大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法
すっかりインターネットでもフェミニズムがお馴染みになり、「いったいフェミニズムとはなんなのか?」「どうやって勉強すればいいのか?」と聞かれることが増えた。「フェミニストがちゃんと説明しろ」という声もある。そんななかで、大学でジェンダー学*1に触れたが、絶望したという経験を書いている人がいる。
八谷さんは女子大に進学し、ジェンダー学の授業を履修したが、以下のような経験をしたという。
先生は異常な厳しさで私たちを制圧した。誰も意見できなかった。そして「今までのあなたたちの価値観は間違っている」と男女観をぶち壊しにかかった。授業内容は安定の「男は加害者・女は被害者」というものだった。
そして次のような心境に至った。
私はどんどんミサンドリーに苦しめられた。なんの理由もなく男性嫌いになり、憎しみに二十四時間つきまとわれた。楽しいこともあったけど、常に心に憎悪があった。精神状態は良くなかった。
以上のように八谷さんはジェンダー学の授業に傷つき、ジェンダー学を恨んでいると言う。これは大変つらい経験だと思う。私は、本来ならばジェンダーについて学ぶことは、新しい性のあり方や価値観に出会い、もっと広い生き方の可能性に気づくことにつながると考えている。ジェンダーに関する授業は、自分の中の「性に関すること」を見つめる時間であって欲しい。だけれど、八谷さんにとってのジェンダー学の授業は逆の、性について苦しみ、生きることがつらくなってしまう経験になっている。
八谷さんの授業で、具体的に何があったのかは書かれていないので、なぜこんなことが起きたのか私にはわからない*2。また、私は大学の学部*3でジェンダー学の授業を受けたことも、担当したこともない。そういうわけで、私は大学のジェンダー学については、実体験に欠けるところがあるし、そもそもジェンダー学が専門でもない*4。
同時に、私も大学で教壇に立つことがあるが、授業で「フェミニズムを学ぶ」ことは非常に困難だということを強く感じる。第一に、教員と学生の間には権力関係があり、「平場で学ぶ(対等な関係を志向する)」ようなフェミニズムの実践はほぼ不可能であることだ。どんなに配慮をしようとも、「教えるー教えられる」関係である限り、フェミニズムの生き生きとした力は立ち上がってこないと、私は思う。第二に、八谷さんの場合もそうだったように、学生はジェンダーについて学ぶことを強要されることだ。これは仕方のないことでもある。社会の中にあるジェンダー構造について学ぶことは、今後の大学生の教養教育で(世界中で)必須とされていくだろう。しかしながら、フェミニズムを支える性の問題に取り組む情熱は、他人から強要された授業では出てくることが難しい。もちろん、今後もこの二点の問題はありながらも、「どうすればジェンダーの授業を魅力的に活力あるものにできるのか」ということを、大学教員は知恵を絞って考えていくことだろう。それでも、私は大学で「フェミニズムを学ぶ」ことはとても難しいという気持ちは今もある*5。
他方、私は大学ではない場所でジェンダーについて学び始め、フェミニストになった。そこで、「大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法」を紹介しようと思う。
まず初めに「正しいフェミニズムの学び方」はない。「この本を読めばフェミニズムがわかる」「あの先生の授業を聞けばフェミニズムがわかる」ということはない。また、「あなたは正統なフェミニズムを知らない」というのもナンセンスだ。フェミニズムは一人一派と呼ばれ、それぞれが「私のフェミニズム」を語ることで成り立っている。それがどんなに間違っていると他人に言われても、「私のフェミニズム」は誰にも否定されるものではない*6。それが大前提だということはおさえておきたい。
その上で今回は(1)「本を読むこと/話を聞くこと」(2)「グループを作ること」(3)「社会活動に関わること」の三つの方法を紹介したい。
(1)本を読むこと/話を聞くこと
一番手軽で簡単なのは、フェミニズムの本を読むことである。近所に図書館や本屋さんがあれば、そこで「ジェンダー」「女性」などの棚を眺めてみよう。役所に男女共同参画かがあれば、そこの資料室を覗いてみてもよい。背表紙のタイトルを見て気になったものがあれば手に取ってみて、パラパラと読んでみよう。面白そうだったら、その本を読んでみる。興味がなければすぐに棚に返して別の本を見よう。フェミニズムにはいろんな論者がいるから、合う/合わないは必ずある。気が合いそうな作者がいれば、とりあえず読んでいくのがいい。
私が若い時にフェミニズムの世界に入っていくきっかけになったのは、北原みのりの『フェミの嫌われ方』だ。
今でこそ、私は「フェミニストなんて嫌われてナンボ」と思っているが、20歳前後の私は「フェミニストになってしまったら、周囲に嫌われるんじゃないか」というのが大変不安だった。(今よりずっとフェミニズムの勢いは弱く、大学にはジェンダーの授業もなく、どこにいけばフェミニストに出会えるのかも知らなかった)他方、私はもう女性として生きていくのに息も絶え絶えで、先のことは全く見えず、自分の不甲斐なさを責めてばかりいた。なので、「嫌われてもいいからフェミニストになるなんて、どんな心境なんだろうか? なんでこの人はフェミニストになったんだろう?」と思って北原さんの本を手に取ったのである。
当時の私と同じように「なぜ私は、こんなにも女性であることが苦しいのだろうか?」という疑問を持つ人は、今もいるだろう。最近出た本ではこのあたりが良いかもしれない。
もうすぐ発売のこの本も良さそうだと思う。
そして、私をフェミニズムへと引き摺り込んだのは田中美津『いのちの女たち』である。これは1970年代に活躍した「ウーマンリブ」の活動家である田中のエッセイだ。このブログでも何度も取り上げてきたし、私のフェミニズムの原点にある本だ。
ジェンダーの問題でみっともなく取り乱し、冷静でいられず、感情に振り回されてうまく語れず、男性とぶつかって自滅していく自分の姿を、若い頃の私はずっと恥じていた。そういう自分のことをまさに「女」だと思っていた。そして、この本を読むことを通して、私は「女であること」を正面から肯定することができた。そこから私のフェミニズムは始まった。自己を解放し、「男が決めた価値」に合わせることをやめて、自分自身がよいと思う方向へ歩み出そうとした。もちろん、そこからそんな簡単に話はうまく行かないのだが、「このときの私は本当に勇気があったし、頑張ったなあ」と、20年近く経って今の私は思う。
さて、ここまで来て「男性は何を読めばいいのか」という問題がある。実は田中美津の『いのちの女たち』を私が知ったのは、森岡正博『生命学に何ができるか』の中で紹介されていたのがきっかけである。
この本の中で、田中美津の思想はコンパクトにまとめられており、非常に理解しやすくなっている。もしかすると、私が上で書いているような、「女性の強烈な感情」を理解しづらいと思う人も、この本を読めば入っていきやすいかもしれない。
ところが、森岡さんは一通りリブの思想を解説した上で、自分の行為について次のような疑念を抱く。
女たちが痛みと呻きの中で蓄積してきたいのちの叫びを、外からさっとやってきてその一番おいしいところだけをかっさらって、自分の学問的業績の一部に都合よく利用しようという、男たちがいままで繰り返してきた詐欺行為と同じではないか。そういう整理をすることで、男の生き方が変わるわけでもなく、もちろん女の生き難さが改善されるわけでもなく、ただ男の学者の地位が上がり、女の叫びがそのために体よく利用されただけに終わるのではないか。男からのこういう接近に一瞬でも希望の光を見て、そのあげくに深い傷を負った女たちは、もう二度とこのような接触には乗るまいと思うだろう。
私はそれと同じことを、フェミニズム研究という名のもとに、ここでもう一度繰り返そうとしているだけなのではないだろうか。
(232-233頁)
以上のように、森岡さんは男性が「フェミニズムを理解しやすいものにする」こと自体もまた、女性の搾取になる可能性を指摘する。つまり、自分がやっていることはやはりフェミニズムに反するものではないかと疑うのである。それでも、森岡さんは居直らずにフェミニズム研究を続けていきたいと、一度この文章を結ぶ。
ところが次の段落では、上の引用箇所は六年前に書いたものであることが明かされる。森岡さんは、六年後の自分がそれを読み返すと偽善にほかならないと思うし、自己嫌悪でいっぱいになると書いている。上の引用箇所は、非常に男性の非常に誠実なフェミニズムへの向き合い方のように読めるが、「実は嘘だった」と筆者自ら告白するのである。地獄のような本である。
私はこういう思考の過程を男性がどう思うかわからない。もしかするとフェミニズムに関心のある男性にとっては入り口として良い本なのかもしれない。
ここまで本を中心に紹介してきたが、「読書が苦手な人」もいるかもしれない。その場合は「話を聞く」というのも一つの手だ。お近くの男女共同参画課に行けば、イベント情報が出ているだろう。そこにフェミニストやジェンダーに関する研究をしている人の講演会があるかもしれない*7。ただし、こればかりは地域差があって不公平な話になってしまう。ここは申しわけない*8。
(2)グループを作ること
私は本を読んでいる時点では、フェミニズムには関心はあったが「フェミニスト」と名乗ったことはなかった。なぜなら「何をすればフェミニストになれるのか?」がわからなかったからだ。結論から言えば、自分がフェミニストだと思えば、フェミニストではある。しかし、私にとっては「誰かと何かをやってみること」がフェミニストと名乗るきっかけになった。
私がやっていたのは、小さなフェミニズムの読書会だ。3人から5人程度で1ヶ月に1回集まっていた。多い時でも10人来たことはないと思う。
読書会はたいていこんなふうに行う。
(1)世話人を決める(メールなどで次回のお知らせを送る)
(2)「読む本」と「読む範囲」を決める。(1冊読んでもいいし、数ページでもいい)
(3)各自で家で決められた範囲を読む
(4)集まってみんなで感想を言い合う
私が読書会で読んで印象に残ったのはカリフィアの本。
カリフィアはポルノやSM、トランスジェンダーなど、ヘテロのシス女性のフェミニストが苦手とするテーマに切り込んでくるので、私にとってとても挑戦的な議論になった。当時の仲間とこれらの本について議論することでフェミニストとしてずいぶんと鍛えられたと思う。参加者はシス女性だけではなく、男性やトランスなどミックスでやっていた。
私がフェミニズム読書会に参加していたのは10年以上前になる。今も別のテーマの読書会は月に1−2度やっている。読書会が良いのはあまり準備がいらないことである。本を読む時には、自分の気に入った箇所に線を引いたり、付箋をつけたり、疑問を書き込んでおいたりすると良い。そして集まったときには、本を読んでいて思い出した経験、共感、著者への反発などなんでも口に出してみる。
コツは「知識」や「正しい読み方」にはこだわらないことだ。本の内容を学ぶのではなく、本に書かれたことを材料にして、自分の考えていることを言葉にしていくことを中心にしていくと面白い。特にフェミニズムについて議論するときは、いつも自分の経験を付き合わせて、「私のフェミニズム」を語ることが大事なので、他人に対して心開いていくレッスンだとも思う。
難しいのは一緒にやる人を見つけることだと思う。3人*9いればできるので、近所の友だちがいれば声をかけてみてスタートできる。私はオンラインの読書会の経験はないが、スカイプでもできるようだ。ただ、私は読書会という目的を持って、定期的に「同じ空間を共有する」という経験も大きかった。今も新しい読書会を立ち上げるときは、近くに住んでいる知り合いに声をかけて数回やってみて、楽しければ続ける、というようなゆるいやり方をしている。(基本的にはネット上は情報を非公開にしている。)
(3)社会活動に関わること
もっと具体的なフェミニズムの社会活動に参加をするという方法もある。これまで活動経験がない場合、たとえば「傍聴支援」に行くことができる。「傍聴支援」は、裁判所まで行って傍聴席に座るだけなので、知識やスキルがなくても参加しやすい。「この裁判は社会的に注目されているぞ」「いい加減な判決を出すことは許さないぞ」というプレッシャーを裁判所にかけるのである。性差別や性暴力の傍聴支援を呼びかけている弁護団があれば、指定の集合場所に行くとどうすればいいのか教えてもらえる。裁判は少しずつ進むので、書面のやりとりなどの回であれば10分程度で終わる。終わった後には、弁護団から今日はどういう進展があり、これからどうなっていくのかについての解説をしてもらえる。大変地味な支援だが、とても大切な仕事なので、関心のある裁判があればチェックしておくといいと思う。
ほかには、自分の関心のあるトピックについて活動している団体の「支援会員」になるということもできる。フェミニズムの活動団体は、たいていレター(機関紙)を出しており、会員になると郵送してもらえるところが多い。有名どころは「日本女性学研究会」だろう。以前、私が会員だった頃は、定期的にレターが送られてきて、イベントのお知らせや投稿コーナーがあったと記憶している。関西を中心に講演会などの企画もしているので、アクセスがよければ情報は得やすいと思う。
私はDVや性暴力、児童虐待などに関心があるので、優先的にこうした団体の支援会員位なっている。性暴力被害者の支援団体の探し方については10年前に記事を書いたことがある。古い情報だが、今も状況はあまり変わらないので、参考になるかもしれない。
以上のように、三つの大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法を紹介した。どの方法も何かの形で、フェミニズムやフェミニストと出会うことに重きを置いている。フェミニズムを学ぶとは、知識や理論を身に付けることではないと私は思っている。これまでフェミニズムを支えてきた先人たちの歴史に触れ、これからのフェミニズムを担っていく仲間と出会っていくなかで、「私のフェミニズム」を形作ることが、フェミニズムを学ぶことだろう。
そして、ここまで書いてきたが、私は「フェミニストになる必要はない」とも思っている。私自身、フェミニストになることは楽しいことだけではなかったし、つらいこと、苦い経験もたくさんあった。この社会でフェミニストになることは、得することではなく損することだろう。わざわざその道を選ぶ必要はない。
フェミニズムの読書会に参加したある人が、過去に仲間を亡くしてきたことを、さらりとメッセージの中に書いてくれたことがある。そのとき私は若かったので、その言葉に動揺し、「いつか仲間を亡くす日も来るのだろうか」と思った。そして、それから私は今に至るまで二人の仲間を喪った。フェミニズムのせいではない。でも、仲間だった。少なくとも私はそう思っていた。
生きていることが最良だと言うつもりはない。それでも、差別に抵抗しなくて良いし、社会を変えなくてもいいから、とにかく生きることを優先してほしい、とは思っている。
追記(2019/11/4)
誤字脱字を修正しました。
*1:実はフェミニストの中には「ジェンダー学」派と「女性学」派がいる。詳しく知りたい人は自分で調べてください。
*2:ただ、学生にとっては聞きたくない話であっても、事実として男性から女性に対する差別や暴力の背景にあるジェンダー構造を分析する必要はあるだろう。その結果、男性の暴力性について論じることもあるかもしれない。創造説を信じている学生にも進化論を教える必要はあるだろうし、アウシュヴィッツはなかったという学生にもユダヤ人虐殺について教える必要はあるだろう。もしそれが学生の信念を否定し傷つきの経験になったとしても、それは学問を修める場では避けて通れない道である。
*3:大学院の博士後期課程ではフェミ系のゼミに出ていたが、ジェンダーについての基礎的な知識があることは前提であり、それぞれの研究報告について議論していたので、学部の授業とは雰囲気が違うと思う。
*4:私の専門は「修復的司法/正義」の研究である。ジェンダーの視点は取り入れてはいるが、女性学会にも所属していないし、いわゆるフェミ系の研究者にはカウントされないと思う。
*5:むしろ、私は「フェミニズムそのものではなく、あらゆる学問をジェンダーの視点を取り入れながら教えていく方が良い」と考える立場である。今も「倫理学」の授業でもジェンダーの問題は扱うが、それは「フェミニズム」ではなく性の倫理的問題をジェンダー構造を理解しながら学ぶ場である
*6:もちろん批判はされるし、それに対する応答を迫られることもあるだろう。「否定されないこと」と「批判されないこと」は違う。「私のフェミニズム」は他人から批判されることで変わっていく。そのことによって、より自由で広いフェミニズムの世界が広がっていく。
*7:私も各地の男女共同参画課の企画する講演会でお話しさせてもらうことがある。
*8:本を手に取るにも図書館や本屋もあまりない、ということもある。後述する、グループを作ったり、社会活動に参加したりすることも、圧倒的に都市部の方がやりやすい。本当はジェンダーの問題は常に地域の問題とつながっている
*9:2人でもできるが、3人以上のほうがコミュニケーションが三者関係になってやりやすいとは思う。ちなみに私は誘っても誰もきてくれない「ひとり読書会」を半年くらいやったことがある。読書ははかどったが、ちょっと寂しい。