恋愛・結婚しないのは「権利の行使」なのか?

 シロクマ(id:p_shirokuma)さんの以下のような記事がネット上で話題になっている。

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190624/1561360692

 

  シロクマさんによれば、日本で男女が結婚・恋愛をしなくなったのは、文化的因習がなくなったためである。「結婚・恋愛しなくてはならない」という規範がなくなった結果、人々は資本主義に則って経済的に不利であるから(=コスパが悪いから)、そのような関係を求めなくなったとシロクマさんは分析する。さらに、シロクマさんは、特に東京の人々にはそのような振る舞いが顕著であり、これは日本社会における模範であるとし、次のように述べる。

自分自身が恋愛可能かどうか、ひいては子育て可能かどうかを、模範的な未婚男女はしっかり考える。経済合理性にもとづいてよく考え、可能なら、恋愛や結婚を選択肢のひとつとみなす。もちろん東京のような都市空間では子育ては難しいから、東京の未婚男女はしばしば結婚を諦めるし、ときには恋愛をしようという気持ちすら起こさない。少子高齢化という視点でみればゆゆしき事態だが、経済合理性の透徹という意味では、きわめて洗練された身振りだ。

 以上のように、シロクマさんは東京の人々が恋愛・結婚しないのは、経済合理性に基づく選択であるとみなすのである。他方、シロクマさんは、「欧米*1」の人々はカップル文化やデート文化といった文化的因習があるから、恋愛・結婚をする、いまだ自由のない社会であると分析する。シロクマさんが考えるのに、恋愛・結婚に向けた「出会い」を求めるとは偶然性に満ちたことであり、予測不能なことであるので、経済合理性を妨げる。そのため、シロクマさんは、現代の日本社会における「出会い」は人々にとってノイズであると考える。そして、以下のように結論づけている。

 資本主義や社会契約や個人主義が徹底して、「出会い」というノイズが減っていくのは、少子高齢化という視点でみればおそらく危機だろう。しかし、資本主義・社会契約・個人主義の進展、civilizationという視点でみれば未曾有の達成であり、社会制度や慣習が人間の生殖本能を制圧した記念碑的状況といえるのではないだろうか。
 資本主義や社会契約や個人主義を司る人々は、この現状を嘆くべきではなく、賛美すべきではないかと私は思う。

  以上のように、シロクマさんは「資本主義や社会契約や個人主義」を支持するのであれば、社会は結婚・恋愛をしない方向に進むというのである。これについて、私から以下の三点について指摘しておきたい。

(1) 「恋愛結婚」こそが近代の「個人主義」の産物である

 近代以前の結婚制度は、「財産の相続」と「共同体秩序の安定」のために設けられていた。ところが、近代になると個人の内面に焦点があたり、「親密性」に基づく家族観が醸成されてくる。その結果、「恋愛結婚」が樹立されていくのである。個人の感情や経験に基づいて、自己の選択として結婚する相手を決める権利が付与されていくのである。日本でも憲法24条において「結婚の自由」が認められており、誰と結婚するのかについて、結婚する当事者の意思が最優先されるのである。

 しかしながら、シロクマさんのいうところの、恋愛・結婚の文化的因習が真に作動している社会においては、結婚は当事者の意思ではなく、親族に決定権が与えられる*2。すなわち、文化的因習によって結婚・恋愛しなければならない社会では、「出会い」は重視されない。むしろ、こうした社会でこそ、「出会い」はノイズである。いく世代か前は(そして現代においても)、「出会い」によって恋に落ちた人々が、文化的因習によって望まない相手と結婚したというエピソードは溢れている。いわゆる「親のための」「イエのための」結婚である。

 したがって、「出会い」に基づく恋愛結婚は、個人主義によって生まれてきた。また、結婚を共同体を維持するための親族関係ではなく、社会契約とみなす思想も近代において現れた。概括すると、近代以降において、恋愛・結婚することは「自由に配偶者を選ぶ」という「権利の行使」になった。文化的因習が撤廃されたからこそ、恋愛結婚が可能になったのである。人間は自由になると恋愛結婚しないのではない。人間は自由になったから恋愛結婚をするようになったのである。この点をシロクマさんは書き落としているように見える。

(2)「合理的判断」と「偶然の忌避」は別の問題である

 合理的判断とは、物事に対して何が正しく、何をすべきかを判断することである。なぜ、近代以降に全ての人々に様々な権利が与えられたのかというと、人間はみな、合理的判断に基づいて権利を行使できるとみなされたからである。女性になかなか権利が与えられなかったのは、女性には理性がなく、権利を与えても合理的判断ができないという差別・偏見が根強かったことに一因もある。また、長らく続く(特に知的・精神)障害者差別も同様である。(1)で述べた恋愛結婚において、その権利を行使する場合にも、合理的判断に基づくことが前提とされている。恋愛結婚ができるのは、その人々が合理的判断に基づいて権利を行使しているとみなされているからである。

 それでは、恋愛結婚をする人は偶然的な「出会い」というノイズに直面しつつ、どうやって合理的判断をくだすのだろうか。それは、人間の常に多面的な思考を同時に行なう能力によってである。確かに「出会い」というのは予測不可能であり、経済合理性とは関係がない。もっと言えば、「恋に落ちる」とは最も不条理なことである。「好きになる相手を選べない」ということは、巷にあふれる恋愛についてのエッセイや創作物で繰り返し描かれてきたことである。では、そうした感情的で理性を超えた事象の前に、理性は屈するのだろうか。そういう場合もあるだろう。だが、人間は自分に起きた事象を突き放して合理的に思考することが可能である。むしろそうであるからこそ、人々の結婚の自由が与えられたことは前段で述べた。人間は不条理な状況においても、合理的判断を下し、結婚を選択するとみなされているのである。

 さらに、この結婚が合理的判断であるというのは、「みなし」でしかない。実際にはとても理性の働かない状況で結婚することを選択する場合もあるだろう。だが、近代法においては、「結婚は合理的判断に基づく社会契約である」ということになっているので、結果としてそうみなされるのである。もし、合理性を追求する立場であっても、「出会い」を忌避せずに、偶然的な状況の中で合理的判断をくだすことは可能である。少なくとも、その行為を合理的であると呼ぶことはできる。したがって、シロクマさんのいう、現代日本の人々が合理性を追求するがゆえに、恋愛・結婚しないというロジックは成り立たないのである。加えて言えば、「欧米」の人々は文化的因習に縛られているから恋愛・結婚するのではなく、「出会い」という偶然を忌避せずに、その状況の中で合理的判断として結婚することを選択している、とも言うこともできるのである*3

(3)権利は保障されて初めて行使される

 (2)で考えてきたことに即して言えば、欧米では合理的判断に基づいて恋愛・結婚がなされているのに、日本ではできないことになる。その際に、比較すべきことは結婚ひいては子育てについての制度だろう。この点については、欧米はひとくくりにできない。シロクマさんが記事の中で言及しているフランスに限って言えば、離婚後の生活再建やシングルによる子育てに対する支援制度が充実している国である*4。また、PACSと呼ばれるパートナーシップ制度が設立され、婚姻と同様の税制上の措置が受けられながらも、離縁後の手続きが婚姻よりも簡単である。フランスではこうした制度上の保障により、恋愛・結婚したあとも、合理的判断に基づいて人生を別の方向へ舵取りできるのである。

 それに対して日本はどうだろうか。日本における子育て支援策は貧弱であり、婚姻していても育児する保護者の負担は課題であることは言うまでもないだろう。ましてや、シングルマザーの貧困率は先進国でも突出して高く、離婚後の生活再建は大きな課題となる。また、子どもがいなくても、女性の労働についての不平等もあり、離婚後の賃労働による収入も著しく低いことが多い。さらに周囲の人々の離婚した当事者への差別・偏見も強く、いまだ「離婚する人=問題がある」とするような価値観も根強い。こうした状況の中で、DVにあっていても離婚できない被害者は少なくない。一度、結婚してしまうと、その後の人生の舵取りは困難である。こうした状況は、(特に女性に対して)間違いなく結婚することへのハードルをあげているだろう。

 日本において、恋愛・結婚をすることを進める人々は、それらのポジティブな側面を強調する。家庭を持つことで責任が芽生え、子どもを持つことで思いもよらない幸福な経験をすると言う。だが、いくらポジティブな側面を強調しても、ネガティブな側面はなくならない。「もし、うまくいかなくなったら」「もし、暴力を振るわれたら」という不安を人々は常に襲うだろう。それに対して、目の前にある危険を無視して飛び込め、と言われても多くの人々は尻込みする。なぜなら、日本ではもしそこで窮地に陥っても「自己責任」だと言われて、支援を得られないからである。そのため、合理的判断はリスクを避けることに重きを置く可能性が高い。他方、フランスのように十分な支援の制度があれば、人々はネガティブな側面への不安をやわらげ、恋愛・結婚へ飛び込むように背中を押すかもしれない。もちろん、それでも恋愛・結婚を望まない人はいるだろう。だが、フランスでは恋愛・結婚は活発になり、日本では消極的になったのだから、保障制度を比べてみる限り、前者の策が良かったと判断するのが妥当だろう。

 以上のように、自由が法に明記され、法的に権利が付与されるだけでは、人間が行動に移すには不足である。人間は、権利に関する十分な保障があって初めて、権利を行使するようになる。翻って見れば、権利を行使しないことは十分な保障がないからだとも言える。すなわち、現代日本の人々が恋愛・結婚しないのは、その権利を行使しているのではなく、恋愛・結婚する権利を行使できない状況にあるとみなせるのである。

 ここまで、恋愛・結婚する(そして少子化を解消する)方向で話を進めてきたが、私自身が実際に少子化の解消を望んでいるわけではない。なぜなら、現代日本の人口は近代国家の政策によって過剰に膨れ上がったと考えているからだ。近代以降、国家は戦争に行く兵士を育てるために、「富国強兵」の一環として人口政策を進めてきた。その政策のもとに日本の人口は増えた。しかしながら、戦争を放棄し、今後も平和な社会を存続させるのが前提であれば、人口が増えるべき理由はない。

 他方、日本の年金制度をはじめとした保障制度は、人口増大を前提として設計されている。いずれこのまま少子化が進めば、その制度はすべて破綻するだろう。そのため、国家は経済的合理性に基づいて、恋愛・結婚することを求めているのである。それは、シロクマさんが言うのとは逆に、人々から偶然性を奪い、管制の婚活サービスで「出会い」を作り、子どもを産むことを進めるような政策として反映される。おそらくこの政策は失敗に終わり、少子化は止まらないだろう。そして、年金制度は破綻するだろう。そうであれば、縮小する人口に合わせた新たな社会保障の制度設計が必要なはずである。現在の政府はそれを先延ばしにし、実効性のない恋愛・結婚を人々に勧める政策を打っている。私自身は、少子化解消よりも、日本の社会の現実を見据えた社会制度の議論が始まることを望んでいる。

*1:この文脈において、欧米というのはカテゴリが大きすぎる。ヨーロッパ・北米における恋愛・結婚に対する価値規範は大きく異なる

*2:なお、自民党改憲案において配偶者の選択の自由の文言を削除している。この改憲案がイエ制度の復活させる可能性があることについて、山口智美さんが繰り返し指摘している。→

https://blogos.com/article/340814/ 

*3:これはあくまでも論理的に言い得るということであり、実態の分析ではない。

*4:その理由は移民流入により「白人」の「フランス人」の割合が減少したことに対する対抗策が取られたことでもあるので、一概に賛美はできない。だが、もちろん「白人」以外も支援制度は利用できることは言うまでもない