男性から男性へ語ること

 ナインティナイン岡村隆史さんの発言が大炎上している。岡村さんは2020年4月27日のラジオ番組の「オールナイトニッポン」で以下のように発言した。

苦しい状態がずっと続きますから、コロナ明けたら、なかなかのかわいい人が短期間ですけれども、美人さんがお嬢やります。これ、何故かと言うと、短時間でお金をやっぱり稼がないと苦しいですから、そうなった時に今までのお仕事よりかは。 

スポニチによる書き起こし記事を参照)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200427-00000196-spnannex-ent

 はじめに書いておくが、私はこの岡村さんの発言は下劣だと考えている。この発言から滲み出るのは、「経済的に苦境に陥った女性たちを高みの見物をして楽しむ態度」であり「その女性たちの頬を札びらで張る態度」である。すなわち、経済的に恵まれ*1、安全な場所から女性たちの困難を見下ろして楽しんでいる態度が、岡村さんの発言からは読み取れるのである。これは下劣であり性差別的であると言えるだろう。

 それと同時に、岡村さんの発言に対する周囲の反応は総じて批判的でありながら、実は内容は様々に異なっている。そして評価が大きく割れたのは、上記の発言が起きた翌週の、4月30日の「オールナイトニッポン」で矢部さんが出演し、岡村さんを批判したこと、さらにその内容についてである。矢部さんを支持した人もいれば、批判した人もいる。私はどちらかと言えば、矢部さんを支持する側に立っている。

 そこで私は矢部さんによる岡村批判を中心に、以下で3つの点について書いておきたい。なお、この件について考えるためには、実際に当日のラジオ番組を視聴したほうが良いと思う。2020年5月4日まではradikoというアプリで番組がいつでも聴ける状態であるので、ぜひ確認して欲しい。岡村さんと矢部さんのやりとりは、あくまでも話し言葉*2の掛け合いであるため、書き起こしでお互いに伝えようとしているニュアンスがわかりにくい。

(1)痛みとともに語ること

 矢部さんの発言は、フェミニズムの視点から厳しく批判されている。これは、矢部さんが岡村さんの発言の背景には、性差別があるが、それを是正するために女性と付き合い、結婚するべきだという趣旨の話をしたからである。これは、男性が自らの偏見を乗り越えるために、女性を道具的に使おうとする態度であるとして批判された。矢部さんの発言は、一見、反性差別のようだが、実際には男性同士が女性について勝手に役割を決めて負わせようとする、性差別的振る舞いだというのである。

 これについては、実際の発言内容の字句を追っていけば、全くその通りだと言えるだろう。矢部さんは、岡村さんを批判する中で、典型的な家父長制に基づく男性像を何度も披露している。たとえば、「女の人はすごい」「男のほうがアホだから女の人に甘えてしまう」「結婚して子どもができたらお母さんが監督」などの発言は、男性が女性に抱く「聖母」の幻想であると言えるだろう。男性も女性も同じ人間であり、互いを尊重していくというシンプルな反性差別ではなく、家父長制の中で女性の地位を向上させようとしているにすぎない。全くラディカルではないため、フェミニズムの視点からは不十分であると言われていることには私も同意する。

 それと同時に、私は矢部さんの発言を素朴に「よい」と思った。なぜなら、このラジオ番組で矢部さんが言葉に詰まりながら、岡村さんに伝えようとしていることは、「人は変われる」ということだと聞き取ったからだ。矢部さんは一方的に岡村さんに「説教」する形をとっているが、実は自分の恥もさらしている。19歳の頃の矢部さんは、すぐに芸人として芽が出た岡村さんとは違い、自信をなくし自分の殻にこもってしまい、周囲の先輩ともうまくいっていなかった。その頃の矢部さんに、岡村さんは「性格を変えろ!」と一喝した。それから、矢部さんは自分を変えようと努力し、先輩たちとのコミュニケーションを取るようになっていき、上手くいくようになった。だからこそ、矢部さんはいま、49歳の岡村さんに「性格を変えろ」と言うのだという。

 ここで、矢部さんが「変えろ」だというのは、先の発言内容だけではなく、女性や目下の人に対する態度の全てである。特に女性に関しては、岡村さんは過去にトラウマを持っていることもあり、女性を敵だと思っているところがある。また、「全く女っ気がないとは誰も思っていない」と指摘し、いくらでも女性とデートのチャンスがあるのに、それを自ら拒み、風俗をネタにするキャラに徹しているのだと言う。その流れで矢部さんは「結婚したら?」と岡村さんに投げかける。この矢部さんがいう「結婚」という語の意味は、トラウマを乗り越えて女性と向き合い、相手の両親と会っていくなかで、社会的に関係を認めてもらうプロセスから逃げないということを含んでいるようにも思う。

 矢部さんは、自分たちの世代もまた男尊女卑の影響を受けており、父親や祖父もそうであったことを認めている。それでも、矢部さん自身は結婚して子どもを育てる中で、女性に対する見方が変わっていったと考えている。だからこそ、矢部さんは変わるために岡村さんに結婚を勧めるのである。

 この話についても、フェミニズムの視点からは、やはり批判があるだろう。一番の問題は、「女性と向き合うこと」=「恋愛」「結婚」という前提があることである。職場であったり、趣味の場であったり、人間はいくらでもさまざまな人と出会っていく。その人たちと正面から向き合い、価値観を揺さぶられ、自分の中にある偏見から脱していくチャンスはいくらでもあるはずである。それにもかかわらず、問題の解決を恋愛・結婚に絞ってしまうことは、それ以外の社会的な場にいる女性や自分と異なるさまざまな人たちのことを軽視し、向き合わないということになってしまう。岡村さんであれば、一緒に芸能の仕事をやっていく中でも、女性と正面からぶつかり、変わっていくことはできるかもしれない。その可能性が頭にない、という時点で、矢部さんもまた偏狭な女性観を持っていると言えるだろう。

 それにもかかわらず、矢部さんが「良い」と思ったのは、自分の中の経験から変わったことを伝えようとしているからである。パーフェクトに反差別である人はいない。矢部さんが家父長制に縛られ、偏狭な女性観を持っていようとも、自分の恥をさらしながら「変わっていこう」と岡村さんに呼びかける姿は、私は良いと思う。

 これは私自身がフェミニズムについて学ぶことは、自分の痛みと向き合うことと同義であったからだろう*3。私にも、こういうしょうもない、差別から抜け出そうとする思い出はいくらでもあるし、今も現在進行形である。こういうあがく姿は、格好良くもなければ、他人に言って褒められるものでもない。多くの間違いも含んでいる。ただ、失敗しながらでも「人は変われる」と信じ、同じ立場から仲間に向かって呼びかける姿はとてもフェミニズム的だと思う。フェミニズムには「個人的なことは政治的である」という言葉があるが、矢部さんのやっている「自分の痛みや失敗」から社会的な問題を思考し、岡村さんに語りかける態度は、それに重なって見える。

 逆に言うと、私は男性がほかの男性を断罪する態度をフェミニズム的だとは思わない。たとえば、貧困問題に取り組む藤田孝典さんは、岡村さんと矢部さんのやりとりを受けて、岡村さんの変化を望むとし、次のように批判している。

これを契機に、岡村氏やニッポン放送などが率先して、社会の中で女性が困窮に苦しみ身体、性を販売しなければならない異常な社会構造があることを改善するため、具体的な行動を起こしてほしい。
日本の社会福祉社会保障は未だに脆弱なもので、なおかつ女性が安心して働けてゆとりある生活を享受できる労働環境にもなっていない。
相変わらず、政治や社会運営の決定権者は岡村氏など男性中心で、それゆえに女性の福祉も極めて残余的で粗末なものとなっている。

つまり、岡村氏には早く混乱期から立ち直り、謝罪の意識をどう次の言動につなげていくのか、ということが問われている。

岡村隆史氏のラジオ番組内の謝罪『変わらなければならない』について」

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200501-00176281/

 上の藤田さんは、日本の福祉支援の不足により、困窮した女性たちが「性を販売しなければならない異常な社会構造」としている。そして、このような状況が起きるのは、福祉制度を整えるべき政治や社会運営を支える人材が「岡村氏など男性中心」であるからだとしている。そして、岡村さんは変わり、社会を変えるための言動をとらなければならないとする。

 私は藤田さんはほとんど意味不明の発言していると捉えている。第一に、「性を販売する」というのはどういう意味か。風俗業をはじめとするセックスワークでは、労働者が性的なサービスを提供する。たとえば、教員であれば教育に関するサービスを提供するのであり、教育を販売するわけではないだろう。そもそも「性」や「教育」は概念であり、直接売り買いできる物質的基盤を持たない。

 第二に、セックスワークが存在するのは異常な社会構造ではない。この社会で働くセックスワーカーに対して、あなたたちが労働することは異常であるというのは、剥き出しの差別意識である。これまでセックスワークについては、フェミニズムも含めて膨大な量の議論が行われてきている。そのなかで、セックスワークについて論じる様々な立場がありえるが、「異常」という言葉を使うのは不適切である。あえてその言葉を選んだのは、藤田さんの差別意識だと言わざるを得ない。

 第三に、藤田さんは2019年10月にTwitterで「女性解放運動などないに等しい」と言い捨て、フェミニストから強烈に批判された。「岡村氏など男性中心」のなかに、藤田さんも含まれていると指摘されたのである。それからまだ半年しか経っていない。それにもかかわらず、岡村さんを切り捨て、自分は「良き男性」の地位にあずかろうというのは、あまりにも拙速な態度ではないだろうか。人間は失敗をするし、差別にとらわれている。そういう自分をなかったことにして「反差別」の旗印のもとに政治的発言をすることを私は肯定しない。

 私は人が変わるというのは、ダサくて時間がかかり、目に見えた成果がでないことだと考えている。いくら自分が変わったと言っても、他人からみれば変わっていないこともある。それに比べれば「社会を変えよう」と声を上げることは、格好良く他人から称賛を浴びることもあるだろう。上の藤田さんの発言を支持する人も多いようだ。だが、私はこのような態度は、自分の考えるフェミニズムとはもっとも遠いところにあると思う。

(2)「非モテ」の人からの反論

 しかしながら、矢部さんに対して別の角度から批判が浴びせられている。矢部さんの発言は、男性に対する「恋愛して結婚しなければならない」という圧力として働くという批判である。

「矢部の発言が独身差別・非モテ差別でないなら何だと?」

https://anond.hatelabo.jp/20200501134024

 これだけではわかりにくいと思うので補足すると、10年以上前から「非モテ」に関する議論がネット上では起きている。このなかで、男性は「恋愛や結婚をしなければならない」という価値観を内面化しているため、強迫的に「モテなければならない」と考えるようになるという指摘があった。これらは「非モテ」問題と呼ばれ、たとえ、恋愛や結婚を経験したとしても、モテに対する強迫観念はなくならず苦しむとされる。そこで、恋愛や結婚に対する義務感から解放されることが必要だと言われたのである。

 私はこの非モテ問題は関心を持って、丁寧に議論を追っていたほうだと思うが、最後まで心からの理解には至らなかった。ただ、この問題の当事者が切実であったことは間違いないし、矢部さんの「恋愛や結婚から逃げたからお前は成長できないのだ」という発言は、非モテの人たちに対する呪いにはなり得ることには同意する。矢部さんは岡村さんの個人のライフヒストリーに即して、その発言をしたとしても、恋愛や結婚についての強迫観念を持つ人へ圧力をかけることに加担したという指摘はあてはまるだろう。

 ただし、それを踏まえた上で、「非モテ男性の差別発言」にどうアプローチすればよいのかは見えてこない。岡村さんが恋愛や結婚に対する強迫観念を持つがゆえに、女性に対して敵対心を持ち、実態がわからないまま恐れたり憎んだりしているとして、そこから解放されるにはどうすれば良いのだろうか。もちろん、非モテであっても自ら恋愛や結婚をしないという決断によって解放され、性差別にいたらない人もいるだろう。だが、今回は岡村さんがそうでなかったから問題になっている。ここは非モテ問題の議論を追っていた私がいまだにわからないところだ。

 一つの可能性は「メンズリブ」や「男性学」の取り組みを引き継いでいくことかもしれない。たとえば、西井開さんはこれらの系譜を汲んでいるが、「僕らの非モテ研」を立ち上げた。西井さんはこの立ち上げについて、以下のように語っている。

非モテ研〉を始めたのは理由が二つあって、一つは僕も恋愛で苦しんだ経験があったので、非モテに悩む男性や童貞に対する謂れのないバッシングが許せなかったんですね。ひとくくりにしてコミュニケーション障害だとか、女性をモノ的に見ているだとか、それが腹立たしかった。ただ逆に非モテを抱えた男性が、憎しみを増幅させてミソジニーのような暴力的な方向に行くのも歯がゆかった。やはり背景には何か思いがあるだろうし、それを細かく見て行きたい。そして苦しさを共有できる場があったらなと思った、というのがあります。もう一つは〈男の勉強会〉というのは性自認が基本的には男性寄りの人たちが来る場、という形でやってたんですね。ただ「男性」という大きな枠組みだとあんまり深い話にならないような感触があったんです。それよりももっと内面を、こういうことを感じたり思ったりする、苦しんでるっていうのをもっと話してほしかった。生きてる上での違和感みたいなことから自分を語るきっかけは生まれてくるので、そのフックとして「非モテ」というのは使えるんじゃないかな、というの思いがありました。

 

対談「2010年代メンズリブ対談 -メンズリブのこれまでとこれから-」『うちゅうリブ』

 

https://uchu-lib.hatenablog.com/entry/2018/07/06/140958

 

 

 西井さんの「非モテ研」や、対談相手である環さんがやっている「うちゅうリブ」では、ほそぼそとした集まりの中で、「男性」の問題について語り合う場を作っている。

 かつては薬物依存の問題は「ダメ絶対」として、薬物を使うこと自体を強く否定するキャンペーンが行われた。また「二度とやりません」と依存者は約束しなければならないと考えられていた。しかしながら、依存者はこのようなメッセージを見れば見るほど、薬物を使う自分を否定し、その苦痛から逃れるためにさらに薬物を使う。そのため、今は薬物依存者は自分の苦しみと向き合い、依存から抜け出すためには、当事者団体や自助グループにつなぐことが必要だとされるようになった。

 私は差別発言についても似たところがあると思う。発言に対する厳しい批判は必要だと思うが、そこから「二度とやりません」と約束させたり、社会的地位を奪ったりすることでは、差別はやめられないのではないか。表面的には差別をやめたように見えても、それは差別を隠すことがうまくなるだけではないか。その意味で、差別発言をしたあとについても、一人で差別をやめるように努力したり、恋愛や結婚をしたりするのではなく、同じように変わっていこうとする人たちが繋がる場が必要だと思う。

 私自身が、自分が変わりたいと思っていた時に、ともに活動に取り組んだ仲間の存在に支えられたので、余計にそう思う*4

(3)「かわいそうさん」について

 さて、私自身が岡村さんと矢部さんのやりとりを聞いて、一番印象に残ったのは「かわいそうさん」についての話である。矢部さんは、岡村さんは仕事のスタッフや周囲の人々から「かわいそうさん」として扱われていると指摘する。岡村さんは2010年に体調を崩し、休養ののちに復帰した。それ以降、みんな岡村さんに対しては優しくなった。また、女性に対する劣等感をネタにしていることもあり、他のタレントが言えば炎上することも、岡村さんの場合はそうならなかったという。結果として、岡村さんは自分を変えるきっかけを失い、ぬるま湯に安全してしまったのだと矢部さんは批判する。

 この矢部さんの言葉は、苦しい渦中にある人に向けられているのではない。実際に、矢部さんは、岡村さんが体調を崩した時には、本人が仕事を続けることを希望しても、率先して休養することを勧めた。しかし、今の岡村さんに対しては「かわいそうじゃない」と突きつける。もっとかわいそうな人はいっぱいいるのに、お前は「かわいそうさん」のポジションをとり、そこに甘えているのだ、と批判するのである。これは、休養中や復帰後も親身になって岡村さんを支えてきた矢部さんだからこそ言えることだろう。

 これは非常に身につまされる話だった。私自身、若い時にたびたび「かわいそう」としか言えないような目に遭ってきた。それを、自分で認め「かわいそうさん」であると開き直ることでしか、乗り越えられない局面もあった。不思議だが、その状況が過ぎ去っても、当時の「気分」のようなものはいつも自分の中に残っている。いまは、あのときほど大変ではない、と思いつつも、いつでも「かわいそうさん」であった自分に引き戻される。人間の心の動きであるのだから、それ自体を否定する必要はないのだろうが、そこに慢心すると他人を傷つけることになるというのは、薄々わかっていた。抽象的な書き方をしているが、私のいわんとすることに思い当たることのある人もそれなりにいると思う。

 「かわいそうさん」の言葉は、間違っても第三者が他人を断罪するために使うものではない。自分や身近な人たちが生きていく中で、はっと気付くようなものだろう。この矢部さんの発言は上の二点のジェンダーの問題とは別に、大事なものを言い当てているように感じた。

*1:この点について、ブックマークコメントでご指摘いただきました。岡村さんは風俗を利用する男性たち一般に向かって呼びかけているため、経済的に恵まれてはいない人たちの立場にも寄り添って発言しているということでした。確かに、ここはリスナーへの呼びかけですから、私の取り方には語弊があったので撤回します。

*2:もっと言えば関西弁での個人的な話をするときの掛け合いである。いつもよりやや声のトーンを落として、断言調で相手に迫る。私自身は関西人なので馴染みのあるコミュニケーションだが、他地域の人にそれが伝わるのかはよくわからない。

*3:ちなみに私は「フェミというよりはウーマンリブ」と言われることが多い。実際に私がもっとも影響を受けたのはウーマンリブの活動家・田中美津なので、間違ってはいない。1970年代風で古くさいとも思われがちだが、私は人間が差別に抵抗するエネルギーを炸裂させる源は理性ではなく情念だと考えているので、自分の「痛み」から出発することを大事にしている。

*4:そして今も私は、活動の場作りに熱心であるし、それは大学で授業を進めていく上でも意識していると思う。優劣を競うことではなく、ともに変わっていく仲間を得ることが、一番その人の学びを進め、次の一歩に踏み出す力になると考えている。