ネット上のフェミニズムについて
思わぬ形で炎上してしまったので、何度かこれまで書いてきたネット上のフェミニズムについて、アップデート版をメモがわりに書いておく。
私はネット上のフェミニズムを切り離さない。
ネット上で一部のフェミニストが「ツイフェミ」「ネットフェミ」「ミサンドリスト」などと呼ばれて批判されている。私はかれらとほとんど思想的に接点はなく、主張も重なるところはない。だが、かれらがフェミニストを名乗る限り*1、自分と切り離すつもりはない。かれらもまた、私と同じフェミニストである。
そのことは、私がかれらを批判しないことを意味しない。私はトランスフォビア、セックスワーカー差別に反対するし、表現規制には慎重な態度を取る。必要な場合は、かれらを批判する。ただし、私の批判はフェミニストとして、フェミニストに向けて行うものである。私は、被差別の当事者以外が、フェミニストの肩書を引き受けずに、フェミニズム批判する場合、それに同調しない。なぜなら、フェミニストとして社会を変えていく意欲のない者の「批判のための批判」には私は関心がない。私は「フェミニズムをよくする」ためではなく、「被差別者の告発に連帯する」ために、フェミニズムを批判する。
以上についてはこれまでも何度か書いた。下に例を挙げておく。
「フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します」
「ネトフェミだったら何なの?」
私はネット以外でのフェミニズムの活動を重視する
上の批判を行ったとしても 、私と立場の違うフェミニストはおそらく、考えを変えることはないだろう。人間の思想信条は生活や人生に根ざしたものが多い。ネットで批判されたくらいで変わるような思想信条は、逆にあまりにも脆弱である。また、「他人を変えようとする」ことより「自分を変えようとする」努力の方がずっと有益だと私は考えている。
フェミニストとして日々を暮らすことは、異なる価値観を持つ人と出会い続けることである。ネット上でどれほどフェミニストが増えたように見えたとしても、社会ではいまだ少数派である。もしかすると、性暴力やDV、セクハラについての考え方は10年前に比べれば変わってきているかもしれない。そのことは肌身で感じている。それでも、いざ何か起きたときに、フェミニストとして立ち上がろうと決意する人は多くない。
私自身は、これまで何度も書いてきたように、フェミニストになることを他人に勧めたことはない。なぜならば、これまで自分がフェミニストであると名乗り、性差別や暴力の問題に取り組むたびに、周囲との軋轢に苦しんできたからだ。私は私の、生活と人生の文脈の上でフェミニストを名乗っているが、他人が同じ苦しみをすべきだとは思わない。それぞれができる形で性の問題に取り組めば十分である。
そうした日々の暮らしの中で、できる限りの性差別や暴力への抵抗を続けていくことが、フェミニストの活動の本筋である。それはとても難しいことで、私も十分に実行できていると思えたことはない。それでも、たとえば私であれば、学会内の性差別的な構造を指摘したり、性差別や暴力で悩む同僚や後輩を(非常に小さな力ではあるが)支えたりするかたちで、フェミニストとして末端ながら活動していきたいと考えている。このことのほうが、ネットで何か言うよりも、フェミニストとして生きる上で重要だろう。
私はネットでものを言うことにより、フェミニストとしての自己の一部を確立してきた。しかし、私の思想信条の大半は、ネットの言説ではなく、具体的な人々との関わりのなかで培われている。私はヴァーチャル空間ではなく、現実世界でフェミニストであることに、重きを置くべきだと考えている。
現実世界で、フェミニズムを学び、活動につなげていく方法について書いた記事を以下に挙げておく。
「大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法」
私はネットの「フェミニズム」「反フェミニズム」の変化を肯定する
ネット上でフェミニズムは毀誉褒貶の激しい領域で、常に論争の的になってきた。私がネットを始めた頃にも、「フェミナチ監視掲示板」があり、フェミニストを危険視する人たちがいた。フェミニストは理性を持たず感情的なので、フェミニストが力を持ってしまえば、社会が危機に晒されると考える人たちである。今も似たような危機感を抱く人たちはいるだろう。「あのような危険人物たちを野放しにしてはいけない」という言説は私もよく目にする。
当時と今の違いは、「フェミニズムに関心を持つ人」の総数である。近年はメディアや出版業界でフェミニズムが流行っており、有名人も言及するようになっている。フェミニズムは「売れるコンテンツ」になっているのである。そのことはメリットもデメリットもあるが、結果として、多くの人たちがフェミニズムに関心を持つようになっている。
十年前にフェミニズムに関心を持つ人たちは、支持派にしろ反対派にしろ、性の問題に思い入れがあることが多かった。反対派であっても、自分の人生や生活でトラウマティックな経験や、強烈な想いを抱えた人が、熱意を持ってフェミニストを批判した。どちらにしろ、自己の問題とフェミニズムが緊密につながっていたのである。
しかしながら、フェミニズムがよく知られた問題になると、もっと気軽にフェミニズムを支持したり反対したりする人たちが出てくる。フェミニストにならなくても、強い思い入れがなくても、フェミニズムに物申すのである。それは一般的に言うと良いことである。十年前は、性差別や暴力に無関心な人たちが多かった。それが今は、どんな形であれ、「なにか言いたい」気分が広がっている。社会を変えるためには、多くの人たちの目に触れる形で問題を議論の俎上に上げなければならない。
ただし、この場合、フェミニズムの支持派も反対派も、主張の色合いは変わるだろう。正直に言えば、私は十年前の濃密なフェミニズムの議論の方が、苛烈ではあっても刺激的で、魅入られる部分があった。もちろん、私も二十代であり、若かったのもあると思う。今のフェミニズムの議論は「自己の葛藤」よりも「何が正しいか」「どちらがより良いか」という議論が中心であり、私はあまり惹かれない。また、性についての自己吐露的な言明であっても、もうその型が出来上がってしまったように感じることもある。これは私が歳をとって感受性が鈍ったことが原因でもあるだろう。
なんにせよ、フェミニズムは変わった部分もあれば、変わらなかった部分もある。私は変化した部分は肯定的に捉えてよいと考えている。時代に応じて社会運動は変わっていく。私は「私が何をするのか」が重要であり、流れの中で泳いでいくだけだと思っている。