「もし〜だったら」のむなしさと力
sk-44さんから、私の「死刑を求めなくてよい社会を」という記事に対し、応答をいただいた。
sk-44「human being(反省と償いと、赦し)」『地を這う難破船』
全体を論じることはできないが、「赦し」について触れている一部分だけに、応答しておく。
「自身の近親者や恋人が残酷に殺されたなら」を基点としないなら「赦し」が問われることもない。真面目に言うなら、私個人は「赦し」のその意味もわからないし、意義があるとも考え難い。「赦す」も何も、「赦さない」理由と必要がわからない。博愛主義者であるわけではまったくないことは言うまでもない。
私は「自身の近親者や恋人が残酷に殺されたなら」を基点にして「赦し」を問うていない。私が起点にしているのは「私自身が残酷に殺されたなら」である。もう少しはっきりと書くべきだったが、私の前の記事で書いているのは、被害者当人と「赦し」と問題であり、被害当事者(遺族含む周囲の人たち)と「赦し」の問題ではない。
当人と当事者の概念の区分は、非常に難しい。遺族を「第三者」と呼ぶと、問題の本質がずれてしまうかもしれない。しかし、遺族と被害者当人は同じではない。たとえば、小林美佳「性犯罪被害にあうということ」の80ページから83ページには、家族からの二次被害による生々しい経験が綴られている。*1そして、次のように考察する。
その後、多くの被害者の意見を聞く機会があった。とても残念なことだが、家族から受ける二次被害は、とても多いようだ。
もともとある信頼関係がそうさせるのか、期待や思い込みがそうさせるのかはわからないが、被害者にとって、家族とは、とても近くて、とても遠いものになってしまう。
近いからこそ受けるショックは、被害者にとっても家族にとっても望むべきことではない。
被害者に対する情報の少なさや偏見や思い込みが、こうした亀裂に繋がってしまう。
(90〜91ページ)
- 作者: 小林美佳
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この当人と当事者の違いについては、障害者問題を論じる野崎泰伸「当事者性の再検討」で詳しく言及されている。また、障害者運動の古典とも言うべき横塚晃一「母よ!殺すな」には、「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばせねばならないのが我々の宿命である。」(27ページ)という一文がある。犯罪被害という問題を考えるときに、これらの障害者運動の積み重ねから、学ぶことは多いだろう。
私は、被害当事者が、被害者当人ほど怒りを抱かないと言いたいわけではない。諸澤英道「被害者感情を好転させる要因・悪化させる要因」(『現代のエスプリ』1995年7月号、66〜76ページ)では、むしろ遺族のほうが怒りが持続する傾向が報告されている。諸澤の報告では、重傷を負わせられた(殺されかけた)重傷者本人と、遺族の感情経過を取り上げている。重傷者本人の場合、事件直後では60%の人が「相手がにくい」と感じるが、三年後には30%に減少する。遺族の場合は80%以上の人が「相手がにくい」と感じ、三年後も80%のままである。また、重傷者本人の30%の人が「相手に仕返しをしたい」と感じ、三年後には10%に減少する。遺族の場合は、60%の人が「相手に仕返しをしたい」と感じ、三年後には40%近くまで減少はするものの、その割合は重傷者本人の4倍である。データの妥当性は十分に検討していないが、諸澤の報告のかぎりでは、被害者当人と被害当事者の感じ方は違うので、同じものとして扱うことはできないことは、わかる。*2
さて、光市の事件で、私が何かを考えるのに非常に難しいと思っているのは、この区分についてである。この事件では、「性暴力」と「殺人」が重なり合っている。多くの人が「強姦した上に殺した」という残虐性を強調して、この事件に言及している。しかし、難しいのは性暴力被害者で、他に生き延びた人はいるが、殺人被害者では生き延びた人はいないことだ。「殺人」という犯罪の特殊性は、被害者本人が存在しないことにある。これは、「赦し」という問題を論じるうえでは、非常に難しいことだ。
被害当事者は「私自身が残酷に殺されたなら」という仮定を基点に、被害者当人が味わっただろう苦痛を想像する。そして、その苦痛に寄り添うことで苦しむ。なぜなら、被害当事者は被害者当人を愛しているからだ。その苦しみをいかに和らげるのかは、社会にとって大きな課題である。同時に、被害者当人の不在をどう捉えればよいのか。性暴力被害者である小林さんには、親の偏愛をけっ飛ばすことができるが、殺人被害者には、それはできない。*3また、殺人被害者は不在であるがゆえに、赦すことはできない。そういう意味では、先の記事に私が書いた「赦し」という概念では、殺人の加害者は赦され得ない。なぜならば、加害者を赦せるのは「その瞬間に隣にいた」当人だけだからだ。
私は、先の記事では、この点を曖昧に書いた。それは、私の偏向に基づいている。どこまでも、私が光市の事件を「強姦”殺人”」ではなく「”強姦”殺人」という性暴力に焦点を当てていることに理由があるだろう。あまりにも私が、性暴力という問題にコミットしてきたからだ。「代弁を拒む」というのは、性暴力という問題に取り組む以上、避けられない。幾度となく「もし、私が〜だったら」という自問自答を繰り返しては、その全てが空想であることを思い知らされる。「もし、私がストリートレイプされたら」「もし、私が児童性虐待を受けていたら」「もし、強制売春させられていたら」という仮定法は、今、私が安全な場所にいるからこそ使用できる。仮定法を使うかぎり、思い知らされることは「私はそのような経験がない」ということである。そして被害者当人の「あなたにはわからない」という批判に対し、絶句するしかない。もう少し正確に言えば、同じ被害者同士であっても、受けた被害内容もおかれている現状はあまりにも違う。そこで、究極的な「私の苦しみは、あなたにはわからない」という命題に突き当たる。
そして、「殺人」とは、この命題から出発しなければならないことが特殊である。遺族は、仮定法から出発するしかない。そして代弁する。それ以外に、殺人という被害を語る方法がないからだ。「死者の言葉を語る」ことを強いられる。ある女児を、性虐待のあとに殺された遺族は「(被害者当人)は二度殺された」と語った。それが、遺族のリアリティをもった言葉であるから、私は遺族の悲しみをできるかぎり受け止めたいと思う。しかし、二度殺されたのかどうかは、わからない。バカみたいだが、繰り返すしかない。私にはわからないし、誰にもわからない。
おそらく遺族もまた、この「わからなさ」に突き当たり、本村さんも付き合ったのではないか、と推察する。なぜならば、被害者たちはお互いに議論を繰り返し、以上のような指摘をし合っているからだ。それでも代弁しなければならない社会を、私は肯定しない。だから、被害者参加制度も肯定しない。奪われ、何もわからなくなった苦しみに、意味を付与し、救済をする社会制度を作ることを肯定しない。*4
「私自身が残酷に殺されたなら」という問いは無意味である。答えは「わからない」以外にありえない。しかし、それこそが、もっとも「殺人の残酷さ」を担保するものだ。語りえない残酷さこそが、「殺人の残酷さ」である。
そして、国家による殺人である「死刑」も同じことだ。死刑がいかに残酷なのかについて、今まで多くの言葉費やされてきて、それが無駄だとは思わない。死を与えることについて、考える重要な手がかりである。しかし、一番残酷なことは、加害者が殺されることに、なんの意味づけもできないことだ。ただ、人を一人殺す、という行為である。その人の存在が消し去られる、それだけのことだ。死刑によって、加害者に何が起きたのか、誰にもわからない。
ジャック・デリダが、「死を与える」という主題で引用するのは、旧約聖書でアブラハムに与えられた試練である。アブラハムは、焼き尽くす捧げ物(ホロコースト)として息子イサクを殺すことを命じられる。しかし、その理由は一切告げられない。アブラハムは逡巡した挙句、イサクを殺そうとしたその瞬間、神に「殺さなくてよい」と赦された。
- 作者: J・デリダ,廣瀬浩司,林好雄
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そして、デリダは次のように述べる。
だが、倫理に対するアブラハムの憎しみ、つまり近親者(家族、友人、隣人、民族、そして究極的には人類全体、類あるいは種)に対する憎しみは絶対に苦痛に満ちたものであり続けなければならない。もし私が憎んでいる者に死を与えるならば、それは犠牲ではない。私は自分が愛している者を捧げなければならない。死を与えるまさにその時点、まさにその瞬間に、私は自分が愛している者を憎むようにならなければならない。私は自分の近親者を憎み、裏切らなければならない。すなわち、憎しみの対象としてではなく(それならばあまりにも容易だ)、愛する対象としてあるような近親者に対して、犠牲としての死を与えなければならないということである。私は彼らを愛するかぎりにおいて、憎まなければならない。憎むべき者を憎むのならば、そのような憎しみはあまりにも容易で憎しみとはいえない。憎しみとはもっとも愛する者を憎み、裏切ることである。憎しみは憎しみたりえず、愛に対する愛の犠牲でしかありえない。愛してないものについては、憎む必要もないし、誓いに背くことによって裏切る必要も、死を与える必要もないのだ。
133〜134ページ
この地点まで来て、私はおそらくsk-44さんの主張に賛同することができるだろう。加害者に、「死を与える」にあたうほどに愛すること。「もし、加害者を誰よりも愛していたら」、私は加害者を殺し、死刑を肯定するだろう。愛の紐帯により、私は加害者を殺す。
私は博愛主義者だが、私は人を殺さないという宣言をしたわけではない。もっとも愛するものだけを、私は殺す。加害者を愛しぬいたとき、私は本当に加害者を殺せるのか?しかし、「もし、加害者を誰よりも愛していたら」という仮定も、また、仮定に過ぎず、わからないとしか言えない。なぜならば、私はそれほどもまでに加害者を愛していないからだ。そして、「犠牲者として殺す」ことができるまで愛する。そして愛し抜いたそのとき、神はアブラハムを赦した。結局、アブラハムはイサクを殺さずにすんだのだ。赦されれたのは、イサクではなく、イサクを生んだアブラハム、すなわち加害者を生んだ<私たち>である。
ここに逆説がある。「愛による紐帯」により、死刑を遂行することを制度化すれば、死刑にする必要がなくなることだ。私たちは、死刑になるたびに、加害者を愛しぬかなくては、加害者を殺せない。こんな制度は作れない。これは制度ではなく、私的領域にとどめられるべきものだ。私は人権派と呼ばれる思想や、生きているほうが加害者にとって残酷だから、死刑を廃止したいわけではない。私は、加害者の死に関わりたくないから、死刑を廃止したい。死にたいのならば、勝手に死ねばいい。その死に巻き込まれるほどに、私は加害者に責任を負いたくない。
だからこそ、別の形で、加害者と関わりたいと思うし、責任を負いたいと思っている。私には、私にできる範囲で、加害者について考えたい。そんな「死を与える」なんてしんどいことはしたくない。私は第三者であるかぎり、「死を与える」ことはない。それは私の人生に関わらない人たちの加害行為について、死刑を求めないということだ。今まで、私は死刑廃止を明言したことはない。なぜならば、その「かぎり」を抜いてしまえば、私は「死を与える」ことについて「わからない」としか答えないからだ。この微妙な違いについて、また書くことができればいいと思っている。私は「すべての生命は尊い」と思っていないから、「すべての生命は尊い」と言っている、というそういう話だ。
追記
先の記事と、「赦し」の概念が、あまり固定して使えていません。私の中でも探りながら書いているので、整理していけたらと思います。
追記2
「ここに逆接がある」以降の一部を書き換えました。一回目のみたひと、すんません。以下、前バージョン。
以上のことを、自分で書きながら、「私は大丈夫だろうか?」と思う。こんなわけのわからないことを制度化してはならないと思う。そして、死刑になるたびに、加害者を愛しぬいていたら身が持たない。これは制度ではなく、私的領域にとどめられるべきものだ。私は人権派と呼ばれる思想や、生きているほうが加害者にとって残酷だから、死刑を廃止したいわけではない。私は、加害者の死に関わりたくないから、死刑を廃止したい。死にたいのならば、勝手に死ねばいい。その死に巻き込まれるほどに、私は加害者に責任を負いたくない。
だからこそ、別の形で、加害者と関わりたいと思うし、責任を負いたいと思っている。私には、私にできる範囲で、加害者について考えたい。そんな「死を与える」なんてしんどいことはしたくない。私は第三者であるかぎり、「死を与える」ことはない。それは私の人生に関わらない人たちの加害行為について、死刑を求めないということだ。今まで、私は死刑廃止を明言したことはない。なぜならば、その「かぎり」を抜いてしまえば、私は「死を与える」ことについて「わからない」としか答えないからだ。この微妙な違いについて、また書くことができればいいと思っている。私は「すべての生命は尊い」と思っていないから、「すべての生命は尊い」と言っている、というそういう話だ。