日大アメフト部悪質タックル事件について
2018年5月に起きた日大アメフト部悪質タックル事件について、警視庁が前監督と元コーチの嫌疑はないものと判断した。
警視庁「選手が前監督らの指導を誤認」日大悪質タックル
この件について、江川紹子さんが丁寧な解説記事を書いている。
悪質タックル「嫌疑なし」は「理不尽」にあらず
しかしながら、江川さんは警察が客観証拠を見つけられなかったとしても、証人の証言が嘘だったとは言えないと補足する。日大側がこの事件について調査した第三者委員会の最終報告書も、「第三者委員会報告書格付け委員会」は低評価をつけている。そのため、第三者委員会の調査は不足している可能性がある。他方、江川さんは、その調査の補足は警察がするものではないとこの記事の中で指摘している。
その上で江川さんは、「この事件は警察で捜査すべきであったのか」という点についても疑問を呈している。江川さんは以下のように書く。
そもそも、今回のケースは、本来、警察に持ち込むのがふさわしい事案だったのかも疑問だ。
被害者サイドが警察に被害届を提出したのは、日大の対応に対する不信感からだった。日大側の初期対応がもっと違っていれば、刑事事件として扱われることもなかったのではないか。日大の危機管理のまずさとメディアの異様なまでの盛り上がりが、事態を必要以上に大きくしたように思う。
以上のように、江川さんのこの記事の焦点は「刑事罰を問うことの是非」に当てられている。江川さんは、刑事罰だけが当事者の責任追及になるわけではないとし、両人は「2人は指導者としての責任を問われ、その職を解かれたばかりか、関東学連から「永久追放」に当たる除名処分を受けている(同上記事)」ことをもって、社会的な制裁を受けていることを強調している。ここまでが江川さんの記事の主張である。
江川さんの記事を読む限り、私もこの警察の判断は妥当であると考える。国家権力の抑制の点から、警察権力の拡大は極力避けなければならない。また、冤罪を防ぐためにも警察の客観証拠の重視は不可欠である。さらに、マスメディアの報道やネットの言論は、処罰感情を煽るものも多かった。
この事件は、スポーツの中での暴力の問題、スポーツチームの指導者の問題、大学組織の問題等が絡み合っている。それもあり、人びとの関心を集めたが、必ずしも刑事司法による解決が「最善策」だとは言えないだろう。なぜなら、刑事司法はあくまでも「個人」の責任を追及し、処罰を行うことを目的としているからである。他方、この事件の問題は組織内の「人間関係」が鍵を握っている。すなわち、コミュニティの問題なのである。
しかしながら、この事件が警察が「嫌疑なし」と判断したとしても、すべて解決したとは思えない人が多いのではないだろうか。江川さんは両人が社会的制裁を受けていることを強調しているが、被害者への謝罪・補償が十分だと考える状況には見えにくい。また、両人が日大アメフト部に関わることがなくなったとしても、残された部員が背負っていくものは小さくない。まだ事件は終わっていない。
こうした状況は、この事件に限ったものではない。多くのコミュニティで起きる事件(いじめ、ハラスメント、暴力事件等)は、刑事司法での解決は難しい。たとえば、学校でのいじめを刑事罰の対象にしようとする主張も、インターネットではよく見かける。しかしながら、多くの場合は客観証拠を集めることが難しい。刑事罰の対象にならないことは、その事件が小さいことを意味しない。多くの人びとを傷つける深刻な事件であっても、刑事司法の介入が難しいことはよくあるのである。
こうした場合に、ひとつの選択肢としてあげられるのが、修復的司法(restorative justice)だろう。修復的司法は1970年代から欧米諸国を中心に広まった紛争解決のアプローチである。修復的司法の特徴は、コミュニティの人間関係を中心に扱うことである。「罰を与える」ことが目的ではなく、加害者が被害者に対して心からの謝罪と補償を行い、その事件に関わった人たちが共同でどのように対処していくのかを話し合う。
修復的司法でよく誤解されるのは、従来の生徒指導のように、教師が生徒のトラブルに対し、加害者に「謝りなさい」と命じ、被害者がそれをゆるすことを強いられるのではないか、ということだ。しかしながら、実際の修復的司法では、訓練を受けた調停役(ファシリテーター)が十分に当事者の聞き取りを行い、再び暴力が起きないように安全を守る。その上で、調停役は話し合いにできるだけ介入しないようにしながら立会い、どのような結末になるのかを見守る。これまで修復的司法は実証研究が多数行われており、調停役が丁寧にコーディネートすれば、被害者の満足度の高い実践になることがわかっている。
修復的司法は、刑事罰の対象にならない事件も扱うことができる。また、事件が起きた後の人間関係について、当事者で話し合うこともできる。コミュニティ内で事件が起きた場合、自分たちでは人間関係を整理することができなくなっていることが多い。お互いの疑心暗鬼、長年にわたる恨み、組織外に話せない秘密の山積等が重なっているのである。そこに外部の調停役(ファシリテーター)が入ることで、人間関係が変わることがある。その結果としてコミュニティの解体、離縁が起きることもある。それもまた、修復的司法の結果の一つである。要するに、凝り固まった関係を解きほぐし、別の関係に変えることが修復的司法の目的なのである。
修復的司法については、私は以下の書籍で詳しく述べた。本書は性暴力の事例を中心に扱っているが、前半は修復的司法一般についても紹介している。具体的にどのような実践があるのかも、紹介している。もちろん、修復的司法は当事者が望んだ場合にのみ実施されるため、「この事件には修復的司法を適用すべきだ」とは言えない。しかしながら、コミュニティで起きる事件に対し、このような選択肢が用意されることは、より多くの人たちの問題解決につながるように思う。