性的サービスの売買について

 性的サービスの売買(一般に売買春と呼ばれる)についての、議論は膨大にある。「ジェンダー/セクシュアリティ」という言葉に親しみがあってもなくても、きっと多くの人が何かしらの意見を持っている。性的サービスを売ることとは、ある人にとっては奴隷制で、ある人にとって労働である。別の人にとっては考えたくもないようなことで、他の人にとっては周囲にもっと考えてほしいと思うようなことだ。
 田崎英明が「プロスティテュート・ムーブメントが問うもの」という短い文章を1997年に発刊された本に書いている。本全体の基調を述べるための解説だが、コンパクトに性的サービスの売買についての基本ラインの議論がまとまっているので、内容を紹介したい。*1

プロスティテュートの問題を追及した、もっとも有名な論者は、キャサリン・マッキノンだろう。マッキノンは、アンドレア・ドゥオーキンとともに、ポルノグラフィにより私たちのセクシュアリティが生みだされているのだと述べた。ポルノの鑑賞により、男性は女性を暴力的に支配する方法と快楽(サディズム)を学習する。かれらの主張に従えば、プロスティテューションは男性と女性の不平等の関係の典型例と捉えられ、廃止が求めらることになる。
 実際に、プロスティテュートは暴力にさらされやすい。客からの暴力、経営者や「ヒモ」から暴力の、警察の取り締まりというかたちでの暴力などである。さらに、裁判所はプロスティテュートが傷つけられたり、殺されても、プロスティテュート以外の職に就く人たちより軽い判決を出すことがある。またそうした事件ではマスコミの報道も、プロスティテュートへのネガティブなイメージを喧伝する。プロスティテュートは物理的な暴力にさらされるだけではなく、こうした言葉やイメージによる暴力により、幾重にも脅威にさらされることになる。プロスティテュートたちの運動はこの中から生まれてきた。田崎さんは以下のように言う。

 プロスティテュートをやめたいと思う人は当然いる。やめたいれどやめられない人もいる。それから、やめたくはないが、もっと安心してプロスティテューションができることを望む人たちもいる。プロスティテュートの要求といっても、別に、一枚岩であるわけもない。そこにはいろいろな要素があり、それにしたがって、いろいろなタイプの運動が求められ、そして、現実にアメリカ合衆国をはじめとして世界の各地で、プロスティテュートや元プロスティテュートによる運動が育ってきた。
 一つにはプロスティテューションをやめたいと思う人が、プロスティテュートでなくなれるように、プロスティテューションをしなくても生きていけるように支える運動がある。それは元プロスティテュートたちが中心となって、自分たちがプロスティテュートであったときの暴力や抑圧を告発し、かつての仲間たちがそういう状況から抜け出せるように支援する運動である。ある場合にはマッキノンたちの理論をよりどころにしながら、プロスティテュートがプロスティテュートでなくなれるための運動を展開している。
 もう一つには、プロスティテュート自身が、つまり、現在もプロスティテュートである人自身が、プロスティテューションは労働の一つである、ワークである、と主張し、したがって、プロスティテュートにも、他の職業に従事する労働者と同等の権利の保障を求める運動がある。プロスティテューションをセックスワーク、つまり、性労働と捉える論点は、このようなプロスティテュートの運動の内部から出てきた議論だと理解することができるだろう。セックスワークという議論は、なにも経済学者は社会学者たちの立てる問い、「労働とは何か」というような小難しい――テクニカルな――理論から出てきたものではない。それは、プロスティテュート自身の生きていくうえでの必要から生まれたものなのである。この運動が求めるものは、「プロスティテュートになる自由とプロスティテュートをやめる自由」として定式化されている。
(11〜12ページ)

 一つ目の運動は、多くの人身売買阻止の国際団体の活動が知られているのではないだろうか。「やめたい」と思っている人にプロスティテューションを強制するようなことは、不正である。ただし、この主張はマッキノンの議論を下敷きにする必要はない*2。田崎さんは、この運動とは別の視点を持ってくる。たとえば、普通の会社では「本当にいやなことがあったらやめられる」のに、プロスティテュートにその権利がないのはおかしいという視点だ。もちろん、この主張をひっくりかえして「プロスティテューションをしたいときには認められるべきだ」という議論も可能だ。しかしこの運動は、「プロスティテューションをなくすしかない」という帰結が前提とされる(長い間されてきた)。
 二つ目の運動は、日本のプロスティテュートたちによっても行われてきた。ポイントは、プロスティテュートたち自身によって生みだされた運動だということだ。この運動に関しては田崎さんの文章を離れて、補足しておく。なぜか「この運動を焚きつけたのは宮台真司だ」というようなことを言う人もいるが、それは誤解である。宮台さんの「『性の自己決定』原論」という本が売れて話題になり、後述するように「自己決定」を重視する点で主張には重なる点がある。しかし、セックスワーカーの運動は別の潮流である*3

「性の自己決定」原論―援助交際・売買春・子どもの性

「性の自己決定」原論―援助交際・売買春・子どもの性

私も直に活動を知っているわけではないが、90年代にUNIDOSというグループがプロスティテューションの非犯罪化を求めて活動していたようだ。プロスティテュートも参加し、かれらのエンパワメントを促す場でもあった。しかし、組織の在り方には批判もされた。そのなかのメンバーのブブ・ド・ラ・マドレーヌは「セックスワーカーである」とカミングアウトし、アートパフォーマンスを行った。さらに、99年の「SWASH(Sex Worker And Sexual Health)」*4の設立に携わり、HIVエイズセックスワークに関する活動続けてきた。今も「MASH大阪(Men And Sexual Health Osaka) 」*5HIV/エイズの予防啓発活動を行っている。私は日本の運動が、他国の運動とどれくらいリンクしているのかはわからない。もちろん、世界各地で起きている運動である。
 プロスティテューションは国際的な問題でもある。他国にいってプロスティテューションを行う移民のプロスティテュートにも、強制されたり騙されてつれてこられる人も、プロスティテューションすることを望んできたけれど実際の劣悪な条件を知らされてなかった人もいる。なにはともあれ稼いでから帰りたいと思う人もいる。いろんな人がいる。
 自国で過酷な労働をして貧乏なままでいるよりは、移民して一定期間プロスティテューションをしてお金を持って帰って、故郷に家を建てたり自営の仕事したいと思う人もいる。強制労働としてのプロスティテューションが許されないのは言うまでもないが、「プロスティテュートをしてお金を稼ごう」とすることは、他の労働をしてお金を稼ごうとすることとの、違いは何か(いろんな人がいろんなことを言っているが、いまだ、これといった線引きがされたことはない。線が引けるかどうかもわからない)。
 田崎さんは次のように書く。

 現在、世界のプロスティテューションに関する、あるいは、プロスティテュートの運動においては、二つの流れが拮抗しているとみていいのではないかと思う。それは前に述べた二つで、一つは、プロスティテューションというのは、プロスティテュート(の女性)だけではなくて、女性相対に対する権利の侵害と考えるジェンダーの問題を中心とした運動。プロスティテュートがプロスティテュートでなくなるための運動。もう一つが、プロスティテュートがプロスティテュートとして、ワーカーとして安心して安全に仕事ができる、そういう条件を求めていく運動。
 それはどちらも基本的にプロスティテュートないし元プロスティテュートの運動であり、プロスティテュートと関わったことがない人の運動ではない。たとえば、日本でなどでも自分は性を買わないという男性が、性の商品化はよくないといったりするが、そういうのではない。つまり、自分は性の商品化に依存しないで生きていけるし、また、性の商品化を否定しているから、自分は買わない、という人たちがする議論ではない。そうではなくて、実際にプロスティテューションに関わり、その内部から出てきた運動として、一方では、プロスティテュートだったときにいろいろな抑圧を被った、だからプロスティテューションはいけないんだという人たちがいて、他方にはプロスティテュートを続けられる安全な条件を求める人たちがいるということである。理論家が外から、「性の商品化、是か非か」という話でやっているのではなくて、当事者が声をあげている。
(16〜17ページ)

 さて、この二つの運動であるが、主張の対立はプロスティテューションが「奴隷制」なのか「ワーク」なのかによって表せる。前者はプロスティテューションを、女性に対する性的奴隷化だと考える。この考えは日本でもよく知られている。
 一方後者では、プロスティテューションで問題なのは「職業選択の自由がないこと」「労働環境がよくないこと」である。どこかに閉じ込められて監視されたり、やめてようとしても拘束されたりするということは、労働の基本的な権利を踏みにじられれていることである。「プロスティテューションは、生活の糧を得るための正当な労働であるのだから、権利を認めよ」というのである。日本でも、プロスティテューションに従事していて、客からSTDを移されても「労働災害」だとして保障がなされることはない。そもそも社会保険がない。風俗産業では経営者側がプロスティテュートにSTD検査を義務付けたり、性感染症についての講習を行うこともあるが、それは客の安全を守るためである。
 プロスティテュートは自分たちが安全に働けるように要求するために、労働組合を作る。これは世界中にたくさんある。客からの暴力やピンハネ、警察の手入れから身を守る。
 田崎さんは次のように言う。

 プロスティテューションが性的奴隷制であるという根拠としては、誰も進んでプロスティテュートになる者はいないからであるとされる。自発的意志、自由意志でプロスティテュートになる者はいなくて、あれはなんらかの形で強いられてプロスティテュートになる、プロスティテューションになってしなくてもいいのだったら、誰もしない、初対面の見も知らない男とセックスをするたなんて誰も進んでやりたがる人はいない、というような議論である。たとえば先進諸国のプロスティテュートのなかには、一見、自分で進んでプロスティテュートになるようにみえる人もいるけれども、実はそれも家父長制という制度があり、そこには、男女間の不平等があるから、女性がプロスティテュートになるのであって、そこには構造的な強制のようなものがある、というわけだ。
 南北格差のような歴然とした、みえやすい構造の場合は、もうその強制力は一目瞭然だ。移民労働者の女性がプロスティテュートになるという場合は、そもそも本国でなかなか仕事がない、また、家父長制的支配の結果、女性がきわめて低賃金の状態に置かれているし、教育の機会も奪われている、手っ取り早い現金収入の道はプロスティテューションしか残されていないというような状態がある。その場合、女性がプロスティテューションに流れていく構造的なメカニズムと言うのは見えやすい。しかし、先進諸国では女性がある程度の条件で一般企業に就職できる(つまりインフォーマル・セクター以外に組み入れられる)。日本などでは賃金格差はまだまだ大きいけれども、先進諸国では男女間の賃金格差はある程度狭まっている。そういう場合に、なぜわざわざプロスティテュートなどになるのか。それは本人の自由意志で、自由な職業選択としてなされたのではないか。いや、そのときにも、男性と女性との間にある構造的な差別・抑圧の結果として、女性はプロスティテュートという職業を選ばざるを得ないのであって、これは自由意志によるのではない。だから、それはワーク、労働ではなくて、奴隷制なのである、実際にそれは何重もの暴力にさらされていて、こんなものは労働ではなくて奴隷と同じである、という議論になる。
 それに対して、プロスティテューションはセックスワークであるという議論はどういう具合に対応するのか。たしかに、プロスティテュートになるという選択は完全な自由意志ではない。しかし、それは他の職業と同程度の自由な選択でありうる、というものだ。職業選択の自由といっても、現代の社会で、誰でも、本当に就きたい職業に就けるわけではない。たとえばみんながみんなプロのミュージシャンになりたいと思っても、なれない人はいっぱいいる。大学教授になりたいと思ってもなれない人もいる(あるいは私の周りにはよくいるタイプだが、プロのロックミュージシャンになりたかったのになれなくて、大学教師をやっているという人間もいる)。つまり、基本的に職業選択というのは完全に自由ではないのだ。
 また、マルクス主義ではよくされる議論だが、労働者は労働力を売らないと生きていけない。つまり職業選択の自由のなかには、就職しない自由というものは入っていない。就職しないで生きていける人間は稀であって、とにかく就職せざるを得ない。働くか働かないかの選択では、働かないと生きていけないという点で、まず構造的な強制があるわけである。その意味ではどんな職業も完全に自由に選択しているのではない。つまり、みんな働かなくても生きていけるにもかかわらず、あえて働くのならば本当に自由意志で働いているといえるのかもしれないが、そんな人はまずいないだろう。そのかぎりでは、プロスティテュートになるという選択と他の職業選択には、本質的な違いはない。それをワークと見なすことになんの差し支えもない。ワーカーとして当然の権利を認めさせるという形で、いろいろな抑圧の状況を批判し、それを変えていくことは十分可能であるはずだと主張しておく。
(20〜22ページ)

 さらに、プロスティテュートは女性に限られないという問題がある。メイル・プロスティテュートの客は女性の場合、ヘテロセクシュアルの場合、ホモセクシュアルの場合がある。プロスティテュートの差別は「女性だというところからくるのか」「性的サービスを金で売っているからくるのか」という議論があるが、独立した二つの差別が機能していると言っていい。後者は、「セックスの仕方」に対する差別なので、同性とセックスするからという理由で差別されるゲイ・バイに対する差別と近い。つまりプロスティテュートへの差別の根源に家父長制を置くことはできなということだ。
 田崎さんは、明確に「プロスティテュートはセックスワーカーである」という立場をとる。次のように述べている。

 ワーカーとしてやっていくということは決してマイナスではない。いろいろな制度的・法的な保障ができているならば、客と契約を結ぶ当事者として対等な関係で仕事ができる。むしろ、そのほうが自分でセクシュアリティをコントロールができるわけである。こういうセックスをすること、これには私は合意する、けれど、あれには合意しないという形で、自分のセックスの仕方を自分でコントロールできる。つまり売りたくなければ売らないということが可能なわけだ。自分のセクシュアリティに関する自己決定をワークにおいて貫徹させるということが、「プロスティテュートはセックスワーカーである」という主張の要なのである。
(25ページ)

 田崎さんは上の立場をはっきりさせた上、「犠牲者化」への注意を促す。これは第三世界フェミニズムで繰り返し論じられてきた問題である。第三世界諸国(開発途上国)の女性がまだまだ弱くて受動的であるので、啓蒙し援助をして経済的な地位を獲得させて、男性と対等な「主体」となって行動できるようにするのが大事だと、先進国フェミニストが考える。しかし、実際には先進国の開発政策は発展途上国の女性の地位を低めるように働く。つまり、「男―女」という関係性を改善努力をしても、「先進国―発展途上国」という関係性がもたらす世界システム的な構造により、結果的に先進国フェミニスト発展途上国女性の抑圧に加担するのである。いつまでも、先進国フェミニストはこの構造により発展途上国女性は弱くで受動的な位置に留め置きながら、かれら自身の営みを主体的でないとし、自分たちの思想を教えてあげようとする。
 田崎さんは先進国フェミニストが、自分たちと同じ「主体性」を発展途上国女性に見出そうとすれば、かれらはまだ受動的だと思えるかもしれないが、主体性はさまざまな形で現れることを理解しなければならないという。そして同様にプロスティテュートの主体性もまた、先進国フェミニストが想定してきたようなかたちではなく、現れることもある。「プロスティテューションはセックスワークである」と主張する主体(プロスティテュート)が、自分の理想とする主体でないとしても、それを自分の側に合わさせようとするのではなく、「違うあり方」なのだと理解することを田崎さんは求める。

 プロスティテュート以外の人がプロスティテュートと連帯しようとするときにも、勝手な思い込みで、あなたたちのニーズはこれでしょう、あなたたちが必要なことはこれでしょう、これがあなたたちの幸せなんですよ、という具合に、何か自分たちが描いている幸福であるとか、解放のイメージを相手に押しつけるわけにはいかないし、まして相手が、そうじゃない、自分の幸福はそんなんじゃないというと、あいつは悪いやつだと決めつけるようなことはあってはならない。やはり、プロスティテュートの運動がプロスティテュートの主体性の現れであることを理解する必要があり、プロスティテュートでなくなるという選択ももちろんプロスティテュートの主体性の現れだけれども、それだけではなくて、プロスティテュートがプロスティテュートでありながら、そうあり続けるためのいろいろな闘いというものも、また、主体性のあり方なんだということである。
(29ページ)

 さて、ここまでプロスティテュートという言葉を使ってきたが、「売春」とはいかなる行為をさすのだろうか?もちろん、インサートを含む性行為(本番あり)だけがプロスティテューションではないだろう。オーラルセックスはもちろん、ポルノグラフィの出演者や制作者、使用下着を売る人たちも入るだろう。グラビアアイドルや子どもタレントはどうだろうか?キャラクターグッズはどうだろうか?性的快楽はさまざまなものがあるから、性的な匂いのない商品はありうるのか、という話まで延長できるかもしれない。また、主婦が夫を自分の元に留めるためにセックスするのは労働だろうか?田崎さんは、できるだけの多様性を含みこむために概念をゆるく定義するが、そうすると一体何がプロスティテューションかわからなくなる。しかし、私たちの社会は、はっきりとプロスティテュートと主婦、そのほかのものをわけている。その線引きは先にも述べたように曖昧である。
 では、歴史的にプロスティテューションはどう扱われてきたのだろうか。西欧では、プロスティテュートが特徴を持った集団として扱われ始めたのは19世紀ごろである。「ある行為がプロスティテューションであるかどうか」が決められたのではなく、「プロスティテュートの集団」というものが存在しはじめる。かれらはそれ以外の人たちとは「違うタイプの人間である」と考えられるようになり、差別化されるようになる。
 当時のヨーロッパは、労働階級は貧しいので女性も外で働いている。ブルジョワ階級の女性は夫の子どもを生んで育てるために家庭内に閉じこもっているが、労働階級の女性は職がない時には売春を行うこともあった。そこに、近代化の波が押し寄せる。公衆衛生学と警察が結び付き、それぞれの社会集団を特徴化していく。そのときのポイントとなったのが、健康である。当時流行った「人口論」の観点から、不健康な個人が増えれば、社会もまた不健康になると考えられ、生殖と医療が結び付き、性もまた国家の管理対象となった。そこで、プロスティテュートの集団を、性病の感染源であるとしてコントロールしようとした。
 実際には労働者階級の女性の一時的な収入源となっていたプロスティテューションが、「売春する女性/それ以外の職場で働いている女性」として相互を切り分けるような表象が生まれた。後者は真面目に働いていて「健康」であり、前者は売春をしているから「不健康」な存在だとみなされる。田崎は次のようにいう。

 性病をコントロールしようという意図が働いて、ある集団が表象され、その集団のステレオタイプな偏見に満ちたイメージがつくられていくわけである。自分たちとはまったく違う人間が売春をするのであるというような、いわゆる「一般大衆」の思い込みがこういう時代にできあがってくる。
(35ページ)

こうなると病気の管理の点から、プロスティテュートは専業化していたほうが楽である。特定の集団を見張っている方が、不特定多数の人たちへの性病防止を試みるより簡単だからだ。田崎は「公衆衛生学、文学、新聞などによって形成された表象の後を追うようにして、集団としてのプロスティテュートが実体化されていく」ことを指摘している。
 この特定集団としてプロスティテュートを囲い込んでいく過程は、「よき女性は家の中にいる」という文化の形成と同時である。一部の労働者階級の女性は、ブルジョワ階級の男性と結婚することで「奥さん」になることで階級上昇をはたす。他方のそれまで路上でもの売りなどをしていた労働階級の女性たちが、都市の再開発で追い出されててしまう。そのなかで、工場で働くようになった女性たちと、路上に残りストリートガール(売春婦)となった人たちに別れていく。つまり、19世紀の階級の分断と社会集団の分割、それから男女の家庭内外の配置がおこなわれていくなかで、それまで労働階級の女性たちの一時的な稼ぎ口であったプロスティテューションは、「かれら」として社会的に差別化されていったのである。そうしてプロスティテューションは、「奥さん」たちが住まう家庭のカテゴリーからも、工場で働くワークのカテゴリーからも外されてしまった。
 田崎さんはこのあと、「主婦/労働者」のカテゴリーを脱構築し、プロスティテューションの概念をもう一度作り直す可能性を示して論を締めている。
 以上のような田崎さんの文章のあと、この本はさまざまな論者による各論の主張に入っていく。上記は、非常に大きな問題を塊にわけ、抽象的な議論をしているが、これまで言われてきたことを概観しているように思う。
 私は、考えるところがあって、セックスワークについてもう少し記事を書きたいと思っているのだけれど、なかなか時間の都合もあって進まない。できれば以下の本を紹介できればいいと思っている*6。もちろん、私は「プロスティテューションをセックスワークとする」立場である。簡単ではない問題なので、ぼちぼちやりたい。

売る売らないはワタシが決める―売春肯定宣言

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セックス・ワーク―性産業に携わる女性たちの声

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「セックスワーカー」とは誰か―移住・性労働・人身取引の構造と経験

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*1:プロスティテュートとは、英語のprostituteで、prostitution(売春)をする人=「売春婦/夫」という意味を持つ。田崎さんは、ジェンダー区分を一度はずして、抽象的に思考するために、片仮名の「プロスティテュート」「プロスティテューション」という言葉を使っている。私は普段、田崎さんのいうところのプロスティテュートをセックスワーカーと呼ぶ。しかし、後述のように田崎さんは「セックスワーカー」を二つあるプロスティテュート・ムーブメントの一方の側が使う言葉として出してくるので、今回は私も田崎さんの語法に倣う。(ただし、私はカタカナで長すぎるのでよい語とは思わない)

*2:日本でも明治運動に大規模な廃娼運動があったわけだし

*3:それはいくらなんでも宮台さんへの過大評価だろう。日本の児童ポルノ法を変えるのがアグネス・チャンだと言うようなたぐいの。

*4:http://swashweb.sakura.ne.jp/

*5:http://mash-osaka.com/

*6:やってくれる人いないかな…