原田正治「赦せないからこそ、会いに行く」(『くらしと教育をつなぐ We』)

 昨年の7月に、私が司会をさせていただいたイベント「赦す権利〜被害者救済と修復的司法の可能性〜原田正治さんを囲んで」*1の記録が活字化されました。「赦せないからこそ、会いに行く」というタイトルで、『くらしと教育をつなぐ We』に、原田さんの講演部分が掲載されています。なかなか一般書店では手に入りにくい雑誌ですが、フェミックスのウェブサイトから通販で買うことができいます。

Femix information website
http://www.femix.co.jp/

 原田さんは犯罪被害者遺族です。弟を殺され、過酷な状況を生きてこられました。加害者の長谷川さんは、裁判によって死刑判決をうけます。原田さんは、長谷川さんを深く憎んでいましたが、ある日、思い立って面会に行きます。その対話の中で、快復の予感を得て、面会を続けたいと考えます。しかし、死刑が確定となり、長谷川さんとの面会を阻止されます。もっと話がしたいと求めても、原田さんの要請は退けられ、長谷川さんは死刑を執行されます。この経緯は、原田さんの著書で詳しく述べられています。

弟を殺した彼と、僕。

弟を殺した彼と、僕。

私もこのブログで紹介しました。

原田正治「弟を殺した彼と、僕。」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090720/1248103729

この講演会では、こうした経験から考えた「対話や赦すこと」について、お話されました。
 原田さんは刑事事件において、被害者と加害者が分断されることを指摘します。そして、被害者にとって「罰を受けること=償い」ではなく、罰と償いは別であると話します。罰は必要ではあるが、加害者が死刑執行されても、被害者には何も残らないのだ、と自らの経験を元に語られています。
 原田さんは、死刑廃止のイベントにも参加されていますが、その経緯は複雑です。原田さんは死刑判決が出て、怒りが少し減ったし、加害者がいつか死刑が執行されるとわかっているからこそ、会いに行く気になったのだと話します。そして、その中で、死刑廃止について考えるようになったのです。原田さんは「気持ちの上では赦せない」とはっきりと述べた上で、だからこそ会いに行くのだと言います。赦せないからこそ、彼から弟や事件についての話を聞きたい。ここは大きなポイントだと思います。「赦すために、会いに行く」のではなく、「赦せないからこそ、会いに行く」。講演録のタイトルにもなった、この状況をどう考えるのは非常に大きな問題です。講演会の後でも、「赦せない、と思うのに、なぜ会いに行くのか」という質問がフロアからなされました。この「なぜ」はきっと原田さん自身にもはっきりとはわからないでしょうし、「赦し」という問題の一番の謎だと思います。ただ、原田さんのお話からわかることは、「赦せない」ときにも、対話の道は開かれているということです。この対話の問題について、講演会で、原田さんは被害者参加制度にも触れ、次のように言われています。

 二〇〇八年末に、被害者参加制度というとんでもない制度ができました。この制度は、法廷で被害者と加害者が面と向かって話ができる、自分の気持ちを語れる場だというんです。でも、ああいう公の法廷の場で、自分の思うことやふだん話すようなことを言えるんだろうか、本当に本音が出るんだろうか、というと疑問があります。
 ある程度気持ちが楽になるような形でないと、真実は出てこないと思うんです。だから本音が出てくるような場で面会をしたいと思ってます。もちろん、嫌だ、会いたくないという方がいらっしゃるのは当然だと思いますし、その気持ちは尊重しなきゃいけない。被害者の気持ちは千差万別で、本当にそれぞれ思いが違う。ただ、現状では、まず面会しちゃいけないという規則があるわけです。これを逆に、面会してもかまわないという規則に変えたらどうかと。その場合、双方が、いやおれは面会なんかしたくないということであれば、別に面会なんてしなくたっていいわけです。
 私が長谷川君と面会しようとしたときに、拘置所側がどう言ったかというと、拘置所の職員が長谷川君に対して、私が面会することを嫌がっている、迷惑してるんだ、と言ってる。私は迷惑するどころか、会わせてくれと陳情しているにもかかわらず、長谷川君に対してはそういうことを言って、面会させなかったんです。
「赦せないからこそ、会いに行く」29〜30ページ

こうした被害者、加害者の現状や、その声はいまだ世間の人たちに届かない状況にあります。代わりにマスメディアを通して作られた「被害者像」「加害者像」が流布します。その最たるものが光市の事件であったと、原田さんは指摘します。
 そして、原田さんが代表を務める「Ocean 被害者と加害者の出会いを考える会」を紹介されました。原田さんは、いま、死刑制度はなくなったほうがいい、という思いが根底にあるといいます。「被害者救済とはなにか?」「死をもって償えるのおか?」という疑問を、原田さんは投げかけます。加害者の償いとは、生きて謝罪をし続けることではないか、と提起するのです。
 講演録では、こうした原田さんのお話がコンパクトにまとめられ、再構成されています。残念ながら、フロアの質疑応答は紙幅の都合上載せられませんでしたが、当日は盛況に議論が行われました。それだけ、原田さんのお話は重く、聴講者の気持ちをゆさぶるものだったのだと思います。こうして活字になったことを、参加者のひとりとして、うれしく思います。
 また、講演録に付随して、記録の再構成をした冠野文さんがコメントをしています。原田さんも長谷川さんも、事件後から考えや感情がずいぶん変わってきています。そして、それはどちらも同じその人でした。「人は変わりうるということ」を原田さんは、ご自身と長谷川さんを通して感じてこられたのではないか、と述べています。その上で、冠野さんは、「他人の気持ちに共感しづらい加害者の場合」について筆を進めています。冠野さんは、次の本を挙げます。

死刑でいいです --- 孤立が生んだ二つの殺人

死刑でいいです --- 孤立が生んだ二つの殺人

冠野さんは、少年院で加害者と面接した医師が「反省は難しいと思います」とコメントしている点を参照します。加害者は、コミュニケーションをとることが苦手で、広汎性発達障害アスペルガー症候群と診断されたといいます。当人を孤立させず、周囲がサポートすれば事件は防げたかもしれません。ですが、殺人が起きました。加害者は「死刑でいいです」と述べ、謝罪もありませんでした。事件のくわしい事情も、遺族は知ることができませんでした。死刑が執行されたが、これが償いなのでしょうか。冠野さんは、「償いではない」とは言いません。冠野さんは、今も昔も出版される死刑に関する本を読み、共感したり反発したりするそうです。そして、「私は正直『よう答えません』」と思うし、もっと考えたい思う、と原稿を締めくくっています。
 原田さんは、精力的に講演会などに出演され、お話をされています。また、Oceanの活動に参加される当事者も、少しずつ増えてらっしゃるそうです。賛同人や寄付も募集していますし、犯罪被害加害の問題に、直接的に問題に関わるきっかけにもなると思います。ご興味をもたれたかたは、ぜひアクセスしてみてください。

「Ocean 被害者と加害者の出会いを考える会」
http://www.ocean-ocean.jp/