光市母子強姦殺人事件、差し戻し審、死刑判決

 死刑確定ということで、マスコミの多くは加害者の実名報道を始めたようだ。少年事件の匿名報道は、加害者の更生・社会復帰の可能性を配慮して行われている。それがなくなった、ということである。それでも、中日新聞は匿名報道をしているし、毎日新聞も匿名のようだと、友人が報せてくれた。マスコミも一枚岩ではない。こういうときの、各社の方針は確認したい。
 長い裁判だった。13年もの年月が過ぎた。光市母子強姦殺人事件に対する、世論の反応や、裁判の揺れ動きは、日本の犯罪被害者の運動の象徴と言っていいと思う。これは悪党に社会が制裁を加えるような、大活劇ではなかった。正義が勝利したのではない。被害者が救われたのでもない。マスコミの煽り立てのもとに、報復感情を煽られた世論が、死刑を支持し、18歳の少年を殺すことを選んだ。私たちが、彼を殺すことにしたのだ。
 私にとっても、とても重要で、いつも、何をどう考えるのかを迫られる、試金石になるような事件だった。一時期、被害者の権利運動の現場の近くにいたこともあり、いつも感情を揺さぶられてきた。私は、被害者が殺したいということを止めようと思わない。それは十分に表明され、周囲に理解されるべき感情だ。しかし、殺すことを実行することは支持しない。だから、死刑制度を支持しない。被害者でない第三者は、被害者の気持ちを共感的に受け止めながら、理性的に思考し、政治的な判断を下さなければならない。この社会を作る一員としての責務である。
 死刑がなければ、被害者の絶望はなくならない。しかし、死刑が執行されたって、被害者の絶望はなくならない。取り返しのつかない過去はある。誰にも埋められない喪失がある。抱えていかざるを得ない傷がある。償いも、謝罪も、届かないような絶望。それでも、生き延びた人たちには、絶望がなくならなくても、不幸ではないような、人生が開かれている。そう信じている。それは、何の根拠もないし、神様も仏様も信じない私にとっては、なんの導きもなく、一人で呪文のように繰り返し他人に伝える信仰でしかない。ほかには、何もない。被害者は、殺したって、殺さなくたって、絶望してるけど、幸せにはなれるんだ、と、できるだけ気楽そうに言いたい。当事者に、それが、なんの慰めにもならない無神経な言葉として聞こえると知っているけれど。
 このブログでも、繰り返し、死刑については触れてきた。目に付くものだけあげておく。4年も前の文章なので、多少、考えが変わっているところもあるが、大筋は同じことを言っていると思う。一番、私の核になる考えは「『もし〜だったら』のむなしさと力」に書いている事だ。後半の思弁的な部分は、練り直したい。

2008年2月16日
「被害者と労働問題」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080216/1203144529

2008年4月21日
「被害者と政治」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080421/1208792839

2008年4月24日
「死刑判決の妥当性ではなく」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080424/1209047120

2008年5月9日
「死刑を求めなくてよい社会を」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080509/1210291393

2008年5月12日
「『もし〜だったら』のむなしさと力」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080512/1210556138

2008年11月1日
「「裁判員制度――死刑を下すのは誰か」(『現代思想』10月号)」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20081101/1225553470

2009年7月20日
「原田正治「弟を殺した彼と、僕。」」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090720/1248103729

2010年1月28日
「原田正治「赦せないからこそ、会いに行く」(『くらしと教育をつなぐ We』)」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100128/1264680155

2010年4月26日
「船には乗っていません、という話。」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100426/1272281245