京都市長選で「若者文化」を争点に挙げている候補

 文化・芸術に税金を使うことについては賛否両論があります。私自身もこれまでの日本の文化行政の中でよいお金の使われ方がされてきたと思えない事例が頭に浮かびます*1。しかし、今回の争点は、税金を使うことではなく、規制についてです。
 京都市長選に出馬する共産党*2の中村和雄が次のようなブログ記事を書いています。

市長選挙の争点『若者文化』」
http://neo-city.jp/blog/2012/01/post-110.html

「ダンスクラブの深夜営業をどう守る?」
http://neo-city.jp/blog/2012/01/post-112.html

非常に面白い論点設定だと思います。東京では青少年保護を理由にして、「有害」な文化の規制を強めています。地方行政にとって、街づくりは大きな課題です。「有害」物を規制して治安の安定や青少年の保護を強調するという路線もあれば、自主的な若者文化やサブカルチャーを街の資産として活性化を強調するという路線もあります。中村さんの記事は、その問題に真正面からぶつけた主張でもあります。
 実際に、ダンスクラブを利用する立場の人からも、記事が出ています。

京都市長選が私たちにもたらすもの。」
http://common.dazzledrums.com/?day=20120119

この記事に、次のような一節があります。

風営法によって、クラブミュージックを愛する私たちの活動が阻害されるとき、
「クラブは一つの文化なのだ」という声が出ます。
ただ酒やドラックに溺れ、騒いでいるだけではないのだと。
けれども、それを言葉にするときに、
だれもがすこしは後ろめたさを感じる筈です。
それは、クラブカルチャーは、
ドラッグを含む、ある種の社会的な倫理や常識とは反する
怪しさや危うさが育ててきたマイノリティの文化でもあるからです。
だからこそ、一般社会の大多数からみたときに、
異質であり、理解が出来ず、怖がられる。
いまクラブに通っている多くの人間には
「ただ踊りたいだけ」であったとしても、
実際、薬物をクラブで摂取したと公言するものがいたり、
入り口のセキュリティの人が強靭な肉体だったり、
クラブの外で喧嘩を始めたり、と、
なかなか「踊りたいだけ」とは見えにくいのが現状です。
けれども、実際にクラブに通う大多数の人間は
本当に「音楽で踊りたいだけ」なのだから、
なんとかこれを一般社会に認めてもらわなくてはならない。
それには、クラブ業界の中の人間だけが動くより、
クラブ業界の外の、
一般社会に公的な立場を認められた人、
もしくはその類いの文化人に動いてもらわないと、
状況は一向に変化しないだろう、と思っています。
そして、今回の京都市長選は、
その大きなチャンスなのかもしれないと思うのです。

このあとに、政治家の主張にのっかることへの忌避感やリスクがあることを前置きしながら、自分たちのクラブを守るために利用するべきだ、とほかのクラブの利用者に呼びかけています。
 私自身、クラブ文化には縁遠く、数度しか足を運んだことがないので、「なぜ、クラブを守りたいのか」「そこには何があるのか」についてはまだわからないのですが、このような論点が出てきたことは歓迎したいです。特に、必ずしも肯定だけできるわけではない文化を、どう認知し、どう街の中で共存していくのか、という点から重要だと思います。

*1:いわゆるハコモノ行政による、利用しにくい劇場の乱立については、90年代の演劇人の中でよく議論になっていました

*2:一応書いておきますが、私は党としての共産党は支持していません。特に、京都の部落地区に対して、共産党がとってきた方策については強い疑問を持っています。