あけましておめでとうございます。
昨年*1は、ありがたいことに、自著の初刷が完売*2しました。現在、出版社でも在庫切れになっています。誤記・誤訳の修正*3が終わり次第、増刷していただけることになっております。ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください。
現在は、主に「環境問題と修復的正義」の研究を進めています。やっと、まとまった論文を書くことができました。自分なりの修復的正義の探究の方向性を明確にできましたので、本格的な研究のスタートラインに立てたように思います。
〈被害者の情念〉から〈被害者の表現〉へ 水俣病「一株運動」(1970 年)における被害者・加害者対話を検討する
今後は、「環境問題と修復的正義」の理論研究と実践研究の二本柱で進めていく予定です。海外での研究や英語での成果報告も増やしていきたいと思っています。
また、京都大学のLaÿna Drozさんと、アジア環境哲学ネットワーク(Network of Asian Environmental Philosophy)を立ち上げて活動しています。
Network of Asian Environmental Philosophy
これまで、日本のアカデミズムの中で「居場所がない」という悩みを抱えていたのですが、思い切って海外に飛び出してみると、似たようなことを研究している人はたくさんいました。「一緒に仕事をしよう」と声をかけられることもあります。私は中学生の時から英語が苦手ですので、英語で仕事をするのはつらいところもあるのですが、フィットする場所がある限りは、これからも英語を勉強して国際交流・発信に尽力したいと思っています。
それに加えて、私の研究の大きな転換としては、アートやアニミズムの問題に言及し始めたことです。こちらは、英語での成果報告がこれまでメインでしたが、もう少し日本語でも書いていこうと思っています。エコロジー思想の再評価や、石牟礼道子を中心とした文学作品の検討を通して、スピリチュアリティの問題に足を踏み入れています。もともと、私は学部時代は美学及び芸術学専攻で、アートと政治の問題を研究するつもりだったので、原点に帰ってきたと言ってもいいかもしれません。他方、こうした問題についての報告は、国際学会でも関心をもたれやすくなっていますので、「潮目」のようなものが来ているようにも思います。
また、偶然ですが、これまではてなでよく記事を読んでいた、名取宏さんが「偶然性の問題*4」に言及し、熊代享さんが「スピリチュアルな問題」に言及していました。文脈はそれぞれ違いますし、私がこの問題に付き合ったのも、ライフヒストリーと絡み合っているので、個人的な問題でもあります。それでも、これはひとつの時代の気分でもあるかしれないとは思っています(これは単なる私の年末年始の感想です)。
名取宏「何も悪いことをしていなくても人々は病気になる」
熊代享「拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊」
*1:昨年は祖母が亡くなり、喪中でしたので、新年のご挨拶は控えていました
*2:類書では例のないほどの売れ行きだそうで、感謝の気持ちでいっぱいです。
*3:やってもやっても、終わりません。初刷をご購入いただいたみなさまには、本当に申し訳ない気持ちでいます。正誤表をネット上でアップするつもりです。
*4:「医療行為が確率論でしかない」と宣言することは、偶然性の問題に足を踏み入れることになります。それは、私たちはなんらかの選択をするときに確実性を失い、偶然に「賭ける」ことになるということです。神様を信じている人であれば、「神の采配」に身を委ねることになりますが、無信心者は自己の決定に全ての責任を引き受けることになります。重大な決定(たとえば命に直結する治療をするかどうか)を前にして、神なき時代を生きる人々がどう耐えうるのかという問題が出てきます。「偶然性」はポストモダン思想でよく論じられた課題です。なので、私は名取さんがこっちの方向に言及することは意外だったし、びっくりしました。