向こうの斜面にいるのが支援者だ。支援者は外側からこの斜面を登って、尾根の内側にいる当事者を助けようとする。外斜面をおりてしまった場所に広がる外海が非当事者の世界である。
 こうした環状島のモデルを使ってイメージすると、被害者が性暴力を告発するというのは、島の内海から内斜面を登り、尾根から外海に向かって発信することである。また、支援者は外斜面を登り、尾根までたどり着いて被害者を助けることになる。そして、宮地さんは、この尾根にいる当事者と支援者は、内海への〈重力〉に引きずられ、尾根を吹きすさぶ〈風〉に晒されるという。
 宮地さんのいう重力とは、主にトラウマの症状を指している。厳しい経験を語ろうとすればするほど、当時の痛みや苦しみが想起され、内海へ引っ張られる。被害者は必死の思いで内斜面を登ってきたのだが、重力はその被害者を内海へ引き摺り下ろそうとする。その中で、被害者は重力に耐え、踏ん張って尾根にとどまらなければ、性暴力を告発できないのである。
 同時に支援者も尾根にたどり着くと、そのまま内海まで引き摺り込んでくる重力に襲われる。性暴力の被害の詳細を聞き、深く受け止めて共感的になることで、支援者自身がトラウマを負うことがある(これは代理受傷と呼ばれている)。そのまま重力に負けてしまえば、内斜面をずるずると滑り落ちて、支援者も内海に飲み込まれてしまう。だから、尾根で告発する被害者を助ける支援者もまた、危険な状態に陥りやすい。
 次に宮地さんは〈風〉について以下のように説明している。

(前略)〈風〉とは、トラウマを受けた人と周囲の間でまきおこる対人関係の混乱や葛藤などの力動のことである。環状島の上空にはいつも強い〈風〉が吹き荒れている。内向きの〈風〉と外向きの〈風〉が吹き乱れ合い、〈内斜面〉も〈外斜面〉も同じ場所に留まりつづけるのはたやすくない。【宮地, p.28】

 登山の経験者であれば、尾根に吹きすさぶ風の激しさはよく知っていることだろう。内向きの風に晒される被害者は、尾根から吹き飛ばされて内斜面から転がり落ちそうになる。この風は、あるときは内海に近いほかの被害者の呻き声であったりする。「助けて」という声を振り切って、被害者は自分だけが尾根を越えようとする。そのことに対する罪悪感が被害者を襲ってくる。あるときは、内斜面の上から内海にいるほかの被害者に対して優越感をえるかもしれない。逆に、自分より尾根に近づいているほかの被害者に羨望の眼差しを向けるかもしれない。もしくは、同じ尾根に立っているのに、ほかの被害者の方が支援が集まり、注目を得ていることに失望するかもしれない。こうした風に耐えながら、被害者は必死に尾根に立ち、自らの性暴力の経験を語る。いつ転がり落ちてもおかしくない場所に立っているのである。
 他方、外斜面にいる支援者は、被害者を助けようと尾根近くまで必死に手を伸ばす。しかし、被害者の側はこれまで繰り返し、裏切られてきた思いがあるため、簡単にその手を取らない。支援者は、危険を冒して尾根の内側まで来ることを被害者から請われ、「どうせここまでは来られないだろう」となじられたりする。被害者は、確実に支援者が信頼できるかどうかを確認するために、尾根で支援者を試すこともある。この風が吹き荒れる尾根の上で、支援者もまた転がり落ちないように踏ん張っている。そのことにより、支援者は疲弊し、下山したくなっていく。また、よりどちらがより内斜面に近づけるのかという、支援者同士の競争もある。さらには外海の非当事者からも風が吹いていくる。「被害者を利用している」「支援者こそが状況を悪化させている」などの批判が、支援者に浴びせられる。ここで繰り返されるのは「偽善者非難」である。こうして支援者もまた、いつ転がり落ちてもおかしくない場所で、被害者の告発を支えることになるのである。
 私が性暴力の告発に際して念頭にあるのは、こうした被害者と支援者の状況である。だから、私は性暴力被害者に向かって、「告発した方が良い」ということはない。尾根では、重力と風に耐えることに疲れてしまった被害者を何人も見た。そのときに、被害者を置いて、自分だけ外斜面を降りていった支援者も見た。その被害者と支援者の間に何があったのかほとんどわからない。私も尾根にいるときは自分が立ち続けるだけで精一杯だった。私が被害者を置いて外斜面を降りていく後ろ姿を見た人もいるかもしれない。
 私は「尾根に立て」とは言えない。自分が尾根に向かったことがあるとしても、やはり言えない。尾根での経験こそが、深いトラウマになることもある。そして、残念なことに「尾根に向かったこと」の責任は、被害者と支援者にあるとされる。自己責任の登山なのだ。「十分な準備をしていたのか」「装備が甘かったのではないか」「天候を読み間違えたんじゃないか」「あの人は無事に登頂できたじゃないか」と外海からいろんな声が聞こえてくる。その状況を見て、尾根に登ろうとする人は足がすくむ。そのことを誰が責められるだろうか。誰も尾根に向かわなくなったとして、それは被害者と支援者が悪いのだろうか。
 それなのに、なぜ尾根に向かう被害者がいるのか。私はそれは、「あの尾根を越えてみせる」ことで、新しい世界を切り拓く力が被害者にはあるからだと思っている。尾根を越えようとする被害者は、内海や内斜面にいる被害者に背を向けなければならない。でも、ほかの被害者たちは、尾根に向かう被害者を見ている。あの向こうの世界に到達できるかどうかを、かたずをのんで見守っている。もしかすると、尾根を越えることによって、次の被害者も尾根を越えようとするかもしれない。また、尾根を越えられなかった被害者を見て、そのあとを引き継いで尾根を越えようとする被害者もいるかもしれない。尾根から内斜面を滑り落ちる被害者を受け止めようとする被害者もいるかもしれない。
 同時に、尾根に向かう支援者の後ろ姿を外海から見ている非当事者もいるだろう。支援者は非当事者の住む世界から遠く離れて尾根に向かう。そして、被害者の手を取ってこちら側の世界に迎え入れようとしている。その後ろ姿をかたずをのんで見守っている非当事者がいる。その非当事者も、また尾根に向かうのかもしれない。または、尾根から戻ってきた支援者や被害者を受け入れようとする非当事者もいるかもしれない。
 こうした尾根に立つ、被害者や支援者を見ている人たちがいることは、わかりやすい「社会を変える」ような行動にはならないかもしれない。なぜなら、黙って見ている人たちは、なかなか可視化されないからだ。それでも、こういう人たちの心を動かすことが、性暴力の告発の意義だと私は思っている。政策や法律を変えたり、裁判に勝ったり、わかりやすい変化を起こすことだけが告発の意義ではない。静かに人の心に、性暴力の問題を考える出発点を与えるような、告発の意義もある。
 以上のように、メタファーを多用して、一般論としての性暴力の被害者と支援者の置かれる状況について書いてきた。これはあくまでもモデルであって、具体的な被害者や支援者の関係に当てはめるようなものではない。その人の経験を、第三者が説明したり解釈したりすることは私の本意ではない。ただ、告発をした被害者、そして支援者が過酷な状況に置かれることはもう少し知られてもいいと思う。告発するというのは、簡単ではないし、二次加害の有無だけではなく、何重にも折り重なった複雑な問題なのである。