男はフェミニストを続けうるか?
最初に書いておくが、私はフェミニストである。さらに、「女だけフェミニズム」を批判し、ジェンダー・アイデンティティに関わらず、フェミニストを名乗れて当たり前だと思っている。「フェミニズムはみんなのもの」(byベル・フックス)である。
しかし、男とフェミニズムをやっていけるかというと、残念ながらまったく自信がない。私はジェンダーの問題を男性を議論するたびに、自分がすり減って、大事なものを奪われていくような感覚に陥ってきた。もちろん、そうでなくうまく議論できることもないわけではないが、そんなのは100回に1回ぐらいだろう。特に、ジェンダー違和のないヘテロ男性とは、どこから話していいのか皆目見当もつかない。最終的に「どうせ男にはわからないよ!」と叫びそうになり、「それだけは言っちゃいけないよ」と自制して、そう思ってしまったことに対して反省を繰り返す羽目になる。*1
なぜならば、男性と女性の間には、権力関係があるからだ。そして、<私>が女として男に語るときには、自らを弱者として位置づけることが避けられないからだ。女の語りは、常に権力関係の転覆の試みでなくてはならず、失敗すればそのマイナスは自分に跳ね返り、より弱い立場に固定化される。これは女と言うポジションだけではなく、すべてのマイノリティとしてのポジションに言えることだ。いつも弱者は緊張し、抑圧をはねのけながら語らなければならない。それは、まるで権力関係がないかのごとく、<私>が女であることを不可視化しているときよりも、ずっと苦しい状況に自分を追い込む。それでも、私は女として男と語りたいと思っている。なぜなら、私はそれでも転覆に希望を抱き、賭けているからだ。
そこまで覚悟を決めたとしても、なかなかうまいように事は運ばない。たとえば、id:ymitsunoさんの「男はフェミニストたりうるか?」という記事があがっている。ymitsunoさんは学生時代「かなりラディカルなフェミニスト」だったらしい。*2
例えば、かつて東大に入った頃に、僕をガッカリさせたことの一つは、いわゆる「東大女子」という生き物が、案外フェミニストではないということだった。男子校で育った僕は、東大に入ったら眼鏡をかけた気の強い「東大女子」が難しい議論をふっかけてくるに違いないというステレオタイプに毒されていて、それを半ば楽しみにもしていたので、ゼミのような授業(基礎演習)で「東大女子」たちの多くが、なるべく目立たないように大人しくしているのを見て、なんだかガッカリしたのである。「男も女も関係ない。女子も、もうちょっと発言したらどうか?」とけしかけるハタ迷惑な東大男子であった。
なんかもう、想像しただけで血祭りにあげたくなるようなことが書いてある。しかし、これが典型的な「フェミニズムやってみました男子」の頭の中なのだろう。こういう男子をつぶすために、学生時代には躍起になって勉強していたようなものだ。どっから突っ込んでいいのかわからない。私にとっては、先日騒ぎになった「アニメのキャラクターが処女でなかったことに激怒する」人たちと同じ感性だとしか思えない。まあ、アニメのキャラクターは傷つかないからいいが、この人の披露したエピソードの相手は生身の人間である。こうして勝手に理想像を押し付け、勝手にガッカリし、「発言しろ」と強制することこそが女性差別そのものである。
二十歳前後の私は卑屈だった。女として語ろうとすればするほど、対等にみせかけられた議論の中で、なんとか性について議論しようとした。ところが、性について語ろうとすればするほど、私は些細な男の言葉に傷つき、劣等感にさいなまされるようになった。弱い人間は従うしかないとあきらめ、生き残るためには「媚びるしかない」と思った。鏡の前で笑顔を作ってみたり、雑誌をみながら化粧の練習をした。居酒屋で飲み会となれば、注文をとりまとめ、皿を片づけ、グラスがからっぽになることがないように目配りしていた。私は自分が女として劣っていると思っていたので「せめて役に立つ女であろう」としたからだ。あれから数年がたったが、いまでも大人数の飲み会では緊張する。当時のことを思い出すからだ。私は、自分が男と性について話すときに緊張し、対等に話せないことを恥じていた。だが、フェミニズムは私の「女としての傷つきやすさ」が構造上のことだと教えてくれ、フェミニストはより自由に性について語る技術を与えてくれた。
私にとってフェミニズムは、女であることから自由になるための教科書だった。男と同じになりたかったわけではない。女である限り、弱者であることを知ることにより、そのポジショナリティと自分のアイデンティティを切りはなしたかった。それは、社会的構築物と本質の切り離しである。「女であること」「私であること」「私は女であること」の3つの位相で、私の存在がどう引き裂かれているのかを、自分自身の目と手で描きなおしたかった。
そうしてフェミニストになった私と、「「モテ」の前に、イデオロギーは敗れた」としてフェミニストでなくなったymitsunoさんが、対等に議論などできるのだろうか。そもそも、ymitsunoさんは学生時代に出会った女性たちがフェミニストでなかった*3から、(要するに女の側がフェミニズムを<ちゃんと>やってないから)、フェミニストをやめたと言いたいようだが、はたしてこの人は学生時代に本気で私みたいな女と出会いたかったろうか?こんな風にぼろくそに言われるのに?
「男はフェミニストたりうるか?」という問いには、私は「男はフェミニストたりうる」と答える。また、私自身、日本人であり健常者でありながら、在日外国人や障害者をめぐる問題になんとかコミットしたいと思っている。そして、当事者から怒られる。特に私は気配りに欠けるので余計に迷惑をかけ、ほんとに申し訳ない。「たりうるか?」の問いに対する答えは明白で「たりうる」だが、これが「続けうるか?」の問いに対する答えは、グレーである。当事者でなければ逃げられる――ymitsunoさんが逃げたように。もちろん、逃げてもいいのだ。逃げる自由はある。すなわち、選択できるということだ。
フェミニズムはイズムである。主義である。イデオロギーであり、本質ではない。だから、あらゆる人はフェミニズムにコミットできる。私は「男はフェミニストたりえない」とは言わない。ただ、言っておきたいことは、「それは単にあなたの選択で決めることだ」ということだ。モテるためにはフェミを捨てなくてはいけない、という状況があるのなら、その状況の中でこそ、あなたが決めればいい。何から逃げ、何を選ぶのか。
追記
>ブックマークコメント
murashit
こういったことを考える度に男として生まれてきたことをコンプレックスにおもう、逃げ道がありつつも逃げない方法をしらなけりゃならないなとおもう。でもこれじたいがすでにアレなんだろうか
100パーセント弱者である人間も、100パーセント強者である人間もいない。弱者であり、強者であるそのはざまでゆらぎながら、何を選ぶのかそのたびに悩むしかないんじゃないかと、私は思っている。結局、すべてから逃げることも、すべてから逃げないこともできないんだろう。
追記その2
コメント欄やブックマークコメントで「わからない」というコメントをしている方(推定男性)が何人かいらっしゃる。「絶対にお前にはわからせてやんない」と思ったけど、それもなんだかなので、一応「これ読んだらわかるかもよ?」という文献をあげておきます。
[rakuten:book:11316313:detail]
『リブってなんですか』と聞いてくる男に、ともすればわかってもらいたいと思う気持ちがわいてくるからこそ、顔をそむけざるをえないあたしがいるのだ。男に評価されることが、一番の誇りになってしまっている女の歴史性が、口を開こうとするあたしの中に視えて、思わず絶句してしまうのだ。そこに、己れ一人だけ蜜をなめたいあたしが視えるからこそ、一度男に背を向けたところから出発せざるをえないあたしがいるのだ。(略)
『リブってなんですか』と聞いてくる男に、『わかってもらおうと思うは乞食の心』とつぶやいて、己の闇は己の闇、その中をひた走る中で、姉妹たちよ、あたしたちはまず己れ自身と出会っていかねばならない。女から逃げ続けてきた〈ここにいる女〉と出会っていかねばならない(引用は文庫版より。八五〜八六頁)
この件については、「オルタ」にもう少し詳しく書いたので、興味ある方はどうぞ。
小松原織香「承認欲求の地獄から抜け出すために」(オルタ2008年11・12月号、PARK)
http://www.parc-jp.org/alter/2008/alter_2008_11-12.html
私は「わかりたい」という男性を拒絶しようとは思わず、「わかってほしい」と思うけれど、「わからせてほしい」という男性には「わからせてやるもんか」と思う。ある人が、そのどちらかということは、個人的な関係であれば、何度も性について議論を繰り返し、あるときは「わかってもらえた」と思えたり「やっぱりわかってもらえない」と思ったりという、揺らいでいく中ではっきりと見えてくる。そうしてこの人は「わかりたい人」なんだと思える関係性を、一般的には信頼関係と呼ぶ。でも、インターネット上のこうしたやりとりだと、そんな信頼関係が築けるとは到底思えない。(少なくともブックマークコメント、コメント欄では)というわけで、自分は「わかりたい人なんだ」と思う人は、目の前の女性とやりとりを始めてみるといいと思う。