藤岡利充「立候補」

 選挙に立候補する、いわゆる「泡沫」候補を追ったドキュメンタリー。舞台は2011年11月に行われた、大阪都知事選&大阪市長選。このとき、橋下徹は絶頂期で、維新の会が躍進していた。そんな中、何度も各地の選挙に出馬しては落選している、立候補する泡沫候補たちがいる。映画では、マック赤坂さんを中心に、かれらの選挙戦を描いている。
 選挙に出馬するには300万円の供託金が必要だ。一定の得票がなければ、供託金は没収されてしまう。身銭をとって、勝てない(ように見える)戦いに挑む泡沫候補者たちの思いは様々だ。
 特に大阪地元の候補者たちは不思議な選挙活動をしている。立候補の届け出だけをだして、ずっと家にいて特に選挙活動をしない岸田。街角に立って、政策も提示せず挨拶ばかりしている高橋。誰もいないガランとした道に車を止めて一人でマイクで話している中村。ごくごく普通の「おっちゃん」に見える人たちだ。映画内では、インタビューで「なぜ選挙に出るのか」が聞かれているのだが、最後までよくわからなかった。
 他方、マック赤坂さんは派手な衣装でパフォーマンスを繰り返す。しかし、一番わかりやすい泡沫候補でもあった。歌や踊りでアピールするのは、政策を主張しても誰も足を止めてくれないから。まず、人目を惹きつけて、注目を集めるしかないと考えている。これは、有名泡沫候補として、映画にも登場しインタビューを受けている羽柴誠三秀吉さんや外山恒一さんとも共通する。政策を主張しない理由はわかりやすいし、行動も一貫している。
 一見、後者のマック赤坂さんたちのほうが、「おかしい」「奇妙だ」と言われるのだが、私は映画を見ていて、前者の立候補者たちのほうが強烈だと思った。映画内で外山恒一さんも指摘しているのだが、後者のパフォーマンスは「ネタ」として扱われ、消費されてしまう。もちろん、後者の泡沫候補たちは、それも理解して「あえて」戦略としてやっているのだろう。だが、前者はネタにもなっていないし、戦略でもない。それだけに、むき出しの「わからなさ」が露出していて、映画を観ていてドキドキした。
 全体を通しての映画の主題は、シンプルで「負けても負けても、戦いに挑む男たち」である。そして、マック赤坂を中心に物語は展開して府知事選が描かれ、それが終わった後、東京の秋葉原で日の丸を持ってる男たちに罵声を浴びせかける場面がクライマックスとなる。それまで冷ややかだった息子は、ここで初めて怒りをあらわにし、言い返して反撃に移る。日の丸を持つ男たちに、「お前らは集団じゃないと何もできない。(父親は)一人でずっと戦ってきたんだ。お前も(立候補して)あそこで主張してみろよ」と怒鳴るのである。かぶせるように歌が流れてきて、ドラマチックに盛り上げる。
 いつのものことだが、私はこういう「男たちの物語」が始まると、さーっと潮が引くように冷めてしまう。罵声を浴びせられる中で、自分も罵声を返す戦い方に対して、男の自己陶酔を見てしまう。確かに、いかにも強面の日の丸を持った男たちに、(警察の抑制があるものの)一人で言い返すのは勇気がいることだろう。だが、賛美する気にはなれない。
 私たちの社会には、差別や抑圧があり、不正がまかり通っている。毎日、生活する中で誰かを虐げている。でも、それに目をつぶって自分の生活を優先している。それがマジョリティであるということだ。敵は日の丸を持った男たちではなく、隣に立っている仲の良い友人や同僚、家族の顔をしてあらわれる。もちろん、鏡に映る自分の顔だって抑圧者の顔だ。同じように、友人や家族、自分に「お前もやってみろ」と言えるのだろうか。日の丸を持った男たちは凶暴そうに見えるかもしれない。でも、私たちが恐れているのは、誰のことだろうか。
 罵声を浴びせられたときに、罵声を浴びせ返すのは、自分を守るのに必要なことだ。怒り、わめき、糾弾することが必要なこともある。でも、そこに焦点を当てて熱狂することを肯定したくはない。
 そして、先に書いた前者の泡沫候補たちは、熱狂しているようには見えなかった。なんだかよくわからないが、人前に出ることを拒否したり、家族を大切にしていたり、友人との再会を喜んでいたりする。かれらは今の政治が問題だから、大枚をはたいて立候補をする。
「選挙って何のためにあるんだろう?」
そう思わせる、もっともアナーキーな選挙活動は、このような候補の活動ではないのか。選挙活動は、資金と組織力が問題で、その資源を持たない候補は永久に勝てない。しかし、勝てないからといって、選挙に出てはいけない、なんてことはない。自分が志があるなら、身銭を切って出ればいいのだ。きっとそれで政治は変わらないだろう。橋下さんや日の丸を持つ男たちにも対抗できないだろう。そのことに意味づけもできないよくわからなさが、この映画で一番印象に残った。
 さらに、この映画に大阪に対する、一種のオリエンタリズムを感じたことも付け加えておく。きっと、他地方からすれば大阪というのは興味深い土地なのだろう。マック赤坂さんは関西で学生時代を過ごしているが、東京が主な活動地だ。外から来た人たちを、外から来た人たちが撮る。選挙の前日に路上で橋下さんとやりあうマック赤坂さんは、自分は東京に帰るので大阪を託すという。それに対して、維新の会の支持者は「帰れ」と罵声を浴びせる。私はなんだか複雑な気持ちになってしまった。罵声を浴びせる維新の会を擁護する気にはなれないが、「帰る」だの「託す」だの勝手なことを言うようなあと思った。大阪の人はずっと大阪にいるし、大阪で維新の会に反対している人たちはずっと反対している。託している場合ではない。
 そもそも、私はマック赤坂さんのどこがおもしろいのかよくわからない。クラスに一人はいる、いちびりの男子を思い出してしまう。提起されている問題は重要だろうし、映画もずっと集中して観ていたし、とてもよいドキュメンタリーなんだろうけれど、冷めた気持ちで終わってしまった。

追記

 一晩たって、この映画で私が違和感を持ち続けた点が、なんだったのかわかった。それは、300万を払えて、立候補できる権利を持つ日本人(そして男)が、少数派(マイノリティ)と称されることへの違和感である。マイノリティとは数の上での多少が問題になるわけではない。たとえば、アパルトヘイト下での南アフリカでは、白人より黒人のほうが圧倒的に数は多かったが、抑圧者だったのは白人だ。社会の権力の不均衡により、あるグループが力を持ちマジョリティとなり、別のグループが力を奪われマイノリティとなる。
 確かに、この「立候補」に出てきた泡沫候補者たちは、数の上では少数である。また、大きな政党の候補者に比べると、力がない状態にあり、その問題を告発しているとはいえる。
 だが、300万を払えなかったり、立候補する権利がなかったりする、マイノリティの闘いもずっと続いている。それは、一人で日の丸を持った男たちに立ち向かう戦いではない。一人だとつぶされてしまうから、団結しようとする戦いが積み重ねられてきた。マイノリティの闘いとは、共闘である。もちろん、その共闘の中で、内部で孤立してしまうマイノリティinマイノリティの問題が生まれたり、集団主義に嫌気がさすマイノリティが出たりする。だが、それでも社会的に「共闘せざるを得ない状況」に追い込まれているのが、マイノリティなのだ。
 大きな政党に入って、「マイノリティの権利」を主張して戦うマイノリティもいる。そのときには、政党の政策と、ほかのマイノリティの主張がすれ違い、批判されることもある。もちろん、その批判は必要なものでありつつ、社会的に「大きな政党に入らざるを得ない」と思わされる状況もまた、マイノリティにはある。
 繰り返すが「一人で戦うことがよくない」と言いたいわけではない。が、それを賛美する気にはならない、ということだ。