小池靖「被害者クレイムとスピリチュアリティ」

 修復的司法とセラピー、スピリチュアリティについて言及している論考が、櫻井義英編『カルトとスピリチュアリティ 現代日本における『救い』と『癒し』のゆくえ」という本に含まれていたので読んだ。

私は小池さんと似た領域に関心を持っているので、興味深く読んだ。右からものごとを見るか、左から見るかでこんなにも描き出す風景は違うものかと思った。
小池さんの描く現代*1の状況は次のように要約できる。(要約したのは私)

現代は人々が自らを被害者化し、他者や社会から傷つけられた弱い自分を癒し、セラピーによって「真正な自己」を見出すことに高い価値を置いている。そのため、被害者であることは特権的地位を持ち、声高に権利を主張できる。犯罪被害者の権利獲得運動から、修復的司法の導入、加害者のセラピーにいたるまで、運動の中心に被害者を置こうとすることに、現代の特色がある。

 以上の風景を、私の視点から描き直すと次のようになるだろう。

現代は当事者の言説が台頭してきており、支援者や研究者に対し対抗的な運動が繰り広げられるようになってきた。欠陥のある(とみなされた)自分たちを社会に適応させるのではなく、差別のある社会を変革し必要な支援制度を確立することが必要だと訴えた。犯罪被害者の権利獲得運動から、修復的司法の導入、加害者のセラピーにいたるまで、運動の中心に「同化したよりよき市民」ではなく、「不当な立場に置かれた当事者」を置くことに現代の特色がある。

 小池さんがこの論考で「被害者化して主張する」と描き出そうとする一連のできごとは、私にとっては「当事者が自らの言葉を取り戻す」という姿である。ものは言いようだと思った文章だった。
 さて、小池さんは次のように書いている。

 トラウマなどの心の病をめぐるセラピー文化では、しばしば被害を受けた当事者が、閉じた空間のなかでトラウマ説を再生産している。そうした当事者たちは、トラウマの原因となった親や社会に対して批判的になるだけではなく、当事者のみの安全な語りを侵害するものを非常に忌避する傾向がある。
 一九九〇年代後半に、日本のある大学の社会調査実習において、多数の自助グループを調査したところ、いくつかの自助グループからは、正式に抗議を受け、それ以降、その実習の調査報告書を配布する際は、そのグループからの抗議文書を添付しなければならなくなった。その抗議文書によれば、彼ら/彼女らは、連絡や許可もなく報告書に取り上げられ、また、ある障害に関して事実に反する憶測の多い記事を書かれ、報告書の形で公開されたと主張した。
 昨今の自助グループ自体、被害者的な自己像に親和性が高いが、そうした集団が外部社会と接触する際には、さらなる被害クレイムの表出を見いだすことができる。当事者の持つさまざまな障害がセラピー的な知識によって被害者化されると、病の受け取り方も、自罰的な姿勢ではなく、時に他罰的な態度になりかねない。
 近年の当事者による運動には、「あなたは当事者の味方なのか敵なのか」といわんばかりの二元論がしばしば見られ、当事者以外は口だしすべきでないというトーンにあふれている。自助グループという閉じた空間を侵害する者は、現在の当事者運動では激しく批判される可能性があるのだ。
(229ページ)

 上の文章を私が書くと次のようになる。

 トラウマを負った当事者による自助グループでは、お互いの発言を否定しないことを前提に、自分の過去に経験した苦しい暴力や災害、事故、病気などが語ることになる。そこでは、家族や社会への批判、ときには復讐心の発露や攻撃的な発言も含まれる。自助グループの参加者は、当事者だけが集まる閉じた空間になって初めてこのような発言を口にできた、と感じることが多い。
 一九九〇年代以降、社会学を中心に自助グループの研究が行われ始めたが、二次加害が相次いだ。研究者は、第三者であるにもかかわらず、調査の名目で自助グループに参加し、資料を収集・分析して発表することになった。多くの自助グループは、自分たちの安全な場が脅かされたことに驚き、強く抗議し発表の中止を求めた。しかしながら、調査における研究倫理の確立が遅れており、配慮を欠き不誠実な対応をした研究者も数多くいた。今も「研究者お断り」の自助グループは少なくない。
 本来は閉じた空間で自分たちの経験を分かり合う小さな場であるところに侵入してくる研究者は、簡単に共同体を壊してしまう。そのため、当事者は緊張を強いられ、過度なほどに研究者を警戒し、強い言葉で主張することになってしまう。当事者は研究者と闘わなくてはならなくなる。
 その結果、当事者による運動は「あなたは当事者の味方なのか敵なのか」と問いただす姿勢が顕著になり、当事者以外は口出しすべきではないというトーンを打ち出すことになった。自助グループと言う閉じた空間を侵害する者は、現在の当事者運動では激しく批判される可能性があるのだ。

 以上のようになる。どう書くのか、というのはその人の視点がどこにあるのかで決まるし、政治的態度の表明でもある。
 そもそも、自助グループは研究に協力する義務はなく、勝手にやってきてあれこれ言いたがる研究者という存在は(自分も含めて)疎まれて当然だろう。研究というのは、必ずしも、調査に協力した当事者に利益をもたらすと確約できない。検討した結果、当事者に不利益があるとわかっても、発表することはある。だから、当事者には調査協力を断る理由が十二分にある。
 それにしても、上に引用した部分の「連絡や許可もなく報告書に取り上げられ、また、ある障害に関して事実に反する憶測の多い記事を書かれ、報告書の形で公開された」というのは真偽は検討されていないが、本当ならひどい倫理違反だと思う。*2「弱い自己」が云々とされているが、調査対象にされたインフォーマントは、研究者より圧倒的に立場が弱い。そんなことはいまさら言うまでもないが。
 実際に(社会的立場として)弱いことを「私は弱い」と表現すると「弱い自己の表明」だとしたり、被害に遭ったことを「私は被害者です」と表現すると「被害者化」だとしたりすることに、どんないいことがあるのか、私はいまだよくわからないが。差別をなくしたり、暴力をなくしたりすると、そんな必要もなくなるので、反差別・反暴力は大事だという話ではないのか。

*1:ここでいう「現代」とは1960年代以降から現在あたりを指す

*2:私自身、個人的にはいくつもの研究者による倫理違反を聞いています