船には乗っていません、という話。

ハーバード大学のサンデル教授の倫理学の授業を紹介する番組*1が評判になっている。番組では、「究極の選択」を学生につきつけ、そこから合理的判断を導くように議論させる方式の授業が放映されているようだ。私は、番組自体は実際に視聴していないが、こうしたワークショップ形式の授業を受けたことがある。
 id:x0123456789さんが、こうした形式での倫理学を批判している。

「究極の選択は倫理的行為なのか」
http://d.hatena.ne.jp/x0123456789/20100425/1272180857

私もまた、こうした倫理学には批判的ではあるが、x0123456789さんと同じ考えではない。私は、極限状態における倫理を問うてきたし、これからも問うていくだろう。ただ、サンデル教授のような倫理学との違いは、繰り返し「私たちは、その現場にはいない」ということを強調することだ。
 x0123456789さんは、2007年の障害学会において、次のような極限状況の倫理学を批判的に論じている。

魚雷が戦艦「北方精神」のエンジン室を破壊。戦艦は瞬く間に沈み始めた。「船を捨てて逃げろ!」と冷酷無常なフリントハート船長が叫ぶ。だが、もうこれ以上、救命ボートは残されていない。仕方なく大勢の船員を詰めこんだボートは、舳先に船長を乗せて、沈んでゆく船から何とか離れようとしている。大西洋の冷たい灰色の海は、助けを求める悲壮な叫び声であふれている。これ以上の船員を乗せれば、この小さなボートが転覆して、すでに乗っている人間の生命まで危うくしてしまう……。その危険に直面したとき、さらに1人でも多くの船員を救い上げるべきだろうか
http://www.arsvi.com/2000/0709ny.htm

そして、x0123456789さんは次のように言う。

これはまさに「究極の選択」の場面であろう。そしてコーエンは、「船員を見捨てる」「1人自ら冷たい海中へ飛び込む」「船長を突き落とす」などの「倫理的答え」を模索しようとしている。だが、これは本当に倫理を探求していることにはならない、と本報告は主張する。
 そのような「究極の選択」に追い込まれたときにせざるを得ない「決定」とは、「処世術」なのであって、「倫理」ではない。そのような場面において、倫理は何ら効果を発揮しない。倫理はもっと手前において思考されるべきものなのである。そのような場面においては、ただ淡々と処世術を実行してしまうに過ぎない。そのような場面でとってしまう/とらざるを得ない行為を倫理と呼び正当化しようとするのは、道徳的詐術である。追い込まれた状況であっても、「選択しなければならない現実」はある。しかしその選択が、倫理的に正当化されるからそのように行為すべしというのは、端的に言ってごまかしなのである。「選択しなければならない現実」を前にしては、あらゆる倫理は諦念せざるを得ない。

私も大筋では、x0123456789さんと同意見である。だが、細かな違いも含めながら、私の言葉で、「このような究極の選択について考えること」が「本当に倫理を探求している」といえるかどうかについて、思考したい。
 私がここで強調することは、「しかし、私は船に乗っていない」ということである。どんなに、船に乗っていることを想像しても、それは想像でしかない。その場にならないと、究極の選択において、自らがどう判断するのかは、わからない。あまりにも環境依存的な判断だからである。そのときの乗船メンバー、自分自身の心理状態、実際に小船の上でなされる言語的・非言語的コミュニケーションの中で、私は「とっさ」としか言いようのないような判断を下すだろう。あらかじめシュミレーションしておけるようなものではない。
 では、私にとって極限状況の倫理を問うとはなにか。それは、今現在、船の上にいる人たちに、何を言い、どうするのか、という倫理を問うことである。実際に「とっさ」に、ある人々を犠牲にしながらも、現状の社会を支えている人たちがいる。その人たちの判断を、「倫理ではない」とは私は言わない。それどころか、それこそが倫理であるかのような、究極的な倫理であろう。他者の罪を背負い、自らの責任として引き受ける点において。
 たとえば、日本で死刑を執行する人たちがいる。かれらは、実際に人を殺す。本来は、「日本人」が死刑制度の存続を承認する限り、すべての「日本人」が死刑囚を殺している。「日本人」全員が、殺人者であるのだ。だが、多くの「日本人」はそのことを忘れて暮らしている。まるで、自分が人を殺したことがないかのように。だが、死刑を執行する人は、人を殺すことに直面し、それを自らの人生の中に深く刻み込む。かれらが、なぜ死刑を執行する役についているのかはわからない。生きていく生活の糧を稼ぐためかもしれないし、なんらかの理念のためかもしれない。かれらは、それを職業としており、退職することで免れることができる。だが、死刑制度がある限り、死刑を執行する人はい続ける。かれらは、総体としての「日本人」の責任を、わが身に背負うことになる。かれら、一人ひとりが死刑を執行する役につくことについて、倫理的に考え判断するとき、私はそれを「倫理ではない」とは言わない。それは、まさしく倫理であろう。かれらが、かれらである限りにおいては。
 そして、こうした現場で下される、倫理的判断の声を、私たちは聞き続けなければならない。それは、シェイクスピアの「ハムレット」の冒頭場面で現れる、父王の亡霊のようなものだ。「私は弟に謀殺された。復讐せよ」と、若き王子は告げられる。この声から、王子の葛藤は始まるのである。犠牲になった人たちの声は、私たちに付き纏い悩ませる。こうした声から逃げてはならない。
 同時に、私たちは、船に乗っておらず、死刑執行人ではない。そして、殺されていく人々も、<私>ではない。倫理とは、現場にいる人に成り代わり、シュミレーションして、ベストソリューションを出すことではない。現場にいる人に対し、現場ではない場所から、何を言い、どうするのかを考えることである。もちろん、自ら現場に飛び込むこともあるだろう。そうでないこともあるだろう。当事者でない限り、当事者と同じレベルでの倫理的判断はできない。別のレベルから、倫理的判断を思考する。私たちは、すべての問題の当事者になることはできない。ほとんどの問題で、第三者であり続ける。「当事者に寄り添う」「共に生きる」という言葉の薄っぺらさと、その言葉の元に行われてきた第三者から当事者に対する暴力は、ここ4,5年で急速に焦点が当てられている。当事者に近づけば近づくほど、当事者と第三者の断絶は深まり、緊張が高まり、暴力が起こりやすくなる。そうした接近によって、ある第三者が、ある種の「当事者性」を纏っていくプロセスもある。それでも、やはり、私たちは、多くの問題で当事者そのひとではない。こうした困難を前に、「暴力をふるうくらいなら、何もしないほうがマシだ」という逃げ口上が横行する。しかし、かれらに倫理的判断を肩代わりさせながら、自らの手が汚れていないふりをする、その<私>こそを、倫理的に問うべきではないか。
 当事者の倫理と、第三者の倫理は、レベルが違う。当事者の倫理は、現場から発され、亡霊のように私たちに付き纏う。それは、決して、教室で先生が例題として質問するようなことではない。いま、ここで、誰かを犠牲にし続けて、私たちの社会がまわっており、私たちはそれに目をつぶって、まるでそんなことはないかのように振舞っていること。私たちは、現場にいない限り、現場の判断はできない。だから、現場ではない場所では、別のことを思考しよう。つまり、その当事者が、そのような倫理的判断を強いられるべきなのか、ということについて。そして、その当事者が、そのような判断をせざるをえないに至った経緯とは何か、社会的背景とは何かを問わねばならない。
 この時点で、x0123456789さんと私の議論は、ほぼ同じ結論にいたる。すなわち、「当事者が選択を強いられている」ことの政治的問題を扱うという結論である。なお残るx0123456789さんと私との相違は、「当事者の選択を倫理と呼ぶのか」「こうした選択をする状況をなくしていくことが倫理である、と結論付けるか」である。この点は、もう少し分け入った議論をしたいと思っている。