プラズマみかん「わんころが揺れ雲をめぐる冒険」

「わんころが揺れ雲をめぐる冒険」
作・演出 中嶋悠紀子
出演者 屋鋪柚佳/中嶋悠紀子/朝寝坊月眠。(Deity)/梅本和弥(TEAM☆RETRIEVERS)/小川佳子/舵竜矢(妄想プロデュース)/阪田愛子(劇想空飛ぶ猫)/つぼさかまりこ/ハシグチメグミ(baghdad café)/水木たね/米山真理(カメハウス
スタッフ
舞台監督/西野真梨子 照明/入江明憲 音響/Alain Nouveau 舞台美術/屋鋪柚佳 衣装/山本博子 宣伝美術・WEB製作/GOUTEN 制作協力/尾崎雅久(尾崎商店) 記録撮影/牟婁てつや ariyasu 映像編集/馬場泰子
公演日時
2011年7月12日(火) 15:30/19:30
7月13日(水) 15:30/19:30受付・開場共に開演の30分前です。
公演会場 シアトリカル應典院

「プラズマみかん*1」という小さな劇団の公演を観てきた。平日の昼公演ではあったが、100席にも満たない会場は大半の席が埋まっていた。二人しかいない劇団メンバーが核となり、毎年細々と大阪で公演を続けてきていて、実際に起きた事件をモチーフにして、「人と人とのつながり」に焦点を当てた作品づくりをしている。
 今回の作品のモチーフは「震災」である。それも、17年間に起きた阪神淡路大震災を題材にしている。しかし、直接的に震災の詳細には触れず「魔物の襲撃」と置き換え、ファンタジーの世界と交錯させながら、事件の「その後」を生きる人たちの関係性を作品の中心に据えて、物語を編んでいる。
 公演の前半は17年前が舞台である。1995年1月16日の神戸、小学生の女の子「なっちゃん(屋鋪柚佳)」とクラスメイト達は、若くて熱心な担任の先生ウメトラ(舵竜矢)に連れられて、裏山に登る。ウメトラはいつも補修の後、「これは大人になるための儀式なんだ」と言いながら、円になってたき火であぶったマシュマロを子どもたちに食べさせてやった。牧歌的な風景の中、子どもたちが騒ぎだす。「空が二つのぱっくり割れて」「不気味な橙色が差し込んどう(差し込んでいる)」そして、いつもなら夜になるまで子どもだちと裏山で過ごすウメトラは、早めに山を降りた。恋人ミヤコ(水木たね)に会う約束があったからだ。そして舞台は急転する。翌日の早朝、「魔物の襲撃」によりなっちゃんの住む街はたくさんの犠牲者を出し、クラスメイト達はみんな死んでしまう。
 なっちゃんは隣の街に引っ越し、新しいクラスメイト達と出会う。ほとんど被害にのなかったこの街の子どもたちは、なっちゃんに何があったかは聞かない。子どもたちながらに、事情がわかっているからである。しかし、なっちゃんはどことなく腫れもの扱いされ孤立しそうになる。そこに踏み込んできたクラスメイトが「ももてん(米山真理)」である。一方で、もともとももてんの友だちであった「あくえり(阪田愛子)」は複雑な思いを抱く。あくえりは、資料を集め、被害を受けた場所に足を運んで「魔物の襲撃」についてノートを作り、学校で表彰されていた。でもなっちゃんを目の前にして、自分の知っていることはたいしたことではないような思いに駆られ、焦って意地悪をしてしまう。「魔物の好物はマシュマロ。それを食べたなっちゃんのせいで、マシュマロを横取りしようとして魔物が現れて街は襲撃されたんだ」と言ってしまうのだ。子どもでもわかる作り話だったけれど、なっちゃんは取り乱し裏山に走っていく。

なっちゃん「私に残された幸せ、全部あげるから、だからいなくなった友だちを返して下さい!ほら、私のましまろ、ここにあります。お願いです。白いましまろ、ここ。私はここにいます。もしどうしても返してもらえないやったら、私をここで踏み潰して下さい。私もここで焼き焦がして下さい。お願い、どうか、どうか…」

幻想の中で必死に訴えるなっちゃんを追いかけてきたももてんとあくえりは、必死になっちゃんにすがる。二人がなっちゃんの苦しみを分かち合ったところで、前半の物語は終わる。
 この物語の「その後」が後半である。17年後、なっちゃんはももてん、あくえりと共に、魔物の襲撃のときに主人を失ったり、鎖に繋がれたまま捨てられた「わんこ」たちを保護する仕事をしている。なっちゃんは「私だけ生きててごめんね」という罪悪感を犬に投影し、「一匹でも多くのペットを助けてあげないと私は許されない」と思い詰めている。また、あくえりは団体の活動をアピールをするために講演をしているのだが、魔物の襲撃について語れば語るほど「自分は本当は何も失わなかった」のに、被害を代弁することの難しさに追い詰められる。
 あくえりは団体を抜けてしまい、ももてんの発案でなっちゃんは新しい事業を始める。それは「わんこ」と人間が対等な関係で暮らす居住空間というコンセプトのテーマパークである。なっちゃんは自分の被害経験を語りながら、テーマパークを宣伝し、事業は大当たりをする。しかしそれもつかの間で、急激に拡大した事業は破たんする。それとなく気付いたなっちゃんは一人で責任をかぶろうとするももてんを問い詰める。ここがクライマックスである。

なっちゃん「初めて出会った時、ももてんだけが私に踏み込んできてくれて、嬉しかったのに。ある時から全然それがなくなって、まるで私のこと、神様仏様みたいに…それって何で?」

するとまた幻想の中で、ももてんとあくえりが語り始める。二人はなっちゃんにひれ伏して言う。

ももてん・あくえり「…なっちゃんは、女神様やねん」
なっちゃん「女神様?私が?何それ、え?」
ももてん・あくえり「私たちはなっちゃんを幸せにする義務があるのです」
なっちゃん「何それいつからそうなってんの?」
ももてん「女神様」
なっちゃん「あ、はい」
ももてん「あなたはましまろを食べ、あまりにもたくさんのものを失いましたので、私はあなたに、失った分の何かをあげたいと思いました」
あくえり「私はあなたのことを、多くの人に伝えたいと思いました」
なっちゃん「私、そんなこと望んでないし」
ももてん・あくえり「ああ女神様、幸福の女神様」
なっちゃん「はい!…あっ。」
ももてん・あくえり「あなたはましまろによって友だちを失い、わんこを失いました」
あくえり「だから私はそのことを多くの人に伝えたいと思いました」
ももてん「だから私は、新聞記者の夢を諦め、あなたの親友として一生を捧げることを誓いました」
なっちゃん「じゃあもっと私に近づいて、友達とはそういうものでしょう」
ももてん「しかし女神様、幸福の女神様、とうとう私はあなたにあげられるものがなくなってしまったのです」
なっちゃん「だったらもっと私に踏み込んで、私と友達になって」
ももてん・あくえり「それだけがどうしてもわからへんの」

この後、スタッフの不手際で大量の「わんこ」が死んだことが発覚し、警察の捜索が入り、テーマパークは潰れてしまう。こうしてなっちゃんは、孤立に追いやられ、居場所がなくなってしまう。これがこの作品の軸となる物語である。
 この「なっちゃんの物語」と並行して、作品の冒頭からファンタジーである「わんこの物語」が進行している。「わんこ」たちは魔物に襲われ奪われた主人たちを取り返すための冒険をしている。途中、野良犬捕獲の人間につかまりながらも、「魔物の鱗」と呼ばれる主人からのメッセージを追って、集団で移動している。だが一匹一匹とメンバーは減り、ついにリーダーたちも捕獲されてしまう。しかしそこでなっちゃんらに保護され、テーマパークの「王様」の座に据えられる。しかしテーマパークが潰れてしまい、また「わんこ」たちは逃げなければならない。年老いたリーダーたちは「主人が死んだこと」を知り、冒険をやめることにする。しかし、次世代の「わんこ」たちはまた旅に出るのだ。
 「なっちゃんの物語」がストレートな会話劇で、人間関係の機微をリアリティをもって描きだそうとしていることに対比させるように、「わんこの物語」は集団のアクションやギャグで盛り上げるドタバタ劇である。それぞれの細かな心情は省かれ、単純な「魔物を倒す冒険」と「主人への忠誠」だけが語られる。
 このファンタジーと、被害の「その後」の世界を行き来しているのが、教師のウメトラである。彼の妻ミヤコは「魔物の襲撃」以降、自分が生きていることに実感が持てず苦しんでいる。ウメトラはミヤコを支えているように見えるが、実は夜に裏山で野良犬を集めてそれを死んでしまった子どもたちだと思い込み、補習授業をしている。ウメトラに理解されないと感じたミヤコは、犬になってしまい「わんこの物語」に迷い込む。そしてわんこたちのリーダーの息子と結ばれ結婚し、子どもも出来てしまう。しかし、テーマパークが潰れて逃げ出すときに、犬としてウメトラの元に帰って行くのだ。
 本来は、このウメトラとミヤコが、二つの世界をつなぎ、絶望に満ちた「その後」の世界と、希望しかないファンタジーを接合するはずだっただろう。追い詰められたミヤコはファンタジーの世界で救われる。さらにウメトラの元にファンタジーの世界の姿で戻り、そのことでウメトラも救われる。今度はウメトラが、なっちゃんにファンタジーの世界をもたらすことで、救われる。それは、以下のようなセリフで試みられている。
 終劇で、孤立したなっちゃんと、ウメトラは再会する。ウメトラはミヤコが犬になってしまったのだとして、なっちゃんに紹介する。そしてラストシーンではウメトラがなっちゃんのもとに駆け込んでくる。

ウメトラ「おーい、ナツコー!」
なっちゃん「ウメトラマン先生!」
ウメトラ「ミヤコに…子供が生まれた!」
なっちゃん「ホンマに?!え?人ですか?犬ですか?」
ウメトラ「もちろん犬…やけど、この先、人になったり風になったり、自動車になったり、これからの子は色んなものにかたちを変えて、新しい街を作り上げていくんちゃうかなあ?」

ウメトラは犬の子(ファンタジー世界の子)を育てていくのだろう。それは誰の子であるというよりも、これから「新しい街」を作る次世代である。なっちゃんやウメトラの喪失は、新しい世代の誕生によって救われる。今の世界で孤立し絶望しても、未来の世界に希望を託すことでこの物語は閉じられる。
 しかし、これは私の恣意的で行為的な解釈で、とてもそうは思えない公演だった。ばたばたと無理やり物語がまとめられ、なんとか終わりに結びつけたという印象だった。まず「わんこの物語」がよくある「小劇場系」のお芝居という枠内のプレイで退屈だった。娯楽なら娯楽でもっと間口の広い楽しませ方があるだろう。「なっちゃんの物語」が持つ重みやリアリティに対抗できるだけの、軽さがなかったように思う。次に、その影響でミヤコがなぜファンタジーの世界で救われたのかよくわからない。もっと圧倒的に魅惑的で辛い現実から逃避できるだけの楽しさが伝わらないと、うまく物語の仕掛けは機能しない。最後に、なっちゃんとウメトラの間にファンタジーの世界が流入してきたことがよくわからない。「新しい街を作り上げていく」という言葉は唐突だった。この直前に幻想の中でこれまでの友達みんなに「生きていていいよ」と言われるシーンがあるのだが、「生きていていいよ」から「新しい街を作り上げていく」の間にワンクッションが必要だと思う。
 以上が物語のあらすじと、私の感想である。実は、作・演出を担当している中嶋悠紀子は私の高校の演劇部の後輩である。なので、彼女のバックグラウンドはよく知っているし、こうした作品を書いた/書かざるを得なかった心情は痛いほどわかる部分がある。中嶋さんは、当日の配布されたプログラムに次のように書いている。

大学生の頃、下町のスナックでバイトをしていた。
たまたま下宿していたマンションの1階がそうで、お客さんのほとんどが近所のおっちゃんおばちゃんで。決してお酒に強い訳ではないが、演歌を覚えるのが誰よりも早かったので、デュエットするならあの子で!ということで可愛がってもらった。
誰と決めず、そこに集まった人とお喋りをする。
このような場では、初めての人と言葉を交わす時、相手がどんな言葉を使うのか、誰もが慎重に観察している。特に、私が働いていたお店では、土地柄のせいもあり、コリアンか、チャイニーズか、ジャパニーズかということを異常に知りたがった。ちょっとした言葉のイントネーションの違いも彼らは見逃さない。
そして私の喋りも、そこのものとは少し違っていることを、すぐに見抜かれた。
「私は昔、神戸に住んでたんです。それで…。」
「神戸」という言葉を口にしたら、避けては通れない続きの会話がある。あの時、私は何処で、何をしていたか。それを自ら口にしてしまうことへの違和感。今だから、芝居を、作ろうと思った。

その話を屋鋪さんに持ちかけて、プロットを書き、台本を着手し始めたのが、3月11日の早朝のこと。魔物は、確実に、いる。

時間が突然逆戻りしてしまった中で、今、あの時の違和感を描くことに何の力が持てるのだろう。今日の日までそれを考えなかった日はありません。それでも、この二日間だけは、このシアトリカル鷹典院に点在させておくことを赦してくれませんか。

本日はご来場いただきありがとうございいます。
この場に立ち会って頂けたことに、心より感謝申し上げます。
作・演出 中嶋悠紀子

私は彼女が「震災の芝居」をやろうと思っていることを、3.11以前に聞いていた。だから「どうするのだろうか?」と思った。何をどう描いても、3.11後であることを、意識せずには上演できないだろう。
 中嶋さんの作品は、「震災で何が起きたか」に焦点を当てない。「魔物に食われた」という言葉で語られそれ以上説明されない。何が起きたか知らないわけがない*2。中嶋さんは「なっちゃんの物語」を語り部として伝える「あくえり」に、劇中で「人は不幸の話を聞きたいのか」と語らせる。かわいそうな物語、そして希望を見いだす物語はいくらでもある。「なっちゃん」の不幸も前半で終わっていれば、新しい友だちができて、希望を持って終わりだった。だけれど、「その後」はずっと続くのである。なっちゃんは、一度理解され、友達ができたけれど、また失う。そうしたなっちゃんをもう一度かわいそうな物語として、語りなおすことはできる。しかし、中嶋さんは「あくえり」に終盤に「私は私の経験を語りたい」と言わせ、なっちゃんの物語と自分を切り離させようとする。それでも、この作品の主軸はなっちゃんにあり、あくえりが中心にくることはない。「その後」の世界の物語の中心で孤独でい続けるなっちゃんと、周縁部でなんとか「その後」の世界に居続けようとするあくえり。この緊張関係を描いたことで、作品は「震災の芝居」ではなく「災厄が訪れたその後の芝居」になっている。
 私はもちろん、少なからず自分と「あくえり」を重ねて、震災が起きた「隣の街」で育ったことについて考えながら作品を観ていたのだけれど、途中から別の者がオーバーラップしてきた。これまで何度も自分が体験したり、話を聞いてきたり、本を読んできたりした、「当事者―支援者(周囲の人たち)」の関係性がいくつも頭に思い浮かんだのだ。
 当事者を軽視したり、利用しようとしたりしたわけではない。だけれど、どうしてこうも当事者は孤立するのか。そして支援者(周囲の人たち)は、自分が当事者でないことに罪悪感を持ち、傷つき、辛くなって結局当事者から離れていってしまうのか。もちろん、社会的資源の不足や、偏見や差別、無理解に苦しんでいるという問題もある。だけれど、「私を理解してほしい―あなたにはなれない」という心情は、時を重ねるごとに「当事者―支援者(周囲の人たち)」にのしかかり、両者の関係性の土台を掘り崩し、時には潰してしまう。
 そうしまいとして、「支援者(周囲の人たち)」はなんとか自分自身の物語を語りだそうとする。だけれど、圧倒的に苦しむ当事者を前にすると、言葉がでなくなる。たぶん、3.11後に中嶋さんが味わったことのように。「自分が語ることに何の意味があるのか」という問いに取りつかれる。
 3.11後に、中嶋さんが上演すると再び決断した時、私はどうやってもこの作品だけは観に行こうと思った。何を語るのか、を見届けたいと思ったからだ。それは、彼女の背景を知っていて知り合いだったからという情の部分も、彼女に自分を重ね合わせている部分もあったと思う。けれど、観ながら私は、彼女と関係のない自分の経験を思い出し、重ね合わせた。それは中嶋さんの作品が震災だけではない上記のような普遍的な関係性を描いていたからだろう。
 私は普段、知り合いの本や作品をここで紹介するのにあまり積極的でないのだけれど、今回はどうしても取りあげたかった。有名な劇団ではないし、「演劇が好きな人」以外の目にはあまり止まることがないと思う。けれど、私のブログを読んでくれているような、つまり「当事者―支援者(周囲の人たち)」の関係性に興味のある人たちに響くような作品だった。私はぜひ再演して、もっと多くの人の目に触れてほしいと思う。

*1:http://plasma-mikan.com/

*2:なので、不満を持つ人や、理解できないと思う人もいるかもしれない。ウメトラが「俺の目は、延々とテレビに映し出される緑のテロップに、麻痺してしもうたんやろうか」というセリフの「緑のテロップ」とは安否情報であり、亡くなった方の名前のリストである。私はこうした言葉に反応するけれど、わからない人には違和感として残るかもしれない