当事者が語ること・当事者以外が語ることについては、ブログでも何度も書いているので、自説は割愛する。
その上で、考えたことを列記しておく。
1 苦痛を語ることについて
(1)他者の苦痛を語ることについて
他者の苦痛(痛み)は語りえない。という結論でよいと思う。しかし、語らなかければいいというものでもない。「私にはあなたの痛みがわかりません」という言説を表明することは、潔く勇気があるかもしれないが、それだけの話である。たいていの人は「そうだよね」と言うが、それで終わる。*1さらに、そういうことを言われたほうは、「理解されない」という絶望の海にはまっていくいことはある。その経験について、率直に述べている人もいる。
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(2)自分の苦痛を語ることについて
そもそも苦痛を苦痛と認識するとはどういうことか。「苦痛」という言葉を使うときに、それはその言葉を使う人の間で、「苦痛」がどういうものか共有されているのが前提となる。しかし、それは(1)と矛盾する。そこで、「私は苦痛を持っている」という当事者である、ことをどう確認すればよいのか。確認する方法はない。だから「私は苦痛を持っている」という言葉は常に後に「かもしれない」という言葉が、発言者の胸のうちで付け加えられている。そこで、当事者は「苦痛を持っている」といいながら、それが本当なのかどうか、自分自身で疑い続ける。これは、苦痛を語ること、それ自体が苦痛であるともいえるだろう。
2 語ることを批判する「語り」は可能なのか
ジャック・デリダは、よく講演会の語りだしで「フランス語によって発話すること」という問題を出してくる。それは、フランス語で話し出した時点で、フランス語が理解できない人を排除する、という問題である。ゆえに、「語り」はその言語が理解できる人だけへと向けられており、差別的であり、排除の暴力を含む。しかし、デリダはその語りの暴力性について、語る。フランス語で。
たとえば、私の記事が東浩紀やkanjinaiさんの言説と並べて批判される。そのとき、私の「語り」の固有性・唯一性は剥奪される。そもそも、「語り」の倫理性というフレームをはずして、私の「語り」についての語りを批判することは出来ない。「語り」について語ることが暴力であれば、「語り」について語る「語り」について語ることも暴力である。これは自己言及が続いていく。何か話し話せば、すべて暴力である。
暴力を正当化することと、暴力をふるうことは違う。しかし、それが正当化されているのかどうかを、判断することも、一つの暴力ともいえる。では、私が暴力をふるってから、同じ暴力を持って止めることは正しいのか。それは「お前のために」とふるわれる暴力である。
3 黙ることは倫理的態度か
左翼知識人の一部は、黙る。上品な態度である。しかし、黙ることで何が出来るか。それは、自分がフレームを通してしか他者を認識できないことを、隠蔽することができる。フレームを通さず、他者の苦痛をありのままに感じられるのだろうか、私たちは。そういう人もいるかもしれない。しかし、私はそういう人が多いとは思えない。少なくとも、私はフレームを通してみている。
そのフレームを晒すことによって、当事者から批判がくるかもしれない。*2しかし、批判に対して応答することは、言いなりになることではない。そこで議論が始まる。しかし、多くの場合は、権力関係により、うまく議論できない。そこで、議論の整備をする。それでも議論が不可能な場合もある。やはり黙るしかない、場合もあるかもしれない。しかし、すべての場合が議論不可能であるわけではない。やれるなら、やればいい。
しかし、黙りたい人に対して、私は強制するつもりはない。黙りたいならば、黙ればいい。だが、黙っていることが、倫理的に正しい態度、というわけでもない。その人は、ただ黙っている。それだけである。
追記
id:kihamuさんから、すごい題名の返事が来た。
「自分、ええ根性しとるなあ」と、思いました。ははは。
一応、質問があったので、答えておきます。
では、一体何が倫理的な態度なのだろうか。
自らの欲望のままに、行為し、その全ての責任を自分で引き受けるしかない。しかし、その行為自身は倫理的態度ではない。正当化できない。倫理的態度がどうかは事後的に判断される。よって、行為の瞬間には、それが倫理的態度がどうかは、わかりえない。以上。
あとは、知らん。自分で考えたらいいやん。私、あんたの友だちちゃうねん。