非営利のはてな村とロスジェネの遺産

 ずるずると終わらない「はてな村論」ですが、お金の話が出てきて、だいたいの結論は出たと思います。こちらの話の通り、はてなに記事を書いても儲からない。一時期は、商業誌ライターへの登竜門であったこともありましたが、今はnoteのほうが優勢でしょう。本当にただの「ブログを書く場所」が今のはてな村です。才覚ある人々は出ていってしまった。

phenomenon-2.hatenadiary.org

 ネットで「マネタイズ」という言葉が流行ったのもずいぶん前のことです。いまや、ネットで書くことで金銭を得るのは当たり前のことになりました。出版社が作家の連載を企画し、それが再録されて本になる時代です。私が初めてインターネットに接続したのは1998年ですが、当時は検索ツールもなく、私は何をしていいのかわからないので、なぜか山伏が修行している写真が掲載されているサイトを延々と見ていました。20年でネットは全くの別物になりました。

 かつては批評家の東浩紀さんも、はてなにいました。彼は今はゲンロンという会社を立ち上げて経営者になっています。最もマネタイズに成功した文筆家の一人でしょう。会社経営についての新書も出されていますが、面白かったです。

 印象に残ったのは、経営の失敗の根幹には「俺みたいなヤツを集めたい」という想いがあったというくだりです*1。つまり、「すごい人たち」が集まって新しい分野を切り拓き、ビジネスを成功させたいという夢があったのです。 そこから、東さんはビジネスでは自分とは異なる価値観を持つ、「俺とは違うヤツを集める」方向に転換することで経営の危機を乗り切っていきます。非常に説得力のある話でした。

 他方、いま、はてな村に残っている人たちからこういう成功譚が出てくるとは思いません。そもそも「すごいヤツを集めたい」という気概が全く感じられない。先日のトークイベントでもそれは顕著でした。

ta-nishi.hatenablog.com

 このイベントには、会の進め方について批判も出ているのですが、聞いていて感じたことは「誰もマウンティングしない」ということです。誰も「自分はうまくやってる」とか「あいつはダメだ」とか言い出さない。何を話しているのかというと、「自分にとって書くこととはなにか」とか、「自分が伝えたいことはなにか」とか実存的なことばかりです。つまり、相変わらず「自分探し」をしており、経済的・社会的成功の話に繋がっていかない。全然、儲け話に発展するいとぐちはありませんでした。そして、それは私の心性とも重なっています。

 私はその背景には、少なからず「ロスジェネ」と言われた世代感覚があるのだろうと思っています。特に、2000年代後半には自己責任論が吹き荒れ、経済的・社会的成功は個人の能力と努力に還元されました。今、振り返ってみれば不景気を理由に企業が雇用を絞ったため、多くの若者たちが職を得られなかったのですが、当時の世論はそれを「若者たちの努力不足」や「弱さ」で説明しようとしましたし、政策的にも若年層の失業や貧困への対策はほとんどありませんでした。もはや、その頃は「正規雇用」にありつくことが「すごいこと」でした。また、就職後も過重労働やハラスメントが頻発していたため、多くの若者は非正規雇用の仕事を転々としていました。(私も含めて)当時の若者は自分の内面に原因を求める圧力が異様に強くかかっていました。

 そのオルタナティブが「居場所」です。一部の若者たちは、フリースクールやシェアハウス、自助グループなどに、オルタナティブな場所を探していきました。私もその一人です。「すごくない人」でもボチボチ、ゆるゆるとやれる場所が欲しいと思っていました。実際には、そういう場所は、人間関係が上手くない人が集まるため、揉めごとも多いのですが、いわゆる能力主義とは違う価値が守られているように(少なくとも当時は)見えました。「すごくない人」たちが、自分を語り、自己表現していく場がそこには蜃気楼のように浮かんでいました。

 はてなで、そういう幻想を抱いた人が今も「はてな村論」を続けているのかもしれません。はてな村に内実はなく、一部の人たちの「集団幻覚」や「共同幻想」に名前がついたもの。守りたいのはその幻想であって、現実の利益ではない。

orangestar.hatenadiary.jp

 私はこういう心性がどれくらいの人たちが共有するものなのかはわかりません。個人的には50代、60代の人たちは、このような「居場所」は唾棄すべきものとし、ともすれば「傷の舐め合い」とも言い出す印象を持っています。

 他方、この心性が特殊なものかと言えばそうでもないと思っています。たとえば、私はいま水俣病の研究をしていますが、作家の石牟礼道子が社会運動の中で「もうひとつのこの世」というキーワードを創出しています。「もうひとつのこの世」とは、生きていくのがつらい人たちが夢見る、共同幻想です。これは、水俣病運動の中で語り継がれていく重要なキーワードなのですが、具体的な定義やビジョンがあるわけではなく、それぞれが勝手に思い描く「もうひとつのこの世」を語り、それが水俣病運動の一つのエネルギー源になりました。という話を、私は英語の論文で書きました*2。石牟礼はそれこそ文学的に「すごい人」なので、「もうひとつのこの世」論の強度は、はてな村論と比べてものにならないのですが、その基底にある心性は共通するようにも思います。

 「私のようなものでも生き延びれる場所」がはてな村だったのではないでしょうか。そこにあるのは、社会の圧力により傷ついた自己愛を癒し、承認が得られる場所、という夢です。それと同時に、トークを聴いていて思ったのですが、今こんなふうにはてな村を語る人たちはみんなすでに「生き延びた側」だということです。はてな村にも残らなかった/残れなかった人たちもいるし、死んでいった仲間*3もいました。そして、残った自分が「すごい」とはやはり思えない。そう思うことに罪悪感すらある。私たちが若かった頃、宮台真司さんが売れっ子で『終わりなき日常を生きろ』というフレーズがまだまだ有名でした。

  でも実際には、ロスジェネ世代の日常は薄氷の上にあり、いつ崩れてもおかしくない予感とワンセットでした。明日、この生活は水泡に帰すかもしれないという恐怖のなかで生きてきて、いま、自分がここにいるのは幸運だと思います。「すごくない私」が生きられる場所があったことは、はてな村の幻想と結びつき、強烈にそれについて語りたくなる。そういう話ではないでしょうか。

 ただ、次の世代はもうはてな村の夢は見ないし、興味もないでしょう。時代が変わったからです。では、もうはてな村論に意味はないかというと、そうでもないように思います。この一連のやり取りの中で、お互いがキーワードを借用しあい、それをヒントに自分の考えていることを書いていくプロセスはやっぱり私には面白かったのです。外からはわからないかもしれませんが、本人たちはおそらくお互いが呼応していることがわかります。このゆるいやりとりが「居場所」にあるものです。

 そして、私が思うことは、本来はこういう議論をアカデミズムでもしたかった、ということです。業績主義や権威主義に縛られて、どっちが偉いだの、誰が有名だのという話を傍に置いて、お互いの言葉に反応しあいながら、学問的な議論を私はしていきたいのです。それは、今の私の(日本の)立場ではとても難しいことです*4

*1:いま、手元に本がないので正確な記述とは異なります

*2:本当はもう公開されているはずだったのですが、遅れに遅れ、来年1月ごろ正式に発表されます。査読は無事に通過しました

*3:比喩でなく

*4:今の海外の環境では、それができるので私はとても楽しいのですが、理由がよくわからない。業績主義はこっちのほうが過酷なのですが。