「男」に「男」は救えるか?

 ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。

 これまでネット上では「弱者男性」を名乗る人たちが、(経済力のある)女性は(経済力のない)「弱者男性」と結婚して扶養することにより救うべきだという主張をすることがあった*1。それに対して女性から、男性は女性に救いを求めるのではなく、男性に救いを求めるべきだという指摘が寄せられることはよくある。

 今回、次々と公開される記事は、男性と男性が人間的に(または情緒的に)繋がることによって、男性が救われることについての困難が言語化されている。

男同士が遊ぶことに楽しさがないわけじゃない。
ただ安心して弱さを見せ合い、ベッタリともたれ合うことはできない。
いわばスポーツや対戦ゲームみたいなもんで、調子のいい時、面白いとき、人生が恵まれている時にお互いのいいところを出し合うぶんには男同士が楽しいが、具合が悪くて辛くて悲しくて貧しくてグズグズな時にそのグズグズを男同士で絡ませ合うのは気持ち悪くて大体の人には無理だ。
「シスヘテロ男は(男も?)男が嫌いだから、女にしか救えない」( https://anond.hatelabo.jp/20190617221819 )

ていうか男は怖いから女に救ってもらうしかない。女叩きをしていた奴らも、男から冷遇されなかったわけじゃないはずだ。男同士の関係が築けていたなら、多分女なんてどうでもよくなる。でも男に刃向かうのは怖いから、女を叩くしかないんだよ。女叩いてる時間、そのコミュニティだけは同性の強い肉体を持つ仲間がいるんだ。男は怖いが男を怖いと言ってはいけない気がしていた。

「おっさんはおっさんが大嫌いだし弱い男はもっと嫌い」( 

https://anond.hatelabo.jp/20190618201336 )

 

 これらの記事に対して、男性同士で繋がっていくことで救われるストーリーを描きたいという、青年誌の男性漫画家の記事が寄せられた。

女性漫画家の描く『生きづらい人の生き方漫画』みたいなものばかりという事に気付いた。
この『生きづらい人の生き方漫画』というのは大体アラサーから中年期の女性が
地味な実生活での生きづらさを感じながら身近な別の生きづらさを抱えている人との交流で
なんとなく納得して生きていく事にする、という感じの流れが多いと思う。
恋愛の描写よりは生きづらさとの折り合いという所に重点が置かれているものが多く
そこに共感できるので読んでいてどこかせつなく心地いい。刺さる場面も多い。
地味だけどみんなそれぞれ色々な事情があるという当たり前の事が描かれていて
これがぼくには女性はこうして生き方を模索しているのだなという風に見えるのだ。
実にうらやましい。
男にはこうした何者でもない人が前向きに生き方の模索をするという文化が無い気がしている。

「男の生き方」( https://anond.hatelabo.jp/20190620231440 )

 

 上の漫画家の記事は、女性の漫画家は、女性の生きづらさが「身近な別の生きづらさを抱えている人との交流」によって救われるストーリーを描いており、(おそらく主たる読者層である)女性に受け入れられていることを指摘している。それに続いて、記事は男性向けの漫画雑誌では編集者からこのような企画は拒絶されることが多いことを述べている。

 この記事で挙げられている作品はほとんど私も読んでいるが、世代や文化の違う女性たちが出会うことで、自分の価値観を相対化していくなかで、自分の人生を見つめ直して肯定するようなストーリーをたどる。(もちろん、その道筋はまっすぐではない。)こうした作品で、読者は登場人物の行動に過去の自分を重ねたり、共感して感情を揺さぶられたりするなかで、「女性」が「女性」との繋がりに救われるプロセスを再体験することができる。 

メタモルフォーゼの縁側(1) (単行本コミックス)

メタモルフォーゼの縁側(1) (単行本コミックス)

 
凪のお暇(1)(A.L.C・DX)

凪のお暇(1)(A.L.C・DX)

 

  もちろん、すべての人がこうした作品で救われるわけではないだろうが、この記事を書いた漫画家が言うように、男性版のこうした「同性の繋がり」に救われる作品があれば、一部の(孤独を感じている)男性は人との繋がりで生きていくことへの希望を見出せるのではないだろうか。

 男性の「同性の繋がり」の重要性は、実は全く異なる分野のカナダのフェミニストのノンフィクション作品『BOYS 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』の中でも指摘されている。この本は2019年3月に日本語訳が出版されたところで、ツイッター上では話題になっており、私も早速購入して読んだ。

ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

 

 この本の筆者であるギーザは、レズビアンでありフェミニストである。ギーザは、女性のパートナーとともに養子である「男の子」を育てることになり、「男子」の問題に直面した経験からこの本を書いた。どうすれば男子がのびのびとしたマスキュリティに(男性性)を獲得し、暴力を振るわずに、社会の中で女性とともに生きていけるのかを模索した本である。

 この本では、ニューヨーク大学の心理学者であるナイオビ・ウェイの著作が詳しく紹介されている。その該当箇所を引用しよう。

 この10年のあいだに、若い男性たちの境遇や「男の子の危機」について懸念する内容の本や記事はたくさん書かれているが、彼らの心理的健康や社会的健康について分析したものはほとんどない。しかし、ウェイの描き出す少年たちは一貫して感情的サポートと愛情の必要性を訴えている。14歳のカイはこう語る。「友達は必要だよ。友達がいないと、落ち込んで、幸せじゃなくなるし、自殺したくなると思う」。親友のどんなところが好きかを聞かれたベンジャミンはこのように答えている。「ほとんど全部。親切なところや、全部だよ。周りの人を大切にするし、それはぼくも同じなんだ」。

 男の子は女の子よりもコミュニケーション力が低く、弱さを見せたり親密な関係を築いたりすることが苦手だという考えが定着しているが、男の子も同じくらいそれらの能力をもっていることを、ウェイは明らかにしている。「男の子には、とても豊かな感情がありますが、どういうわけかそれは見過ごされています」と、ウェイは私に語る。(111ページ)

 

 以上でギーザがウェイの紹介の中で述べているように、男子は思春期に非常に親密な「同性の繋がり」を持ち得る。この後のギーザの記述を読むと、ウェイの分析によれば男子は「秘密を共有すること」で絆を深めていく。その理由は「スポーツやビデオゲームのような「男の子らしい」共通の興味のためではなく、共有している感情的領域(112ページ)」のためだという。男子が声変わりをはじめとした身体の変化の戸惑いを無防備に話せるのは同性に対してだけなのである。ところが、思春期の後半になると男子は「同性の繋がり」ではなく、女性との恋愛関係に意識が向かう。なぜなら、真に親密になるべきは男性同士ではなく、女性であると教わるからだと、ギーザのウェイの研究の紹介では述べられている。

 ここで示唆されていることは、思春期後半の男子は「男らしさ」を求めて、親密な「同性の繋がり」を絶ってしまうことだ。弱さや共感力は「男らしさ」から遠ざかるため、ないことにされてしまう。しかしながら、男子は生まれつき、男子が情緒的な繊細さや共感力がないわけではない。女性が社会に適応するなかで女らしくなるように、男子も教育や文化的背景によって男らしくなっていく。ギーザはこの本の中で、いかに男子が「男らしさ」を身につけていくのかを明らかにしている。

 それと同時に、ギーザがこの本で取り上げるのは、男子のための数々の教育プログラムである。その多くは、男子がリラックスして自分の弱さや感情を打ち明ける体験をすることに重きが置かれている。ふざけたり茶化したりせず、性の問題に向き合うようなプログラムも含まれている。そして、男子同士の友情が育まれ、「同性の繋がり」の中で弱さや葛藤を打ち明け、その秘密を共有する中で、男子は「男らしさ」から解放されていくという青写真が示されている。

 

 さて、偶然だが、男性の「同性の繋がり」の重要性に正面から向き合うアニメ作品が日本で放送されていた。「さらざんまい」である。(脚注で大きくネタバレしているので閲覧注意)

幾原邦彦「さらざんまい」

http://sarazanmai.com

 

 

 この作品は3人の14歳の少年を中心に進んでいく。かれらはそれぞれに、「人との繋がり」に葛藤を抱え、「うまく繋がれない」という気持ちを抱いている。少年たちは、カッパの国の王子けっぴによって、カッパにされてしまう。この作品ではカッパとは「生きていて、死んでいる」、つまり、あの世とこの世の境目に住んでいる生き物である。少年たちは、現世で中学生として生活しながら、時折、欲望に取り憑かれた敵・カパゾンビを倒すことで、カッパの皿を集め、自分の願いを実現することを目指す。

 この作品の肝となるのは、カッパがカパゾンビを倒すときには、「さらざんまい」という技(?)を使うことである。この技を使うと、カッパ同士の秘密がバレてしまうことになる。3人の少年たちは誰にも知られたくないと思っていた秘密を、無理やり共有させられる中で、深い絆を得ていく。その中で、自分の「人との繋がり」の課題に直面し、お互いに親密になりながら、思春期を乗り越えて自己のアイデンティティを獲得し、カッパから人間に戻って現実世界*2に帰着するのである*3。「さらざんまい」は一見、衒学的な言葉の飛び交う不思議な幻想世界の話に見せながら、実質的には少年たちの青春ストーリーであり、素朴な成長譚である。

 この作品は、先に紹介したギーザの著作で言われている、男子の「同性の繋がり」を取り戻し、その価値を再認識している面がある。少年たちは弱さや葛藤を晒し、秘密を共有することで親密さを深めていく。そのことによって、救われるのである。この点で「さらざんまい」は「男」が「男」を救う作品なのである。

 男子の友情を描いた作品はこれまでもたくさんあるが、多くは「スポーツ」や「バトル」の中で協力しあってライバルや敵を倒すことに焦点が当てられる。「目標」が設定され、それに向かってストーリーは展開するのである。他方。「さらざんまい」はひたすら少年たちの「繋がり」に対する葛藤が描かれる*4。そして、最後に達成されるのは「勝利」や「成功」ではなく、「同性の繋がり」である。こんなふうに正面から「同性の繋がり」の問題に向き合った作品*5はあまりないように思われる。ストレートに男子に対して「同性の繋がり」の重要性を説き、未来へ向かって生きるエールを送る作品で、カタルシスを得る男性もいるのではないだろうか。

 もちろん、この作品は「大人の男性(おっさん)」はほとんど登場しない。おっさんが登場するとすれば、欲望に取り憑かれてカパゾンビになってしまった人々であり、誰とも繋がれずに外部に放り出されてしまった存在かのようである。ここに直接的なおっさんへの救いはないだろう。他方、この作品は「これからおっさんになる人々」(=若い男子)の救いにはなるかもしれない。私には、この作品が男性(幾原監督)の過去の自分への手紙のようにも見えた。同性で繋がることを諦めてしまった少年、同性愛関係を忌避しようとした青年、そしておのれの未熟さで絶望を受け止めきれなかった成年男性、こういった「人との繋がり」で失敗したさまざまな経験を折り重ねるようにして、作品のなかに多彩なキャラクターが登場する。その中で最後まで「欲望を手放すな」「繋がることを諦めない」と登場人物に叫ばせ続けたのは、自分のためではなく、これからを生きる少年たちのためではないか*6。これも一つの「同性の繋がり」のあり方だろう。次の世代はもっと男子の「同性の繋がり」は親密になり、当たり前に「男」が「男」を救う時代が来るかもしれない。その願いを託した作品として観ることもできるように思う。(ただし、私の見ている限り、視聴者の大多数は女性である。)これは「男」に「男」は救えるか?という問題の、一つのアンサーだろう。

 

追記(2019/6/25)

 誤字脱字等の文章上のミスを修正しました。

 

*1:わかりやすい例としては2006年の赤木智弘「『バックラッシュ!』を非難する」( http://journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html )

*2:印象的だったのは、最終回のエンディングで少年の一人が少年刑務所に服役する場面が描かれたことだ。彼は坊主に頭を刈られ、刑務作業を行っている。彼は14歳であるので少年法の範疇であるが、おそらく殺人を犯しているため検察官に逆送致され、懲役刑ということになったのだろう。矯正教育がアニメの中で描かれること自体が少ないが、そのあと出所し、友人とともに生きていく「再出発」のストーリーになっているのは初めて見た。荒唐無稽な話でもあるので、彼の殺人については触れなくてもアニメ作品では許容されたように思うが、しっかりと「罪を償う」ことと「それでも未来へ向かって生きる」ことが物語に含まれたのは意外だ。(個人的には犯罪の問題を研究してきたので、こういうふうに描かれたことは嬉しかった)

*3:昨夜の最終回はツイッターなどで、3人は自殺しているのではないかという説が流れている。その時に、3人が飛び込んだのは「三途の川」であり、けっぴが「この河を渡れ、もう戻れないのだから」というセリフは「死」を意味するのだと解釈されている。だが、この作品の枠組みは精神分析に依っており、ここで使われる「河を渡る」という比喩は、「快楽原則の彼岸と此岸」のことだろう、と私は思う。「快楽原則の彼岸」とは神経症の患者が苦痛に満ちた行為(たとえば自傷行為)を強迫的に繰り返すことである。患者は無意識に自ら悲劇的な体験を反復することで自己を保っている。これを「さらざんまい」の結末と重ねれば、少年たちが、「人との繋がり」から逃避して自らを苦痛に追い込む「快楽原則の彼岸」から、河を渡って向こう岸の「快楽原則の此岸(欲望の成就)」を目指すというメタファーだととれる。繰り返し出てくる「欲望を手放すな」というセリフとも一致する。

*4:カパゾンビやカワウソ帝国ら、「敵」らしきものも登場するが、最後にはこれらは全て「概念」であり、自己が生み出すものだと明かされている。つまり、「敵」は外部に存在せず、自分の中にある既成概念がカワウソの姿をとって現れ、自己自身を追い詰めていたのである。これについては、一番わかりやすいのはレオとマブの関係である。レオは、カワウソによってマブは人形に変えられている(「俺の欲しい言葉をくれるマブじゃない」=愛されていない)。また、マブは「愛する」と言うとカワウソの仕掛けた仕組みで死んでしまう(愛してはいけない)。このときのカワウソは、おそらく「ホモフォビア」である。両者の自己内で生み出された概念(=ホモフォビア)によって、二人は引き割かれてしまった、と解釈できる。加えて、思春期前半の少年である3人に対して、レオとマブは思春期後半を過ぎ、大人になった青年である。ギーザの著作を参照すれば、この2人の関係はすでに「男らしさ」の枠からはみ出し、男性にとって忌避すべきもの(=同性愛)となっている。その意味で、このアニメで男性の「同性の繋がり」を描く際に、郷愁に満ちた3人の「少年たちの友情」だけではなく、「同性愛」の関係にあるレオとマブの青年たちが必要だったのだろうと推察する。

*5:かつて庵野秀明監督は、テレビ版の「新世紀エヴァンゲリオン」で、主人公と少年たちの「同性の繋がり」を描きかけた。しかしながら、この作品で主人公が救済を望むのは、同世代の女子や年上の女性、さらには亡くなった母親の幻像である。加えて、この作品は一向に現実に帰着することができない。悲劇的な展開の反復の迷路にさまよいこみ、何度、映画版が作られても決着はつかないように見える。

*6:最後に、3人よりさらに年少の春河が「僕は選ぶよ」と未来に向かって生きていくことを宣言するのも象徴的である。精神分析ではその人が自分で「選択すること」に重きが置かれる。なぜなら、「自分で選ぶ」ことは、自由を獲得し、責任を負うことの宣言であるからだ。これは与えられた自らの環境や悲運に屈服するのではなく、自己により人生を切り開く行為だからである。春河は一稀から離れたくない一心ですがりついた結果、事故にあって歩けなくなってしまった。そのことで、最もそばにいたいと思っていた一稀の心が離れてしまい、深く傷ついていた。しかし、その一稀を自分のそばに縛ることをやめ、自らの繋がり方を手放すことで、もう一度、一稀が自分のそばに帰ってきてくれることを信じ、もっと親密な繋がりを得たのである。この作品の隠れた主人公は春河であり、3人の繋がりが確固たるものになって以降は、彼こそが物語の中心となることを予兆させている。